第三章 悪戯   高倉有隆・2019年7月15日

「いい加減、出て行ってくれないかなぁ」

 近所の老人が、大袈裟にため息を吐いた後に声を掛けてきた。


「すみません」高倉有隆はその老人に謝った。


 高倉は掃除道具を持ち、早朝からいつも通りごみが散乱しているマンションのごみ共有スペースを掃除していた。高倉だけではなくマンションの他の住人の分まで荒らされているのだ。高倉はため息を吐いた。


 高倉はごみ掃除を終えると、オートロックマンションの共有スペースにある郵便ポストに向かった。郵便ポストの中でも一際目立つポストに目をやった。大量のチラシや手紙が投函され、ポスト自体に悪戯書きがされてある。黒い文字で“死ね”と書いてあった。この文字を何度見た事だろうか。高倉はポストに近寄り掛けていた眼鏡を右手で上げて、悪戯書きを間近で見た。多分油性マーカーで書かれていると思ったので、これは除光液で拭こうと高倉は思った。


 高倉は掃除道具を一度地面に置いて郵便ポストの中身を取り出した。


 中身は細かく見ていないが、まだどうせ悪質な手紙か、嫌がらせのために登録された宗教や在宅学習などのパンフレットの類だろうと高倉は思った。


 高倉は掃除道具と郵便物を持って、オートロックのドアの横にある管理人室に目をやった。管理人のいるマンションに引っ越したはずなのに管理人がすぐに辞めて後任者が居なかったので、しばらく管理人不在が続いていた。


 悪質な悪戯の犯人捜しのために、管理会社に連絡して共有スペースの監視カメラを見て貰おうか悩んだが、どうせ今回もマスクに帽子姿の顔の見えない人間が映っているだけだろうと思ったし、何より出て行って欲しいと言われる事が嫌だった。


 高倉はマンションの自宅に戻ると、玄関の靴箱の棚の上に郵便物を置いた。高倉は郵便物を仕分けした。不要なチラシやパンフレット、手紙を靴箱の横に置いてあったごみ箱へ捨てた。


「有隆君おはよう」居間の扉が開いて、笠木が廊下に出てきて高倉に声を掛けてきた。


「創也おはよう。寝ぐせ酷いよ」高倉はまだパジャマ姿の笠木の頭を見て言った。


 笠木の黒髪のウェーブがかった髪の一部が上部に逆立っていた。低身長で幼い顔立ちのせいかまるで高校生のように見えたが、笠木はもう二十六歳だ。笠木とは五つ年が離れているが、もう少し離れている様に見えた。笠木とは同居している。


「今日も郵便物多いね。変なの入ってなかった?大丈夫?」笠木が玄関に置いたごみ箱の中を見て心配そうに聞いてきた。


「大丈夫。こういうのは俺が対処するから気にしないで」高倉は笠木の背中を押して、玄関の横にある洗面所に連れて行った。洗面所の鏡の前に笠木を立たせた。「ほら、寝ぐせ酷いでしょ。今日は祝日だし創也も出掛けないなら、このままでも大丈夫だろうけど」


 洗面所の鏡の前には身長差のある二人が映っていた。黒いワイシャツを着てシルバーのスクエア型のシンプルな眼鏡をかけて、分厚い前髪で額を隠している自分と、身長163センチの細身で小柄な、青いパジャマを着た笠木が映っていた。笠木は茶色がかった瞳に二重の大きな目をしており、声さえ高ければ女装をしても違和感はないだろうと高倉は思ってしまった。高倉は身長178センチだったので、笠木の顔が自分の肩辺りに見える。


「ほんとだ。寝ぐせ酷いね」笠木は鏡に映った自分を見て笑った。「パーマだった頃は寝ぐせがあっても誤魔化せたんだけど」


「パーマも似合ってたけど、今の髪型も似合うと思うよ」高倉は言った。

 笠木は出会った頃からずっと明るい茶髪のパーマヘアだったが、転職活動を機にパーマを辞め、黒髪に戻していた。パーマヘアよりも今のウェーブがかった黒髪の方が、色気があり笠木には似合っているように見えた。今は寝ぐせが酷いが。


