第59話 就任祝い
ヴォ―ッ、ヴォーッと霧笛が鳴っていた。釧路は今日も霧に包まれている。
「俺は船で食べるから、洋子ちゃんは寝ててもいいよ」
「そんなのはダメよ、和夫さんは今日から船に乗るんでしょ。家にいるときは一緒に食べるのよ」
「俺のことより洋子ちゃんは、体を大事にしないとダメだよ」
「大丈夫よ、赤ちゃんは順調だから心配しないでいいわ」
午前2時 寿町のマンションでは洋子が味噌汁を作っていた。
漁船員にとっては、これが普通の朝食の時間だ。無線通信士の試験を終えた和夫は今日から、本来の仕事である漁船に乗る。合格してもしなくても、会社から与えられた陸上勤務は試験が終わるまでだ。
もし受かれば近海漁の船に乗っても、遠洋漁業船団に乗っていたころよりも高給がもらえる。そのために寝る時間も惜しんで勉強した1年間だった。
もし自分ひとりなら、ここまでは頑張れなかった。
洋子のお腹を撫でて、「ありがとう」と言って、温かい味噌汁を飲んだ。
近海とはいっても北方4島の近くから、オホーツク海まで行く。帰って来るのは一週間後だ。そのころには試験の結果の通知が来る。
和夫は期待と不安が入り混じった気持ちで船に乗った。
港に向かう和夫に「行ってらっしゃい」と言ったあと、洋子の胸に去来したのは
不二洋服店時代の5年間だった。あのころは、得意先の顔色をうかがい、金策に悩む毎日だった。あの時も李が現れて金を工面してくれた。結果は会社は李の手に渡ったけど、思えば李はいい人だった。だけど李は夫の姉、竹子を悩ます人でもあった。
これで良かったのだ、李の申し出を断って。もし李の好意に甘えてCDが発売できたとしても、売れる保証はないし、義姉の竹子をもっと苦しめることになる。
和夫の愛に応え、お腹の赤ちゃんを守り、竹子を救うことができるなら、自分の成功より、優先すべきものは歌を断念することだ。
洋子はフイッシャーズからの脱退を決意した。
☆☆☆
「美紗希さん、BAR 楡のママになってもらうことになりましたので、今日から店に出て下さい」と高弁の声が受話器から聞こえてきた。
「え! 、私がBAR のママですって!? 一体何をおっしゃってるんですか」
美紗希が驚くのも無理はない。事前の相談もなく、いきなり行ったこともないBAR のママになれと言われて「はい分かりました」という人は多分どこにもいないだろう。
だが高弁は一方的に「今日が無理なら明日からでもいいです」と言って、ガシャンと受話器を置いた。
あっけにとられた美紗希は、とりあえず仲のいい汐未に相談することにした。
すると汐未は「すっごっくいい話じゃないの、私だったら明日なんていわないで、今すぐにでも飛んでくけどな、あんた絶対に引き受けなさいよ」と言って、高弁と同じようにガシャンと受話器を置いた。
ああぁ、どうしよう。あとは誰に相談しようかなと思っていたら、「リリーン」と電話が鳴った。
「あのぅ、俺だけど、今いいかな、ちょっと話したいことがあるんだけど」と、李の声が聞こえてきた。あまり話したくない相手だけど「何の用?」と素気なく答えると
「とにかく会ってくれないかな、他に相談する人もいないし、もし良かったら、ニュー東宝の前のトキワグリルで待ってるから、来てくれないかな」と言った。
トキワグリルはニュー東宝の正面にあって、出勤前によく食事をする店であった。
「店に出る前ならちょっとだけならいいわよ」ということで、その日の5時に李と会うことになった。
トキワグリルで待っていた李は、スーツにネクタイを締めて、手には花束を持っていた。
「竹子ちゃん、おめでとう。BAR 楡のママになるんだってね、俺もう会えないからこれを、と言って、花束と「就任祝い」と書かれた熨斗袋をテーブルの上に置いた。
「もう会えないってどういう事?」と聞くと「俺、チャラリンコを閉めて、札幌に帰ることにしたんだ。釧路ではいろいろあったけど、全部忘れて出直すから、竹子ちゃんも元気にやってよ。じゃあ」と言って李はトキワグリルを出て行った。
李がチャラリンコも閉めると言ったのは以外であった。何が起きたのだろうと考えてみた。きっと自分との仲が戻らないと思ったのだろうか。就任祝いと書かれた熨斗袋をじっと見ていると、李が可哀そうになってきた。自分は李を遠ざけてきたけど、李は自分を愛し続けてくれた。自分は今までなんて冷たいことをしてきたのだろう、と思うと、涙がこぼれるのを抑えれなかった。
花束を持って外に出ると、同僚のホステスたちが寄ってきて「どうしたの、結婚を申し込まれたの?」と言って冷やかされた。
「そうじゃないのよ」と言ったけど、悲しい気持ちは一層増した。
ニュー東宝なんか辞めちゃって、李のあとを追おうかとさえ思った。
更衣室に入ると、汐未が寄ってきて、「私さ、男から『分かれてくれ』と言われたことがあって泣いたけど、男も泣いてたな、そんとき言ってやったのよ、『いつまでもメソメソするんじゃないよ、私は成功して人を使うようになって見せるわ、あんたも成功して大物になりなさいよ、泣くのはね、二人ともまだ、小物だからだよ、あんたになんか絶対負けないからね』って」
