第45話 寝ている間に5百万円
今日のクラブエスカイアのステージは「恋の片道切符」とか「おーキャロル」などのヒット曲を持つアメリカの歌手、ニール・セダカがメインステージを飾る日であった
洋子はいつものように前座として出演するために、地下1階の出演者控え室に入った。隣はニール・セダカが日本で興行を行う際のプロモーターの部屋で、その隣がニール・セダカの部屋であった。
ニール・セダカの部屋に挨拶しようと思いドアーをノックすると部屋の中から「ガラガラぺッ」と、うがいの音のあと、「Choo Choo train chuinn doun…………」とお馴染みのワン ウエイ チケット」邦題「恋の片道切符」を独特の高音で歌う声が聞こえてきた。
「さすがだな、一流の人は開演の2時間も前から準備をするのだな」と思っていると、後ろに八重樫店長がいて「白木さん、セダカさんには僕が言っておくから、あんたは部屋に戻って休んでください」と言った。
洋子は言われるままに控え室にもどり、鏡に向かってドレスをチェックしていると、体が重だるく、腰の周りに痛みを感じた。
「風邪をひいたのかな」と思い、いつも持ち歩いている体温計を脇に挟んでみ
ると、36,1度で、平熱だった。
「リーン、リーン」と電話が鳴って内線ボタンを押すと、ステージマネージャーが「時間です。すぐにステージに向かって下さい」と言っていた。
洋子は少し痛む腰をかばいながらステージに立った。
ノースビアーズの伴奏が流れ出し、霧の街を歌った。歌を聞いた限りでは多分、誰も洋子の体の不調を感じなかっただろう。
だがこのとき洋子は「もしかしたらあのときに………………」と、思い出すことがあった。
八重樫店長はそれを見抜いていたのだろうか、そうだとすれば、さすがに何十年もホステスを見てきただけのことはあるな。と驚くほかなかった。
ニール・セダカといい、八重樫といい、これが本当のプロなのだ、と教えられた。
八重樫の予想は当たっていた。翌日洋子は医師から「おめでたです」と告げられた。
洋子は不二洋服店時代に斉木博隆と5年間、結婚生活をおくっていた。
子どもができても不思議ではないのになぜか、妊娠したことがなかった。
何となくそれが普通のことのように思っていて、和夫と付き合うようになってからも、避妊を意識することがなかった。
普通ならこれは喜ばしい出来事なのだが、洋子は二つのクラブを掛け持ちする、現役の歌手である。その日から洋子の周辺は荒ただしくなってきた。
用心のため、クラブエスカイアのステージは1週間休むことにして、和夫が待つ釧路に帰ることにした。
いつもなら国鉄の特急「おおぞら」を利用するのだが、4時間以上揺られることになる。今は体が第一だ。洋子は札幌の丘珠空港からJALに乗り、釧路空港に向かった。釧路空港では和夫が待っていた、
「洋子さん、ごめん。俺が失敗しちゃったから、こんなことに……」と和夫はしょげかえっていた。
「いいのよ、私は元気な赤ちゃんを産むわ」
「だけど、仕事が……」
「大丈夫よ、お腹が目立つようになるまでは、ステージに立てるわ」と洋子は言った。だけど、本等に仕事ができるのだろうか。銀の目が果たして子持ちの女を使ってくれるのだろうか、と、心配でたまらなかった。こんなとき女は強いが、男はからっきしだらしがない。
しょげかえる和夫と洋子は報告のためタクシーに乗り、麟の目の本社に向かった。
釧路空港から釧路市内に向かう途中に、丹頂鶴が舞う自然公園があり、空には2羽の親子鶴が飛んでいた。
「おめでとう洋子さん、あんたはしばらくは麟の目で歌って下さい。クラブエスカイアの方は何とかなりますから」と店長の窪田の言葉で和夫はようやく、赤ちゃんが
できても洋子が仕事をできると知り、ほっとした。
そこにフイッシャーズの5人がやってきて、リーダーの室井が「洋子ちゃんに曲を作っておきました。CD1枚に収まるように8曲あります。詩は洋子ちゃんが書いて下さい」と言って、その場で詩抜きのインストルメントで演奏した。
どの曲も「霧の街」を上回る美しいメロディーであった。
次に二人は㋥佐々木に向かった。
するといつもなら優しくしてくれる菊池順子さんが「和夫さん、分かってるの、あなたは父親になるのよ、あなたがしっかりしないと洋子と赤ちゃんはどうなると思うの、あなたは無線通信士の試験に落ちたんでしょ、しっかりしないとダメじゃないの!」厳しく言われた。
やっぱり男は優しいけど、女は厳しかった。
麟の目に戻るころには7時を過ぎていて、品川明とクールスターズの15人がさっき聞いた曲を演奏していた。ステージの袖で聞いていた作曲した室井が洋子を見つけると「洋子ちゃん、出て行って即興で歌いなさいよ」ステージの真ん中まで引っ張っていった。
「えっ、即興で詩を作って歌うの?」と洋子は大変なことになってしまったと、店に
戻ったことを少し後悔した。
だけど客席はすでに満員に近くなっていて、「いょー待ってました。ヨーコちゃん」という漁船員風の男の掛け声と拍手が起きていた。
逃げ出すわけにはいかなくなってしまい、何となく思いだした不二洋服店時代のブランド「丹頂」とさっき空港から乗ったタクシーの窓から見た親子鶴をイメージして、「空に舞う鶴が…………」と歌ってみた。すると不思議と次々とイメージが湧いてきて、2分少々の曲を歌い切ってしまった。
「ワーッ」という歓声に「ピーッ」と言いう口笛と拍手が起きて、自分でも信じられないくらいの出来っぷりになってしまった。
☆☆☆
翌日、麟の目に、丸一鶴屋デパートのバイヤーがやってきて、店長の窪田に、
「丸産鶴屋のオリジナルブランド『丹頂』を復活させることになりました。
実は私は昨日客席にいて、白木洋子さんが歌った『空に…』という曲を聞かせてもらいました。あの歌詞が当社の『丹頂』にぴったりだと思いました。そこで白木さんにあの曲をCDに録音してもらい、当社の丹頂とタイアップして頂きたいと思います」
「ちょっと待って下さい。それではうちの白木にCDを作れ、ということですか」
「いいえCD の制作は当社が行って、最低でも5万枚は売りたいと思います
「そうですか、よくわかりました。それではこちらとしても取締役会に諮り、検討してみたいと思います」
と、窪田は言った。だが、取締役会だの、検討するだの、何なのと、そんなまどろっこしいことは全く必要がなく、洋子の「はい、やります」の一言で、一瞬に決まった。
洋子は妊娠中は働けないかと思っていた心配をよそに、CD5万枚の売り上げを予約された。予定通リ5万枚売れると,売り上げ総額は5千万円となり、洋子には契約に従い、10パーセント、5百万円入ることとなった。
多分そのころには臨月が近くて動けないはずなので、何もしないで寝ている間に5百万円稼ぐ、 大スター歌手の仲間になることが約束された。
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