「本当?元カレには天然パーマを隠すためにパーマをかけたらって言われたんだけど」笠木は苦笑いした。


「元カレはセンスがなかったんだろうね。天然パーマってほどじゃないよ」高倉は言った。


 高倉は笠木から昔付き合った男の話をされるのはあまり好きではなかった。笠木の昔付き合っていた恋人はバイセクシャルで、笠木と同時に女性とも交際をした後、女性との結婚を選んで笠木を捨てていたと聞いていた。


「ありがとう。今の髪型を褒められるのは嬉しいよ」笠木は笑った。


「俺ちょっとまだやる事あるから顔洗ってなよ」先程の郵便ポストの悪戯書きを思い出して高倉は言った。


「やる事?」笠木は眠そうな顔をして、高倉の方を見て聞いてきた。


「うん」高倉は内容を笠木に言うつもりはなかった。「朝ごはんも先に食べてていいよ」


「え、朝ごはんは一緒に食べたい。もしかしてまた嫌がらせ?」笠木は怪訝な顔をして言った。


「うーん、そうだね」高倉はこれ以上誤魔化せないと思い白状した。「創也は気にしないで」


「また動物関係じゃないよね」笠木は不安そうに聞いてきた。


「違うよ」高倉は言った。以前猫の死骸が自宅のマンションの扉の前に遺棄してあった事を思い出してしまった。


「前にさ、泥棒にも入られたし鍵は変えたけど怖いね。一階の玄関だけじゃなくて廊下にも監視カメラがあったらいいのに。前のアパートよりはましだけど」笠木は高倉を見ながら言った。


「巻き込んで本当にごめんね。創也、まだ前に渡した催涙スプレー持ち歩いてる?」高倉は笠木の顔を見て聞いた。


「一応ね。でも女の子じゃないから必要ないって。それに僕ドジだから催涙スプレーを相手にかける時に向きを間違えて自分にかけそう」笠木は苦笑いした。


「催涙スプレーじゃなくてスタンガンでも携帯する?」高倉は真顔で聞いた。


「スタンガンなんて物騒なもの持てないよ」笠木は笑った。


 笠木は高倉を見上げた後いきなり抱き着いてきたので、高倉は驚いた。


「どうしたの」高倉は言った。

 笠木の体温が伝わってきた。笠木の頭が丁度自分の顔の間近にあり、笠木の普段使用しているシャンプーの匂いがした。高倉は安心感を覚えた。


「何かあったら僕が守るからね。一人で抱え込まないで撲に相談してね」笠木は言ってきた。


 高倉は一瞬黙った。笠木が自分の事を本当に心の底から大切に思ってくれているのか疑問だった。ただ同情しているだけではないのか。高倉は複雑な気持ちになったが、満足している自分もいた。


「ありがとう。何かあれば相談させて貰うよ」高倉は笠木に微笑んで言った。


 高倉が洗面所で笠木の頭を撫でていると、インターホンが鳴った。


「誰か来たみたいだ。俺が出るから顔洗ってていいよ」高倉は笠木から手を離し、居間にあるインターホンに向かった。モニターを見ると、オートロックの玄関の前に立つスーツ姿の男二人組が見えた。


 高倉は不信に思いしばらく通話ボタンを押さずにモニターを見ていたが、映っている男のうち一人がスーツの胸ポケットから何やら手帳のようなものを取り出しモニターに向けて掲げたので、高倉は既視感を覚えた。この手帳は何度も見たものだ。


「はい」高倉はインターホンの通話ボタンを押した。


「北海道警だ。高倉有隆だな」手前で手帳をかざしていた白髪の眼鏡を掛けた警察官は手帳を降ろして言った。「今すぐオートロックを開けろ」


「どうされましたか」高倉は怯まず聞いた。


「お前に殺人容疑がかかっている。今すぐドアを開けろ」警察官は言ってきた。


「有隆君、どうしたの」警察の声が聞こえたのか、笠木が洗面所から居間にやってきた。顔を洗おうとしたばかりのようで、頭にヘアバンドを付けている。「今殺人って言った?」


