第49話 霧笛が鳴る北の街
洋子とフイッシャーズの7月に発売予定のCD の録音が、6曲目まで終了した。
残りの1曲の録音は洋子の作詞の完成を待つこととして、ジャケットのデザインを検討する段階となった。デザインを依頼したクシロコマーシャルプランニング社は、洋子がドレスを着用して麟の目のステージに立つ、全身写真を提案した。
だが洋子のお腹が目立ちだし、タイトなステージ衣装の着用はできなくなっていた。
そこで第二案として、たくさん撮った写真の中から、幣舞橋と末広町の夜景と、丹頂鶴が舞う釧路湿原の風景の二つのうち、どちらかから選ぶこととなった。
もう一つ、「霧の街」と丸一鶴屋デパートとのタイアップ曲「丹頂が舞う空」のどちらをアルバムの1曲目にするかを決める必要があった。
「霧の街」を一曲目として、幣舞橋と末広町の風景との組み合わせとするか、
「丹頂が舞う空」を一曲目にして、釧路湿原の風景との組み合わせにするかで、意見が分かれた。
「霧の街」と「丹頂が舞う空」を含む7曲と、インストルメントの2曲、合計9曲はことさら順番を考えず、ある意味で、適当に入れることとなった。
そしてアルバムの表側の写真は幣舞橋と末広町の夜景で、裏側は釧路湿原の風景とすることになった。また、アルバムのタイトルは「霧笛が鳴る北の街」とすることとなった。
☆☆☆
そのころ、里奈と甚弥が住む米町の洋館が釧路市の、歴史遺産に指定されることになった。この家は㋥佐々木の初代々表の、佐々木長治が明治時代中期に建てたもので、戦災にも合わず、建てたときの状態がそのまま残っていて、研究資料としての価値も高かった。
だが歴史遺産に指定されたことで、困ったことが起きてきた。
まず、補修は所有者の㋥佐々木にも、居住者の里奈と甚弥にも、かってには出来なくなってしまった。
例えば、壁のペンキを塗替えるにしても、事前に申請書をだして、許可を待つことになった。違う色にするなどは、もっての外だ。
もし、そんなことをしてしまったら、重要文化財破壊行為で逮捕されるかも知れない。こうなるともう、居住者の権利のへったくれもくそも、あったものではない。
市の言いなりになるしかなくなった。
堪り兼ねた里奈は「何とかしてください、このままでは下着を干すのにも許可が要りそうです」と夫の甚弥に泣きついた。
里奈にそう言われると、甚弥もなんとかしなければ男が廃る。何しろこの家は次郎長の精神を受け継ぐ聖地でもある。女を泣かすとはとんでもないことだ。
そこでやむを得ず、週末はこの家に住み、普段は㋥佐々木が所有するマンションの一室を借りることになった。
運よく、㋥佐々木の事務所に近いマンションに空きがあり、引っ越すことになった。しかもこのマンションは、洋子と和夫が住む寿町のマンションの隣であった。
「おーい」と言えば聞こえるくらいの距離で、何かと便利でこの上ない、いい場所であった。
洋子は洋子で
「里奈がマンションにいるときは、たまにでいいからあの洋館を私たちに使わせてくれない?」
「自由に使っていいわよ」
ということになって、米町の洋館は洋子にとっては、別荘みたいなことになった。
翌週、洋子と和夫は早速バッグ一つで、米町の洋館に泊まることになった。
さすがに歴史遺産に指定されるだけのことはあって、並みのホテルでは到底叶わないと思わせる豪華さと、気品を持っていた。
窓を開けると釧路港が見えて、自分のアルバムの「霧笛が鳴る北の街」そのものの風景が広がっていた。
「こんな豪華なホテルみたいな家に住んでるのに、わざわざ狭いマンションを借りるなんて、里奈も甚弥さんも馬鹿みたい」と洋子は思った。
その夜は客間でゆっくり休み、外に出てみると、雑草が広い敷地いっぱいに生えていた。
洋子がマンションに帰ると里奈が「ねえ、素敵な家だったでしょ」
「うん、凄くいいところだったわ、でも里奈も大変ね、あんな広い庭の雑草を自分で処理するんでしょ、私ならできないわ」
