「みはしらのうずのみこ」が願う帝都ものがたり

南瀬匡躬

第1話 帝都の稲光-きゑと作之助の彷徨うもう一つの帝都

「きゑ、もうすぐ雨が降る。お家に入りなさい」

 その日の母は憂鬱な空模様に洗濯物を気にしているようだった。

「なんだって、また明日ね」

「うん、またね」

 軽く手を振るおかっぱの子に笑顔で返すと、きゑは踵を返す。

 庭先で近所の幼い子と石蹴り遊びをしていたきゑは母の言うことを守り、そのまま玄関に回る。

 そして家に入ってすぐのことだった。

 一瞬の閃光とともに全てが消滅してしまった気がした。


 時は大正前半、場所は帝都と呼ばれていた東京府の中心部。日暮らしの里と呼ばれている日暮里にっぽりだ。上野と浅草の上にある庶民的な住宅地である。古くから文人墨客に愛される古風な土地柄。私たちの時代には谷根千やねせんと呼ばれる谷中やなか根津ねず千駄木せんだぎの近くでもある。


「母様」

 きゑはなにか嫌な予感がした。素早く閉めた玄関の戸を再び開けて、石蹴り遊びの円が描かれた庭先に戻る。さっきまで洗濯物を取り込んでいた母のいた場所には一本の梅の木が立っていた。そこに洗濯物が引っかかって風にそよいでいた。その光景はまるで母が木になってしまったようだった。


 自分の家の庭の真ん中に梅の木などもともと植わっていない。

「母様」

 両手を口に添えて大声で呼んでみる。勿論返事はない。

 きゑは木戸を開けて、通りに出てみる。道には街路樹のように梅の木が並木になっていた。子どものきゑにもそれが元人間であったことはおぼろげに認識できていた。


 社家しゃけきゑは高等女学校の女学生。

『なんで私だけが無事だったんだろう?』

 きゑは不思議な気持ちになった。

 彼女はその疑問を正すべく、再び自分の家に戻る。母はどこかにいる、そう自分に言い聞かせるきゑ。


 家の玄関の軒先を見上げると護符のような貼り紙を見つけた。その貼り紙は玄関を囲むように四方に貼られている。まるで玄関の土間だけが結界をはられたように見えた。

「帝都から人がいなくなった? いいえ、地球上から人が消えた?」

 そう考えるときゑの心中は恐怖に支配された。いてもたってもいられず、「わー!」と泣き叫んだ。どれくらい泣き叫んだのだろう。微かに人の声を感じるきゑ。


「おい、誰かいるのか?」

 玄関先から声がする。

「え?」

 今確かに人の声がした。きゑは驚く。

「誰かいる」

 この世界に自分以外の誰かが存在している、と驚く。

「誰かいるのなら返事をしてくれ!」

 男性の声だ。しかも若者だ。

 きゑは格子戸をガラガラと開けて通りに顔を出す。


「今叫んだのは君か?」

 学帽に袴姿の男性だ。学帽の校章には府立実業学校のデザインがある。商学科の学生だ。

「私です」

 赤い絣の着物、普段着のきゑはその学帽の青年に答える。

「何がどうなっているんだか。根津神社でお参りを終えて、通りに出てきたら皆消えちまっていてこの通りだ。町中は辺り一面街路樹の海だ」

「私も分かりません。一瞬のまばゆい光のあとでそうなっていました」

「うん、なにかの光線が見えた。見解は一致だ。僕も同じ体験をしている」

 そう言った後、実業学校の学生は、「でも良かった。こうして話し相手が出来た」と頷く。

「はい」


 きゑの言葉に、「他にはいないのだろうか? 人間は」と言う。

 学生はきゑの家の木戸の横に掲げられた表札を見て、「君は社家さんていうの?」と訊ねる。

「はい、高等女学校に通うきゑといいます」

 それを聞いた学生は、「僕は宮宅みやけ作之助。府立実業学校の学生だ。家は芝の外れにある」と返す。

「芝って、随分と離れた場所ですね。ここは日暮ひぐらしさとで日暮里、谷根千やねせんの手前ですよ」ときゑの言葉に、

「うん。さっきも一寸言ったけど、用事があって根津神社に来ていたんだ。そして楼門の中を歩いていたときに閃光を受けて、周りの人はみんな木になった。どういうわけだか僕はそれを免れて、気がつくとほら、これを持たされていた」

 そう言ってズック地の鞄から銅製、赤金あかがね色の剣を取り出して、きゑに見せてくれた。


 そうして「君は帯に何を挟んでいるの?」と作之助は訊ねる。

「えっ? なんにも……」と言おうとしたところで、帯を見ると確かに円形の何かが挟んである。

 彼女はそれを取ると「銅の鏡だわ」と驚く。教科書に出てくる銅鏡というモノだった。

「自分で気付いてなかったんだね」

「はい」

内行花文鏡ないこうかもんきょうだ。昔、歴史の時間に習ったよ」

「そうなんですね」


「なぜあの閃光の後で街の人たちは、帝都の人たちは木に変わってしまったんだ。そしてどうして僕たちだけがこうして無事なんだろう?」

「さあ?」

 訊かれてもきゑ自身が訊きたいくらいだ。

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