第63話 むせび泣く霧笛の音 

 釧路は今日も霧に包まれている。テールランプの赤い灯も、10メートルくらい過ぎればもう見えなくなる。まるで、試験官の中で怪しい薬を混ぜると出てくる煙のようだ。ところがこれよりもっと怪しい店が末広町に登場することとなった。


「美紗希、この前あんたの店に行ったとき、上海租界のことを言ったのを覚えてる?」

「よく分かんないけど、四馬路のマホロバとかなんとか言ってたわね、あれは何のことなの?」

「じゃあ今から行って詳しく説明するからさ、笛園で待っててよ」ということで、BAR楡のママにさせられた美紗希は、訳が分からない話の続きを汐未からを聞くことになった。


笛園に現れた汐未はトレンチコートを脱ぐと。下着が見えそうなくらい上まで割れた、ど派手なチャイニーズドレスを着ていた。

「汐未、一体どうしたのそんな恰好で、ここは喫茶店よ、子どもだって見てるのよ」

と、驚く美紗希に「あんたは明日からこれを着て、女秘密工作員を演じる女優になるのよ」と言った。


一体何をしようとしてるのか、と、怪訝な顔をしている美紗希に「四馬路ってのはさ、昔 中国に、上海租界という怪しい店がいっぱいある街があって、ピストルをガンガン撃ちまくる工作員が暗躍してたのよ。それでさ末広町に上海租界と同じような店を作ったら、流行ると思って、㋥佐々木の甚弥さんに相談したら『いい考えだ、絶対に儲かる、金はいくらでも出すから、すぐにやれ』って言ったので、BAR楡を明日から秘密工作員が暗躍する寸劇ショーを見れるナイトクラブにして、あんたは女秘密工作員を演じなさいよ。男の秘密工作員は明日連れて来るからさ、楽しみにして待ってなさいよ」と、いって、呆気に取られて「はあぁ?」としか言えなくなった美紗希を残して、ど派手なチャイニーズドレスで。子どもたちの前を闊歩して出て行った。


汐未と呼応するように高弁は、無二の親友 沢村を笛園に呼ぶと、黒光リするピストルを取り出して、沢村に銃口を向けた。


「先生、何をするつもりですか!俺はまだ死にたくはありません、何でもしますからお願いします。どうぞそのピストルを仕舞って下さい」と懇願する沢村に問答無用とばかりに高弁は、グイッと引き金を引いた。


すると沢村の顔はピストルから発射された水で、ビショビショになった。

「あぁ~助かった」とため息を吐いた沢村に「お前は明日から、高倉健も小林旭にも回って来なかった役を演じる俳優だ。

ホステスのお姉さんたちも応援してるから、アカデミー賞を目指して頑張ってくれ」といって、トレンチコートとハンチング帽を渡した


「先生、俳優だとかアカデミー賞だとか、これは一体なんの真似ですか」

「お前、上海は知ってるな?」


「上海くらい知ってますよ、中国の街でしょ」

「そうだ、その上海に昔、上海租界という街があった。そこにはお前が好きなストリップとか、いろんなショーをやっているナイトクラブがいっぱいあって、そこでは世界中の秘密工作員が暗躍していた。その中には美人の女秘密工作員もいて、バンバンとピストルを撃ったり、あれが好きなヨーロッパの大使館員をベッドに誘いこんでは、あれをやるふりをして、情報を盗んでたんだ。そんなナイトクラブが末広町にできることになった。

今美人女秘密交工作員にベッドに誘われて、もみくちゃにされる俳優を募集してたので、俺もやりたかったけど、お前を推薦した。どうだいい話だろ」


「先生、本当に女にもみくちゃにされるんですか?」

「本当だ、それに1日に3回 出演するだけで、出演料も貰えるんだから、いうことなしだろ。お前って本当に羨ましいヤツだな」


「先生、このトレンチコートとハンチング帽は何ですか」

「ピストルとトレンチコートとハンチングは昔から、秘密工作員の三種の神器といわれてる。だからこれは秘密工作員の身分証明書だ」


「先生、女秘密工作員は何を着てるんですか」

「女秘密工作員はパンツが見えそうなくらい、上まで割れたチャイニーズドレスと決まってる。だからといってパンツを触っちゃダメだぞ。あれは触るものじゃない。見るものだ。分かったか」


