第36話 交換した唾液、吐き出したい?

 あまりに突然の行動。

 オレは咄嗟に、七海を突き放せなかった。。

 いや、もしかしたら――彼女の唇が予想外に柔らかくて、心地よかったからなのかもしれない。


 七海はそうして、一度顔を引き離したと思えば、再びオレの口の中に異物が入り込む。


「ふぁ……はぁ、はぁ……じゅるっ、もっと――」


 恍惚とする顔の七海。

 驚くあまり、抵抗が遅れた。

 急いでオレは七海の肩を掴み、顔を引き離す。

 オレと七海の口元には、唾液の糸が垂れる。


「ダメ?」

「……ごめん」

「どうして……?」


 七海の好意は嬉しい。

 驚いたけど、それは真実だ。

 ……オレに向けられていた感情が友情ではなく恋情だったことには、少し残念かもしれないが。


「夕果が、グループ内で恋愛するべきじゃないって言ってる。オレも賛同した」

「でも、ゆうゆうは僕とてっちゃんが幼馴染だってことすら知らないよ」


 悪魔の誘惑だ。

 七海の顔は小波とよく似ている。

 もし小波への恋が叶わないならば、七海の気持ちに応えてやるべきだとも思う。

 しかし、そういう訳にはいかないのだ。


 ……オレも腹を割ろう。


「オレも何の理由もなく夕果に賛同した訳じゃないんだ。オレは……さ、実は前のグループで失敗しているんだよ。恋愛のゴタゴタで、グループが壊れた。

 今のグループ上手くいっているし、絶対に壊したくないんだ……」


 律樹に至っては七海のことが好きときたものだ。

 今の友人関係も、恋愛が絡んですぐに崩壊する。

 でも、弟分だと思っていたツキナミには弱い。

 夕果との盟約がある。

 恋愛を引き起こすのは不味いかもしれない。


「……その言い方、僕のことが気に入らない訳じゃ、ないんだよね?」

「そんな訳ないじゃないか」

「なら、今からでも僕を、妹分にしてよ。二人でいる時間だけ、キスだけの関係。それじゃダメ?」


 そんな提案に戸惑う。

 七海の目は本気だ。

 とてもじゃないが、放置していて……そのままグループが今のままでいられると思えない。

 オレが何も言わないと、七海は話を加える。


「小波に訊いたんだけど、世の中には身体だけの関係もあるみたいだし、キスフレ? それじゃダメ?」

「――あぁ」


 恋人じゃない……恋愛じゃない。

 もちろん、七海目線はそうかもしれない。

 けど、そういう関係ではないと言ってしまえば……少しだけ心が揺らいだ。


「ちょっと待ってくれ。洗面所で顔洗ってくる。冷静になりたいんだ」

「僕の唇、美味しくなかった? 交換した唾液、吐き出したい?」

「違う! そんな訳ない……!」

「よかったぁ」


 心底嬉しそうな顔。

 つい本心を言ってしまったが、このままでは本当にオレはダメかもしれない。

 急いで洗面所へ向かった。


「――笑ってんじゃねぇよ」


 鏡を見れば、そこには笑っている自分がいた。

 喜んでいたのだ。

 自分に向けられた好意を嫌う奴もいるかもしれない。

 でも、初めて向けられた好意を嫌がる奴なんて、いないんじゃないか?

 勝手に……満たされたような気がしていた。


 リビングへ戻ろうとして、気付く。

 ――七海がいない。

 何処へ行ったのか辿ると……そこはオレの作業部屋だった。


 頭の中が、ぐにゃっとかき混ぜられるような、そんな感覚を覚えた。


「――――――っ、あぁ、ぁぁ、ぁぁ」


 デスクトップは……イラストが映されたまま。

 もし見られたら……もし知られたら……そうしたらまた、嫌われてしまう。

 前のグループでのトラウマが、蘇った。

 そう思って作業部屋の中へ恐る恐る足を忍ばせ――。


「な……七海?」

「あ、てっちゃん! ねぇこれ見て! すごいすごい! すごいよぅ! もしかして、てっちゃんが描いたの?」


 向かった先ではしゃぐ七海。

 彼女の言葉は――思ったものと違った。


 すごいって褒めてくれるなんて……急速に冷たくなった心が、急速に溶かされる。

 もう、自分の中で……何が何だかわからなくなってきた。


「……あぁ、そうだよ。そうなんだよ……オレの、趣味でさ」

「でも僕、こんなの知らなかったぞ! 隠していたんだなっ?」

「バイトっつーか、お金稼ぎにな。なんか言いにくくて――――っっ」


 一瞬、七海の言葉に救われたような気がした。

 だが、イラストを注視する七海を見て、すぐに間違いに気付いた。


 スクリーンに映されているイラスト。

 ――それは、小波をモデルにしているのだ。


 七海がその事実にいつ気付いてもおかしくない。

 オレは急いで七海の腕を取り、こちらに寄せた。


「て、てっちゃん……?」


 戸惑う七海に今度はオレの方からキスをした。

 何よりも、隠さなければならない。

 七海に……オレの懸想している相手が小波だなんて、


 これはきっと、必要なことなのだ。

 ――ほら?

 幼馴染であることは、隠せているじゃないか。

 その時間だけなら、別に大丈夫なじゃないか?


 何より……七海があまりにも幸せそうな顔をしていて、オレは何だか楽になった気がした。

 ――が差した。


 顔を引き離すと、今度は垂れたオレ達の唾液が七海のパーカーを汚した。


「さっきの、決めたよ。キスだけの関係、そうしようか」

「ほ、本当!?」


 今にも舞い上がるように腕を前に引き締め、ぱあぁっと明るくなる顔。


「……ただ他のみんなには、他の誰にも内緒だ」

「うん。もちろんだよぅ。嬉しい……」

「外では充分用心して、今まで通りいよう。バレたら――この関係は終わりだからな」

「う、うん! 外では用心深くだね……ちゃんと頭に叩き込んだんだぞ」


 夕果との約束……一日も経たずに破っちまった。

 オレが一番、裏切り者じゃないか。

 でも、でもな――。


 初めてのキスは、とても気持ち良かったんだよ。

 二回目のキスは、もっと気持ち良かったんだよ。

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