第05話 夢枕に立ったもの
あの日の一週間ばかり前のことだった、と祖母はいう。
夜明け前のことだった、眠りについていた祖母は、自分の横たわるベッドのそばへと近づいてくる気配に気づいた。
霊だ。
直感が告げていた――生きた人間ではない。
誰――?
祖母の問いかけにこたえるように、カチャカチャとフローリングの床から音がした。脳裏にひらめくものがあった。これは足音だ。四本足の爪が床をたたきつける足音だ。
「フット? そこにいるの? 来てくれたの?」
懐かしさが胸に去来した。フットは昔祖母の家で飼っていた短毛のダックスフンドだ。床の上をしばらくカチャカチャと歩き回った。
忠実で元気で人懐っこかったフット。絶え間ない愛情を注いだフット。ビニールのおもちゃを飲み込んでしまったせいで四歳の若さで死んでしまったフット。それは何十年かぶりの再会だった。
それから何日か後のこと、また別の霊が現れた。
枕元にいるその存在を、祖母はほかの誰かと間違えることはなかった。
「じいさんか?」
祖母は祖父のことをいつもそう呼んでいた。時には心無いことを言われ、時には愛してくれた生涯忘れることのできない伴侶だ。
祖父はずっとそこに立っていた。かすかに開いた祖母の目には、生前好んで着ていた藍色の和服姿が映った。「日なたのような」と祖母が形容する、好ましい祖父の匂いが香ってきた。
あの時フットがいなくなったのと同じように、祖父もまもなく姿を消した。懐かしく思った。祖父も長く夢枕に現れていなかったのだ。
祖父とフットが数日を置かずに現れたのは何か理由があるのだろうか? もしかしてお迎えが近いことのサインだろうか、などと思ったりもした。
3月11日はそれから数日後だった。14時46分18秒、大きな揺れが祖母の暮らす空間を襲った。
長い揺れがおさまった。部屋の電気が消えていた。本棚の中身が床に散らばっていた。居間のテレビ台が一メートルは前に動いていた。食器棚のベネチアングラスが割れていた。仙台市の中心部にあって、幸いにも大きな被害にはあわず、最小の被害で済んだ。その後、マンションの住人らが見守りに来てくれ、三女が街中の混乱を乗り越え会いに来てくれた。秋田にいる長女や次女とも連絡が取れた。
瞬く間に日が経った。東北自動車道は修繕された。海沿いには防潮堤がいくつも建設されるという。日常が取り戻されつつあった。
祖母は震災前にやってきた祖父とフットのことを考える。
祖父とフットは、震災が起こることを事前に伝えようと姿を現したのではないか、と。私は見守られている、祖母はそう思う。そう思うと、心が満たされる。仙台にあるマンションの一室の、ベッドの上で、祖母は今日も深いまどろみに落ちる。
第05話……終わり。
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