春、君を想ふ

赤野チューリップ

短編小説

履きなれないパンプスの踵が痛かった。

今思えば春はいつだってアンラッキーの連続だった。中学校の入学式では濡れたアスファルトに大胆に転け真新しい制服を泥まみれにしたり、高校の卒業式はみんなで写真を撮ろうと携帯を取り出した瞬間、同級生にぶつかり落とした画面がバキバキになったり。思い出すほど悲痛な思い出ばかりが脳内によぎる。踵を覗くと見るも無惨に皮が剥けストッキングに、ほんのりと血が滲んでいた。溜息を吐きかけて、息を飲む。大好きなおばあちゃんから言われた、溜息を吐くと幸せが逃げると言う言葉を思い出したからだ。両親を幼い頃に失った私にとって父方のおばあちゃんはたった一人の家族だった。母方の祖父母も母が若い頃に亡くなっていて私の周りには死が付き纏っていた。私は幼い頃から孤独だった。それはまたおばあちゃんも一緒だった。おばあちゃんのパートナーであるおじいちゃんは私が生まれてすぐ、同じ日に亡くなってしまった。おばあちゃんはその出来事がおじいちゃんが最後に残してくれた宝物だと思い、私をまるで実子のように可愛がってくれた。私とおばあちゃんはお互いの孤独を埋め合う凹凸のように上手にはまり、支え合って生きてきた。そんなおばあちゃんは三年前の八月、脳梗塞でぽっくりといってしまった。私はしばらく落ち込み立ち直ることができなかった。やはり私の周りには死が付き纏っていて自分がまるで死神か人の不幸を誘う悪魔のような気さえした。最後のおばあちゃんの言葉が頭を何度も反芻した。

「あなたは温かい子よ。あなたがいてくれたお陰で今の私があるの。はるかちゃんなら大丈夫。」 

そのおばあちゃんの言葉がなかったら私は今頃、狭い部屋で一人孤独の海に溺れて首に縄をかけていたかもしれない。私は最後の最後までおばあちゃんに救われた。大丈夫。私はその言葉を心の隅の大事なスペースにしまい今日も一日を生きていることができていた。


入社式は配属先の発表とオリエンテーションで昼過ぎには終了した。行きは緊張と踵の痛みで気にも止めなかったが、病棟の前には見上げるほどに大きな桜木が一本悠々と植えられていた。恋色の花びらが春風に乗って踊っていた。私はそれに少し心癒されたが、私の春のアンラッキーはどうやら踵の痛みではおさまらなかった。私は今日発表された配属先をふと思い出してしまった。私の希望配属は整形外科一択だった。これは緊急性のある患者があまり訪れないと言う理由で苦しい思いをしたくない私の甘えだった。しかし神様はどうやら私に甘くはなかった。人事部のお姉さんにもらった紙に書かれた配属場所は院内で看護師の墓場と呼ばれる、消化器外科だった。その名の所以は他のどの科に比べても看護師の離職率が高いからだった。これは他の科よりも圧倒的に忙しい現場であるということを意味していた。どんな間違いがあってか、またどんな縁が合ってか、私は晴れて看護師の墓場に配属となった。


「そういえば配属先はどうなったの?」

半年前から付き合っていたこうくんが半分ほど飲み干したアイスコーヒーをストローでくるくると回しながら尋ねてきた。

「もう最悪だったよ。希望が落ちて一番辛そうなところになっちゃった。」

「そうか。それは大変そうだね。」

こうくんが心配そうにこちらを見つめた。こんなにも気を遣って優しくしてくれる人は、過去三人程いた恋人を遡ってもこうくんただ一人だった。

こうくんは二つ年下の大学生で半年前まだ私が学生だった頃、私たちはインターカレッジの陸上サークルで出会った。彼はプレイヤーで私はマネージャー。ある日、彼が事故で故障したところを私がサポートに入り彼は私に一目惚れし二回の告白を経て私たちは付き合うこととなった。二回というのは一度目の告白は以前付き合っていた彼氏のことで頭が一杯で私はまだ次の恋愛に行く気力がなく、何よりも次の彼氏を所望するほど私は恋愛に飢えてはいなかったからだ。そのせいで私はこうくんの告白を一度は断った。しかし、それが彼に火をつけたらしくこうくんは今まで以上に猛アタックを私にしかけた。流石の私もこうくんの熱意と年下らしい愛くるしさにやられて、二回目の告白を二つ返事した。その時の彼の笑顔はまるで、春を待ちわびて綻ぶ桜の蕾のようで私は今でもその顔を忘れることはできない。