美紗希は思った。汐未はきっと、自分は別れて悲しいのに、相手の男を励まして、自分も強くなろうとしているのだと。別れが辛くない人なんかいない。だけど、それを見せたら、相手も自分も負担が大きくなるだけで、いつまでも未練が残る。それを断ち切る強さが必要なのだと、言いたかったのだろう。
「楡のママのことはどうすればいいと思う」と聞いてみた。すると汐未は、「楡のママだった人はリヤホールの女って、呼ばれてたけど、そんなのは嘘だからね、信じちゃダメよ」
「リヤホールの女って何のこと?」
「楡のママはタクシーに乗るときは運転手の隣に座って、後ろの席を空けておく人だったのよ、だから、後ろを空けてあるから後ろの穴を使いなさい、と言ってるのと同じようなものだから、リヤホールの女って言われてたのよ。でもそれは何かの理由があって2~3回しただけで、いつもじゃないのよ。
「へーえそうなんだ、でもその人の後を継ぐかも知れないんでしょ、一度会ってみたかったな」
「あんた覚えてない?前に一度、屈斜路湖にネッシーを探しに行ったことがあったでしょ、あのとき駅まで楡のママが送ってくれたのよ」
汐未に言われて思い出した、不二洋服店時代、弟の博隆が亡くなって、落ち込んでいた洋子のところに自分が李から逃げて来て、うち中が暗く沈んでいた時、汐未が弟子屈の温泉に誘ってくれた、そのとき迎えに来た大型のタクシーの助手席に、地味な服を着た人が座ってた、そのときは、軽く会釈をしただけであった。あの人が楡のママだったのか。どうしてあの時、ちゃんと挨拶をしなかったのだろうと、今になって恥ずかしくなった。
「それにあの人は、本当はすごくいい人で、夜逃げをしたっていわれてるけど、自分には一銭も残さないで、ホステスとバーテンに退職金を払ってるのよ。ホステスに退職金を払うBAR なんて、みたことないわ。本当は阿部ちゃんというバーテンに、後を継いでもらいたかったみたいだけど。、阿部ちゃんは『ママが店を辞めるときは俺もママに付いていく』と言って辞めたのよ。
あのママはきっとどこかでまた店をやると思うから、そん時は阿部ちゃんも行くと思うな」
「じゃあ、今はホステスだけが残ってるの?」
「違うよ、今ニュー東宝にいるバーテンの財川さんが、もし美紗希が楡に行くなら俺も行くと言って、待機してるよ」
「財川さんが私のことを知ってたの?」
「財川さんってさ、元クラブ子鶴にいたのよ。クラブ子鶴には、末広町の人事記録簿と言われる、徳子さんという人がいて、あんたのことは全部徳子さんの記録簿に載ってるよ」
「そうだったの、でも徳子さんの人事記録簿には他にもたくさん候補者がいたんでしょ、どうして私なの」
「そんなことはどうでもいいじゃない、とにかく選ばれたんだからさ、やればいいと思うな、そしたらさ、今よりいっぱいお金が入って、将来李さんともでっかい顔して会えるじゃない、だからさ、やりなさいよ」
他の人ならともかく、汐未に言われると少しづつ、その気になってきた。
「じゃあ明日、一緒に楡を見に行ってくれない?」と言ってみた。
「いいよ、5時に楡の前で待ってるわ」ということで楡の様子を見にいくことになった。
翌日楡の前にくると、約束した汐未はいなかった。仕方なく一人で店に入ると、開店前なのに待ち構えていたように客が来て、アッという間に満員になってしまった。そしてある人は「新しいママですね、僕は山田ですよろしく」と言った。
すると電話が鳴って、出たホステスが「ママに財川さんから電話です」と言って、受話器を渡された。もう完全に客からもホステスからも、ママにされていた。
電話に出ると、財川さんが「ニュー東宝のマネージャーには僕が今、美紗希さんと僕の退職を伝えましたので、今から美紗希さんは楡のママになりました。僕はこれからすぐに行きますので、よろしくお願いします」と言ってガシャンと切った。
するとものの5分も経たないうちに財川さんがやってきて、カウンターの中に入ると、慣れた手つきでシエィカーを振り、「ママのジンフィーズはジン抜きにしておきました」と言った。この世界ではママは閉店まで酔ってはいけないので、客と同じものは決して飲まない。「ママも一杯どうぞ」と言われた時のため、どこの店でもママ専用のカクテルが用意されている。そのカクテルは色だけ本物に見せかけて、アルコールは入れないことになっている。
同じカクテルを何度も飲むことができないときは、ジンが入っていなくても、入っているように見える、ジンフィーズを出すことになっている。つまり、ジン抜きのジンフィーズはママの証なのである。
この時点でもう完全に美紗希は BAR 楡の二代目のママになっていた。
こうして高弁が言った「今日が無理なら明日からでもいいです」と言ったのは実施されることとなり、美紗希ママは李の就任祝いをありがたく、頂くことにした。
11時の閉店の時間がきて、外に出るとお供(タクシー)が待っていていた。
客席には汐未が脚を組んで、大きな態度でデンと座っていた。
汐未は美紗希に向かって「あんたは今日からBAR 楡 の二代目のママになったのだから、リヤホールの女の名前も引き継ぎなさい」と言って、助手席のドア―を開けさせた。
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