「そうなのよ、建物は手を付けちゃいけないのに、雑草は住んでる人がしなくちゃならないのよ」
「へーぇ、そうなんだ。じゃあ、ヤギでも飼ったらどお?」
「ヤギ?」
「そうよ、ヤギさんが一頭いたら、雑草を全部食べてくれるわよ」
「でも、ヤギってペットショップで売ってるの?見たことないわ」
「実はね私も昨日、あの雑草を見て考えてたのよ、そしたらね、いるじゃない家畜の専門家が」
「専門家?」
「思いだせない? 中標津の美津子よ」
「あ、そうだ、美津子は獣医だったわね、ヤギも診てるかもね」
早速その夜、美津子に電話をすると「ヤギくらいいっぱいいるよ、見においでよ、待ってるわ、車は私が用意するから電車で来てね。釧網線に乗って標茶で乗り換えだよ、知ってると思うけど」
翌日里奈と甚弥は電車で中標津に向かった。甚弥は昔、薬のプロバーだったころは中標津にもよく来ていた。だけど里奈は初めて来るところだった。
釧網線から標茶で標津線に乗り換えて、中標津に近づくと、車窓から牧場が見えてきた。
中標津は釧路から100キロくらいのところで、牧畜が盛んな町である。
牛は人の2倍以上の4万頭もいる。
ヤギは商売ではないが、ペットとして飼っている家が多かった。
中標津駅に着くと、トヨタランドクルーザーが待っていた。
ランドクルーザーには美津子の他、畜産研究所の人が乗っていた。
「釧路からヤギをもらいに来たってのはあんたたちかい、うちにはいっぱいいるから、何頭でもいいから持てってよ」と、挨拶もそこそこに早速ヤギを見に行くことになった。
車の中でようやく、迎えに来てくれた人は美津子と同じ畜産研究所の、紺野さんと紹介された。紺野さんの家には双子の女の子が、2年連続して生まれ、今は小学四年生と5年生の4姉妹と12頭のヤギがいる、大家族であった。
紺野さんが「男の子はミッコ先生が去勢してあっから、男の子と女の子と2頭持ってけよ」と言って、「これとこれの子がこれで、これとこれの子がこれだ、分かるべ」と言ったけど、どれがどれだかさっぱり分からない。
どうやら、2組の親からそれぞれ4頭ずつ生まれ、計12頭になったらしい。
こうして両方の親から生まれた男の子と、女の子の2頭のヤギをもらうことになった。
その日の夜は美津子の家に泊まり、焼き肉でヤギさんとの出会いの祝宴となった。
翌日畜産研究所のマイクロバスにヤギ2頭と、藁とか、小屋を作る木材とかをどっさり積んで、紺野さんの運転で米町の洋館に行った。
紺野さんは積んできた木材で、慣れた手つきで2頭のヤギの小屋を作り「ヤギは寒さに強いから、これで大丈夫だ」といって、飼い方をいろいろと教えてくれた。
美津子は薬と栄養剤をいっぱい持ってきて、配合の具合を教えてくれた。
洋館の庭には池があって、飲み水の心配もなかった。
こうして洋館の雑草対策は、ヤギ2頭に託されることとなった。
そのあとはお定まりのコースへ行くこととなった。
先ずは栄通リの炉端で一杯飲んで、そのあとは稲荷小路のグルッペに行った。
グルッペで頼まなくても出てくるグレハイを飲んでいると、呼ばなくてもやってくるお馴染みのメンバーが続々と集結した。
先ずはニュー東宝の汐未がやって来て「みっちゃんしばらくだねぇ、牛の去勢をやってるって聞いたけどさ、人間にはやっちゃダメだよ、やるんならさ、3人産んだ後にしなさいよ」と言ってると、高弁がやって来た。
「汐未、お前またなんか言ってたな、去勢とかなんとか」
「知らないわ、そんなこといってないわよ」
「変だな、お前の声に似てたけどな」
そのあとには菊池順子さんがやって来た。
「高弁さん、去勢はいいけどあんたは無駄に撃っちゃダメよ」と計らずも、歴史遺産は人口問題について語りあう結果となった。
米町ではヤギさんが」「産めぇー」と鳴いていた。
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