「はるかちゃんは頑張り屋さんだから無理しちゃダメだよ。」

「ありがとう。」

そう言うとこうくんはまた満開を迎えた桜のような笑顔を私に見せた。多分このあとはこうくんの家に行ってダラダラと彼の好きな昔の洋画なんて見ながら、エンドロールでキスをして暗がりの部屋で裸で抱き合ってセックスなんてするんだろう。私はまた生温い妄想なんかをした。


春雨が窓硝子に冷たい粒を張り付けていた。こうくんの規則的な寝息が耳元で聞こえてきた。私の情けない二の腕にこうくんのつけた赤い印が二つ重なっている。洋画は連続再生され数時間前に見た男女が体を重ねあって愛を育んでいた。私はなんとも言えない気持ちになり、こうくんの腕から抜け近くに乱雑に落ちていたこうくんのシャツとズボン吐きベランダにでた。細かな雫が薄いTシャツを湿らせる。あの日もこんな夜だった。二年前、恋人が死んだのは。春の冷たい雨が降る夜、恋人のけんちゃんはバイク事故を起こして死んだ。けんちゃんは小学生の時からの幼馴染で私の周囲よりもほんの少しだけ大人びた雰囲気と何処か所在なさげに遠くを見ている彼に私は幼少の頃から惹かれていた。彼は高校を卒業してすぐ就職し、私は大学に進学した。けんちゃんは運送の仕事に就いていて、そのこともあってか車やバイクが好きだった。その日の夜もけんちゃんは峠に走りに行っていたらしい。

らしい、というのは私の中での彼の最後の記憶は曖昧でしかなかったからだ。深夜の微睡の中で彼が私の頭を軽く撫で額にキスをした。けんちゃんのキスはいつだって柔らかかった。その数時間後、明け方には似合わない電話のけたたましい音で私は目を覚ました。

「小川はるかさんのお電話番号ですか?警察です。先程…」

けんちゃんの死を告げる連絡はただただ淡々としていた。外の雨の音がやけに遠くに聞こえていてた。呼び出された病院に行くと、彼は肌触りのいい布に顔をすっぽりと覆われていた。彼の顔はヘルメットを被っていたせいかやけに綺麗でまるで深く眠っているようで声を掛ければ、またその眠そうな目を擦り、いつもみたいに気怠そうに煙草を吸いにベランダに歩きだしそうだった。

警察の説明ではけんちゃんは峠から落ち斜面を転げ落ちて山中の木に激突して死んだと言う事だった。また事故現場の検証でブレーキ痕が見当たらないため自らガードレールに突っ込んだという解釈が自然だとしながらも、雨で路面状態が悪かったという事もあり事故の可能性も否定はできないと言う曖昧なものだった。そして結局、けんちゃんの死は自殺か事故かも分からない状態で時間だけがただ過ぎていった。けんちゃんの身辺は私がすべて整理した。幼少期、児童養護施設で育ったけんちゃんには愛を育んでくれた家族も友情を分かち合う友もいなかったからだ。そう、けんちゃんは私と同じく孤独だった。そんな彼は私の孤独な世界に訪れて、私もまた彼の孤独な世界に訪れた。今思えば私の切っても切り離せそうになかった孤独はこの時期に随分と和らいだように感じる。けんちゃんとは高校時代に付き合い二年の付き合いを経て同棲し、私たちの同棲生活は割とうまく回っていた。けんちゃんはおばあちゃんにも好かれていて、けんちゃんならと言う理由で同棲を快諾してくれた。彼は好きなバンドの曲を一日中部屋の中で流していて、私はそれのメロディーラインをよく口ずさんでいた。それが何かの合図みたいにけんちゃんは私に黙ってキスをしてセックスをした。けんちゃんの湿った声の中にはいつも優しさと私への愛が潜在していた。二年経った今でも私はけんちゃんを忘れないでいる。いつか突然「ただいま。」とか言って玄関の扉を叩いて帰ってくるかもしれない。私の元にバイクで乗り付けて「ドライブ行こうよ。」なんて言って、迎えにきてくれるかもしれない。私はそんな来るはずのないいつかを彼が死んだ日からずっと待っていた。そのせいか私はけんちゃんと死別してからは恋愛なんて億劫になっていて、私は二度と恋愛なんてしないなんて意気込んでいたものだ。