「見たら触りたくなるもんでしょ、それが出来ないなんて、ひどいじゃないですか」

「じゃあ、仕方ない。三回に一回は触ってもいいことにする。だけどそれ以上はダメだからな、それ以上やりたくなったときは、自分で始末しろ、分かったか」


「へい、分かりましたよ。自分でシコシコってことですね。ところで先生、女秘密工作員は誰がやるんですか」

「お前と一緒にニュー東宝に行ったとき、お前とダンスをしたホステスがいただろ、覚えてるか」

「覚えてますよ、美紗希って子ですね」

「そうだ、その美紗希が今はBAR楡という店のママになった。お前は美紗希の共演者だから、ひょっとしたら、石原裕次郎と北原三枝みたいになるかも知れないな。

本当に羨ましいヤツだな」

「ヘッヘッヘ、役得ってもんでしょ」

ということで、BAR楡を作った楡木の夢は、上海から末広町に場所を変えて実現することとなった。


☆☆☆


沢村は当たり屋を演じていた経験と、指が一本ないことが功を奏して、見事に秘密工作員を演じきった。おまけにパチンコで培った指使いは、ピストルの引き金を引くときも、美紗希のパンツを触るときも、そのリアリティさは、東映や日活の映画を凌ぐほどであった。

美紗希は段々と演技になれて来て「見られるって気持ちがいいものね、洋子の気持ちが分かってきたわ」と言った。


☆☆☆


12月になった。 末広町はどの店も、クリスマスツリーのランプが、キラキラと点滅している。

ニュー東宝は今日も、ホステスに贈るプレゼントを持った客で満員の盛況だ。


汐未が指名された55番テーブルに向かっていると、ホールマネージャーが寄って来て、「150番テーブルでご指名です」と言って、代わりに55番テーブルに付くホステスを連れてきた。

キャバレーは自分を指名した客がダブった場合、代わりのホステスが付いても、指名料と売り上げの歩合は指名されたホステスがもらうことになっている。

これを完全指名保証という。

完全指名保証をもらった汐未は、150番テーブルに向かった。

150番テーブルには横浜に行ったとき、ブルースターラインヴィーナス号Ⅲで出会った無線通信士の門脇が待っていた。


門脇は「船の中で買ったのでもしかしたら、汐未さんも同じものを買ったかも知れませんが」といって、ユニオンジャックの包装紙に包まれた小箱を汐未の前に置いた。

開いてみると、欧米のフアッションモデルに愛用者が多い、女性用としてはやや大きめの、腕時計が入っていた。


「僕は女の人にプレゼントをするのは汐未さんが初めてなので、なにを贈ればいいかと考えました。こんな物ですけど受け取ってもらえますか。気に入ってもらえればいいのですが」と、門脇は言った。


ホステスをしていれば、プレゼントをもらうことは珍しくはない。

今までにも何度か、高価なプレゼントをくれるといった客はいた。しかし下心が見えていて貰う気にはならなかった。だが門脇がくれた腕時計はすんなりと受け入れることができた。

門脇が汐未の左手に時計をはめてくれたとき、ひんやりとした時計の感触と、門脇の指の温かさが同時に伝わってきた。この温かさが腕から胸に向かって徐々に、熱く上ってくるような気がした。

「本当に頂いてもいいのですか」といったあとには、続ける言葉が浮かんでこなかった。ただジーンとこみ上げてくる感情は、幼かったころに感じた、懐かしい甘酸っぱい気持ちを思い出させた。

「ダンスをしませんか」といわれてフロアに立った。甘く切ない曲にあわせて、チークダンスを踊っていると、この曲がこのままずーっと、いつまでも続いてほしいと思った。


席に戻ると「末広町を案内して下さいとFAXを送りましたけど、今日はどうでしょうか」と門脇が言った。

汐未はこの一言を待っていたような気がした。

「ええ、ご一緒したいと思います」と言って外に出ると、末広町はネオンの灯もかすむほど霧が濃くなっていた。

二人はただ冷たい風を頬に受けながら、凍った道を、コツコツと靴音を立てて歩いた。

冷たくなった汐未をいたわるように肩を引き寄せて「汐未さんはニュー東宝に入って何年になるのですか」と聞いた。

「12年になります」と答えて汐未は思った。

12年間毎日、幸せになりたいと願いながら、必死になってやってきた。

少しはお金も入ってくるようになった。だが幸せと感じることはなかった。

でも今ここにいる自分は幸せな気持ちに満ちている……今日という日は、この人と出会うために与えられた日なのではないだろうか………と思った。


気が付くと釧路川のほとりまで来ていた。霧の中にぼんやりと幣舞橋が見えた。

遠くから「ヴォーッ、ヴォーッ」と、むせび泣くような霧笛の音が聞こえてきた。




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