「俺は何もしていません」高倉はモニター越しに言った。


「お前のやった証拠がある。ドアを開けないなら無理矢理入るぞ」警察は言った。


 高倉はモニターの下にある「開錠」ボタンを押した。オートロックのドアが開き、モニター越しにマンションの中に入って来る警察官が見えた。


「有隆君、どういう事。何で開けたの。警察が来るの?」笠木はヘアバンドを外し、高倉の腕を掴んで聞いてきた。


「大丈夫だよ。俺は何もしてない」高倉は笠木を安心させるために、笠木の腕を掴んで言った。「信じて。本当に何もしてない」


「でも今容殺人容疑って言ってたよね。捕まったりしないよね」笠木は高倉を不安そうに見て聞いてきた。


「何もしてないんだから捕まるわけないよ。創也はとりあえず自分の部屋に行ってて。顔洗った?」高倉は聞いた。


 玄関のチャイムが鳴った。もう警察が来たのだろうかと高倉は驚いた。


「もう来たの?」笠木が不安そうに玄関の方を見て言った。


「とりあえず創也は自分の部屋に行ってて」高倉はそう言うと玄関に向かい、サンダルを履いてドアに近寄り、チェーンを外し玄関のドアを開けた。ドアを開けた瞬間、目の前に立っていた警察官二人が手帳を目の前に掲げた。


「北海道警だ」先程の白髪の眼鏡の警察官がそう言い、手帳をスーツの胸ポケットに仕舞った。その後ろに立っていた若くて背の高い警察官も同様の仕草をした


「高倉有隆、殺人容疑でお前に任意同行を求める」若い警察官は言った。


「有隆君」笠木が高倉を呼ぶ声が聞こえた。


 高倉は驚きながら口が開いたまま沈黙した。






「私は何もしていません」高倉は取調室の椅子に座り同じ事を言った。


「だが遺体の上に捨ててあった煙草の吸い殻からは、またお前の唾液と指紋が検出された」白髪に眼鏡の警察官は取調室で、高倉の目の前に座って無表情で言った。「これを盗まれたとお前は言っていたが、煙草だけ盗むなんてありえないだろう」


「ですが、盗まれたと思うのは事実なんです。帰宅したら吸い殻だけ無くなっていた事がありました。捨てた形跡もないし、玄関の靴の配置も変わっていて誰かが侵入した形跡がありました。気味が悪かったのでその後すぐに自宅の鍵を変えていますが、その時に盗まれたものとしか思えません。前にも言いましたが。以前の階段の件と同じです。私は殺人は犯していません。冤罪です」高倉は言った。


「だが通報された履歴はない。泥棒に入られた事が分かっていたなら何故通報しなかった」目の前の警察官は言った。


「貴重品は盗まれていませんでしたし、立場上通報を躊躇いました」高倉は包み隠さず言った。


「殺人鬼の証拠隠滅仲間だからか」目の前の警察官の横に座っていた、背の高い若い警察官が横から口を出してきた。高倉は苛立った。


「そうですね。警察の手をこれ以上煩わす訳にはいかないと思いましたので」高倉はオブラートに包まず答えた。「先程もお伝えしましたが、その日その時刻は自宅で仕事をしていました。私の会社から支給されている業務用パソコンには監視ツールも入っているはずなので、そのツールを確認したら長時間離席していない事が分かるはずです。証拠として確認して貰って構いません。それに同居人もその日ずっと自宅に居ました。私にはアリバイがあります」


「パソコンは確認させて貰う。それまで拘束する。あとお前の同居人のアリバイも確認する」目の前の警察官は言った。


「創也は何も悪くない。俺も何もしていない」高倉は苛立ちから声が大きくなった。つい“私”ではなく“俺”と言っていた。


「お前は執行猶予中だ。この間に罪を犯したらどうなるか分かっているよな」若い警察官がまた口を挟んできた。高倉は頭痛がした。


「理解しています」高倉は無表情で冷静に言った。「ですから何もするはずがないでしょう。何かしたら執行猶予が取り消される事は分かっています」


「信用ならないな。犯罪者の言う言葉ほど信用出来ないものはない」若い警察官は言った。


「それ以上は人権侵害になるから止めておけ」目の前の警察官が言った。若い警察官は黙った。


「俺は本当に何もしていません。冤罪です。本当の犯人を捜す為なら何でも協力します。お願いします。創也も何もしていません。俺を疑うのは構いませんが、創也は本当に何も悪くありません。彼を巻き込むのは止めてください」高倉は必死で懇願した。

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