「はるかちゃん寒いから中入ろ。」

寝ぼけ眼のこうくんがだらしない格好で後ろから見つめていた。

「眠れなくて。ごめん起こしちゃった?」

「ううん。平気。風邪引くから早く入りな。」

「ごめんね。ありがとう。」

こうくんはどこまでも優しい。それはいつか失ったけんちゃんよりずっと。こうくんの中には心よりも、もっとずっと根っこにある孤独なんてありやしない。その満たされた愛情が私の乾いた心に滲みて痛かった。


雨上がりのアスファルトに桜の花びらがぴっとりと張り付つけている。春の夜の長続きする雨でほとんどの花が散ってしまっていてこうくんと約束した花見はどうやら中止になりそうだ。花びらを落とした桜木が情けなく枝を揺らしていた。社会人になり早一ヶ月が過ぎ去り、足早に過ぎ去る多忙な一日に私は追いつくことで必死だった。今日から担当の患者さんが付くことになっていた私は緊張感と責任感とで早くもこめかみがズキズキと鼓動を鳴らすように波打って痛かった。ナースステーションにつくと早速、主任さんが患者さんのもとへと連れて行ってくれた。私はそこにいる人に見覚えがあった。下がり眉にいつだって眠そうでいてどこか遠くを見ていた瞳。けんちゃんだった。

「けんちゃん?」

「へ?誰ですか?この子。」

私が思わず呟くと、その人はいかにも怪訝な顔をして主任さんの顔を見た。

「今日から担当がこの子になったんです。新人さんだから何かあったらいつでも呼んでください。」

「分かりました。」

けんちゃんに似たその人は肝臓の病気で入院してるらしく、顔色もあまり良くはなさそうだった。

「けんちゃんって誰です?」

「ごめんなさい。人違いでした。」

「そうですか。」

その人は岡田さんと言って誰が見てもけんちゃんそっくりであったが、けんちゃんにあった煙草臭さとかが岡田さんにはなかった。それどころか岡田さんにはけんちゃんにはなかった目の下の泣き黒子が二つ小さく張り付いていた。

「そっくりなんですか?その人と。」

「え、あはい随分と。」

「そうですか。お友達とか?」

「まあそんな感じです。」

「へー。世の中には似てる人は三人はいるっていいますもんね。」

そう言うと岡田さんは丁寧に笑った。その笑顔はけんちゃんのものにそっくりだったが、やはりどこかけんちゃんには似ても似つかない不思議な雰囲気がそこにはあった。駆血が終わったようで血圧計の空気が静かに抜けていく。

「それではまた何かありましたらお声がけ下さい。」

「はい。ありがとうございます。」

岡田さんはそう言って窓際のポカポカとした明るい太陽を受け、丁寧にブックカバーで覆ってある文庫本を手に取り視線を落とした。


「大丈夫?はるかちゃん。美味しくなかった?」

「う、うん大丈夫。平気。とても美味しいよ。」

「そうか。今日ねいつもと違うスパイス使ってみたんだ。」

こうくんは大のカレー好きで毎回スパイスからこだわり抜いて丹精込めて作り上げていた。私はそんなこうくんの作るカレーが好きだった。

私はすくいあげてそのまんまだったカレーライスを口に運んだ。ほのかに甘い香りが鼻から抜けて、口の中にはピリピリとした辛味が舌に伝わる。

「ごめんね。私疲れているみたい今日は先に寝るね。」

汚れた食器を軽く洗い食洗機に綺麗に並べて、歯を磨いて私はセミダブルのベットに横たわる。一人で横たわるには少し広いベットが私の孤独を強調した。遠くの方で食洗機の動く音が聞こえ、こうくんがテレビを見る音が聞こえた。私の頭の中ではけんちゃんに似た岡田さんのことが反芻していた。けんちゃんは死んだ。それは紛れもない事実だ。けれども私の耐えられない孤独を見かねてけんちゃんが会いに来てくれた。岡田さんとの出会いは私にそのように感じさせた。けんちゃんを忘れたくない。今の生活に不満はない。私はそう言い聞かせて目を瞑り、眠りにつくのを待った。

けんちゃんは夢に現れなかった。


「疲れてるの?」

何かを察したように担当の患者さんが声をかけた。就職して一ヶ月程が経とうとしているのに仕事中に暗い表情を顔に出すなんて不覚だった。

「ごめんなさい。そんなことないですよ。体温見せてください。」

幸運にも私の担当している患者さんは元気な人が多く、受け答えもはっきりしていている人が多かった。

「出島さん。勝手にお菓子食べちゃダメですよ。」

「あら、バレてたのかい。」

出島さんはお茶目に顔を綻ばせた。出島さんは偶然にも亡くなったおばあちゃんと同じ生まれ年だった。おばあちゃんが生きていればこんなふうに歳をとっていくのかと考えると目頭が熱くなった。

「あなた最近恋してるね。」

ドキッとした。それは心臓の鼓動からドキッとくるものではなく、全身が響くようなドキドキだった。

「いいのよ。女は恋愛するたびに美しくなるんだから。」

そう言うと出島さんは私のポケットにキャンディを一つ忍ばせた。

「だからお菓子はダメですって。」

出島さんまた綻ぶように笑った。


出島さんの体調確認が終わり私は岡田さんのもとへ向かった。岡田さんは初めて会った時と同じ本を読んでいた。その様子はまるでその本が宝物かのように丁寧に扱っている様だった。

「こんにちは。お昼食べられましたか?」

「はい。ここの食事は美味しいですね。前の所は美味しくなかったので。」

岡田さんは他の病院を転々としている様で、それはカルテや記録からも分かった。

「体温の方測ってもらえますか?」

「はい。」

体温計を渡した時に岡田さんの指が触れ少しドキリとした。それは岡田さんに触れたことで感情が動いたらからとか、先ほどの出島さんの言葉を思い出したわけでもない。触れたその指がやけに冷たくて置物の様だったからだ。

「その本、面白いんですか?」

「面白いですよ。何度も読み返すぐらいに。」

「そうなんですか。私、本はめっきり苦手で。」

そういえばけんちゃんも本が好きで同じ本を何度も繰り返し読んでいた。文章の苦手な私はそれに少し呆れて、何回も同じ本読んでて楽しいの?なんてよく聞いた。それを言うとけんちゃんは決まって、本の中ではいつも同じ季節だからさ、なんて微笑みながら答えていた。岡田さんもきっとそんな理由で本を読んでいるんだろうなと私は勝手に解釈した。検温が完了したことを知らせる無機質な音が一人部屋の病室に響いた。

「本はいいです。何処かに連れて行ってくれるので。」

「どこか?」

「ええ。」

岡田さんはそれしか答えなかった。それは何か深い意味があるかの様に、ただ呆然と窓の外の青空を硝子球みたいな瞳で見つめていた。

「今度貸しますよ。ぜひ読んでみてください。」

「ありがとうございます。また何かありましたら。」

それだけ言うと私は病室から離れた。少し振り返ると岡田さんはまたその本に視線を移し、本の世界へ入り込んでいた。その横顔はやはりけんちゃんに似ていて私は息を飲んでそっと病室のドアを閉めた。

休憩中、私は記録をとりながら岡田さんのあの言葉を思い出していた。本は何処かへ連れて行ってくれる。文字や文章には多少の抵抗があり、生まれてこの方二十数年の間、本を避けてきた私にはさっぱりと分からない言葉だった。

「本は何処かに連れて行ってくれるねー。」

私は腹の奥から独り言の様に呟いた。すっかりとその言葉が脳内に反復され私は頭を抱えていた。

「何悩んでるの?」

私と同じく一年目のゆみちゃんが話しかける。

「んーん。なんでもないの。」

「そう。どう?最近仕事?」

ゆみちゃんは私と同じ学校の出身で配属先も一緒で、この看護師の墓場の唯一の同僚だった。

「もう大変よ。担当の患者さんはみんないい人で助かってるけど、記録する量がね。」

「まあそうだよね。ここ患者さんも多いし、疾患も記録の量もそりゃ多くなるよ。」

「そうよね。」

「うん。午後もがんばろ。」

私の冷凍食品ばかりの弁当と違って、ゆみちゃんの弁当箱には手作りの美味しそうなのおかずが沢山詰まっていてキラキラ光って眩しかった。

「ゆみちゃん。お弁当いつも自分で作ってるの?」

「そうだよ。大変だけど栄養あるもの食べなきゃね。」

そう言ったところで院内が慌ただしくなり、休憩室に血相を変えた主任さんが飛び込んできた。

「はるかちゃん!307号室の出島さん!コードブルー!」

「え?」

「はやく!」

「は、はい!」

私は食べかけの弁当を置き去りに院内を駆けた。後ろから急いだ様子でゆみちゃんも着いてくる。院内にはけたたましい程にコードブルーを知らせるアナウンスが鳴り響き、医者や看護師が慌てた様子で病室に入っていく。私もその流れに乗る様に病室に入るとそこには先程まで元気そうだった出島さんの周りには複数の人が囲い、医師に心臓マッサージを施されていた。

「AED持ってきました!」

私は半ば押し出される形でその場を退く。AEDの自動音声と共に出島さんの体には電気が流され体がそり返った。医師が心臓マッサージを続けると一直線でぴくりともしなかった心電図波形に動きがでた。周囲の人たちから安堵の溜め息が溢れ始め、端の方に追いやられていた私もひっそりと溜め息を溢した。その後、出島さんは集中治療室に移動になった。どうやら消化器以外にも心臓にも疾患も見つかったらしく、その説明に出島さんの家族も呼ばれ担当である私もその説明に付き添った。出島さんの旦那さんは朗らかで優しそうな雰囲気だったが、帰る時には冷たく疲れ切った表情になっていた。私が旦那さんと挨拶を交わし記録を書き終えた頃には時刻は21時を回っていて私は思わず息を吐く。帰ろう。そう思い私は重い体を椅子から離しロッカーの中の着替えを取り出しカーディガンを羽織る。ゆみちゃんはもうとっくに帰っているんだろう。長い一日を終えた達成感と共に出島さんの体調を心配する気持ちが胸の中を抉った。私は出島さんの担当であるのに出島さんの異変に一番に気づくことができなかった。一番に対応もできなかった。私は自分の不甲斐さを恥じ失望した。電気が消え暗くなり始めた廊下を鉛の様な体を携えて歩くには心身の疲労感が大きすぎる。その体を引きずるように歩き、ふと共用のロビーを見ると窓の外をじっと眺める人影が見えた。少し猫背の体格を見て彼が誰かすぐに分かった。

「岡田さん。」

「お、看護師さん。こんな時間まで仕事?大変ですね。」

岡田さんは外を眺めるのが好きなのだと思った。それは私の記憶の中での岡田さんはいつも本を読んでいるか、外を眺める姿だったからだ。

「もう消灯時間ですよ。寝なきゃ。」

「そうか。今日いつにもまして忙しいそうでしたね。」

窓の外を眺めながら岡田さんは言った。

「まあ。何見てるんですか?」

「空ですよ。空の雲。」

「雲?」

「はい。夜にも雲は見えるんです。かなり見えにくいですけど。ほら。」

そう言うと岡田さんは窓の外を指差した。月も見えない空には数粒の星がキラキラと輝いており、その周囲に夜の空の深い藍色とは少し違う灰色のモヤの様な雲がユラユラと動いていた。

「どこか遠くに連れて行ってくれそうです。」

「岡田さん。旅行とか行きたいんですか?」

私は昼から不思議に思っていたことを聞いた。岡田さんはそれを聞くと少し微笑んだ様に言った。

「ここじゃない何処かです。」


「今日会いたい。」

病院を出て帰路に着いた頃、こうくんからのメッセージが入っていた。

「ごめん今日も会えない。」

最近の私たちと言えば会う機会はめっぽうに減っていた。それは私が社会人となり休みが少なくなったということもあるが単純に疲れて、こうくんの相手をするほどの余裕がなかったからだった。メッセージを返信した直後に携帯が小刻みに震え着信を知らせた。相手はこうくんだった。私はそれに迷いながらも着信に応答した。

「もしもしはるかちゃん。大丈夫?疲れてない?」

「仕事だからそりゃ疲れるよ。」

私は疲れも相まってそんなこうくんに少しイラつき当たった。こうくんはまだ学生だ。私の仕事の辛さも悩み事だって何一つ分かりやしない。

「仕事大変だもんね。何かあったら何でも言って話聞くから。」

「なにそれ。」

「え?」

「疲れてそうだからとか。疲れてるとか当たり前じゃん。こうくんは何も分かるわけないよ。私が話して何になるの?こうくんは私の仕事を手伝ってくれるの?私の仕事なんて何をやってるかも対して知らないのに分かるなんて無責任なこと言わないで。」

「…ごめん。」

こうくんはしばしの間を開けて答えた。こうくんの優しさが今の私には痛かった。

「ごめん。今話す気分じゃないの。」

私はそう言うと電話を切った。春も序盤が過ぎ去り桜木が新緑を密やかに纏っていた。


夜が溶け出した早朝、私は目を覚ました。瞼には酷い重みがあり今の私はきっと絶世の不細工なんだろうななんて事を思った。昨夜は疲労感を携えて家に着くなりそのまま布団に飛び込み、泥のように眠った。幸運にもその日は仕事がなかったので私は急ぐことなくシャワーを浴びる事にした。やけに熱いシャワーが体に沁みていく。お風呂場に充満するシャンプーの香りはけんちゃんがいつか褒めてくれたものだった。いい匂いするねなんて私の髪を優しく触り三つ編みをするけんちゃんは何処か可愛らしい動物を思わせていた。そんなけんちゃんももうここには居ない。お風呂を上がり保湿をして一週間の溜まりきった洗濯をする事にした。洗濯機を回してる途中、私の腹の中の虫が勢いよく鳴いた。昨日の昼からまともに食事を摂っていないせいだった。洗濯機を回している間、朝食作りに取り掛かる。トーストを焼き冷蔵庫に唯一残っていた卵をグチャグチャに混ぜてスクランブルエッグを作りトーストの横に添える。簡易的な朝食を食べながら私は洗濯機の周る様子を観察していた。ぐるぐると対流を起こしながら周り、時折止まりまた回り始める。その様子はなんだか私の頭の中を投影しているようだった。洗濯物をベランダに干していると気持ちのいい風がどこからか吹いてきた。私はそれに目を瞑り風を受ける。洗い立ての洗濯物の匂いとシャンプーの匂いが混じり心地よかった。


けんちゃんのギターを見つけた。それは見つけたと言うより、そこにあったものに気がついたと言う表現に近い。けんちゃんは私の部屋に居候みたいな形で住んでいた。けんちゃんの趣味のギターは素人の私でも分かるぐらい下手くそだったが、私はそんなけんちゃんのギターが好きだった。埃の被ったギターケースの外側にはポケットが付いていてそこだけ異質に膨れているのに私は気がついた。けんちゃんが死んで私はしばらく何も考えられず、そんな事にも気がつかないでいたのかもしれない。マジックテープのそれをピリピリとあけると中にはギターピックや、コードがつらつらと書かれた譜面が入っていた。それは私にとったらまるで暗号の様に分からなかったがけんちゃんがこれを必死になって練習していたと思うとほんの少しだけ愛着が湧いた。誰もが聞いたことあるそのバンドはけんちゃんのお気に入りだった事をほんのりと思い出した。いつかこの事もこの忙しい日常に埋もれて忘れてしまうんだろうなんて考えると私はたまらなく泣きたくなった。そのポケットにはまだ何か入っている様で異質に膨らんでいた原因はそれであるようだった。私はそれをゆっくりと手に取る。


『春、君を想ふ。』


そんな一文で始まるこの本はけんちゃんの愛読書だった。このたった一冊をけんちゃんは何度も何度も読み返していた。彼が亡くなってから私はその本を必死になって探した。けれどそれはいくら探しても見当たらなかった。私はそれに絶望した。けんちゃんはそれをまるで宝物みたいにいつだって大切に持ち歩いてたし、それはまさにけんちゃんの一部であり心臓みたいなものだった。けんちゃんが死んでから私の根本に宿る孤独はまた再発していた。けんちゃんに会って初めて孤独を忘れるこできた。それは彼自身もきっと同じだっただろう。何の縁か私は孤独を抱えたけんちゃんに巡り合い、そして少なからずこの部屋で過ごした日々があった。あの時の私たちにとったらそれはかけがえないの幸せで、いつか私がおばあちゃんみたいに歳をとって髪が白くなってもそれは変わることのない不変の幸せだと思っていた。けれどもけんちゃんは死んでしまった。けんちゃんは帰ってこないのだ。私はけんちゃんが死んでから初めて泣いた。初めての愛の大切さを知った。けんちゃんが教えてくれた愛を。

私は泣き疲れて二度寝した。起きた頃には外には夜が随分と迫っていた。

こうくんからの着信が沢山入っていた。

今度会った時には必ず謝ろうと思った。


次の日私が出勤するとそこには二日前の出来事が嘘のように回復した出島さんの姿があった。体からは何本かの管は繋がれているものの出島さんは以前と変わらない様子で私に話しかける。

「看護師さんごめんなさいね。迷惑かけて。」

「いえ、私の方こそ申し訳ありませんでした。もっと早く異変に気づいていれば…」

「何言ってるの。看護師さんたちのお陰で私は今生きてるの。ありがとう。」

出島さんはそう言うと優しそうに笑った。その笑顔を見ると涙が溢れそうになり急いでそれを抑える。

「私ね、八月にひ孫が生まれるの。」

「そうなんですか。それはおめでとうございます!」

「だからね。ほんとに感謝してるの。ひ孫にはどうしても会いたいからね。」


次に私は岡田さんの所へ行った。角部屋の個室はいつも静かな雰囲気を醸し出している。私はノックをし中に入った。

「え。」

思わず私は声を上げた。そこに岡田さんの姿がなかったからだ。そこにあるのは綺麗に整えられたベットと窓から差し込む美しい光だけだった。後ろから駆け足で主任さんが来る。

「ごめんね。小川さん。岡田さん昨日突然退院しちゃったの。ここにはもう入れないって言って。」

「そ、そうなんですか。」

私はその事をほんの少し悔やんだ。岡田さんに会ってもっと話をしたかった。それはけんちゃんの写し鏡としてということではなく、岡田さんという存在にもっと関わっていきたかった。

「それとこれ。」

それは見覚えのあるブックカバーのかかった一冊の本だった。

「これって。」

「岡田さん退院する時、これを担当の看護師さんに渡してくれって言って。約束したからって。」

主任さんはそれだけ伝えると足早にナースステーションの方へ向かった。渡された本のブックカーバーを外し表紙を見る。


『此処じゃない何処かへ。』


「そのまんまじゃん。」

私は独り言の様に呟き、口元を緩ました。

今になって思えば私が見ていた岡田さんは白昼夢だったのかもしれない。それは岡田さんにそこはかとない存在感があったからだ。彼は私に夢として何か大切なものを教えてくれた。そんな気がしていた。

病室を覗くとそこには居るはずの無い岡田さんの姿があった。

「本って案外単純でしょ?」

彼は笑っていた。

「ですね。」

誰もいない病室に一言、言い残し私はその場を去った。それから私は一生その姿に会う事はなかった。



蒸し暑い熱気と肌にジリジリと伝わる日差しが私の自慢の肌を焼いた。私達はおばあちゃんの三回忌のため山奥の霊園を訪れていた。お父さんそしてお母さんもこの霊園に眠っている。

「春花ちゃん!こっち!」

こうくんが山奥の開けた場所で私を元気に呼んでいた。

「早いよーこうくん。」

「ごめんごめん。早く春花ちゃんのおばあちゃんに会いたくてさ。」

こうくんはそう言うと咲く様な綺麗な笑顔で私を見つめた。

「おばあちゃん。お父さん。しばらくこれなくてごめんね。私の彼氏のこうくんだよ。とても優していい人なの。」

「春花ちゃんのおばあちゃん、お父さん。春花ちゃんのこと絶対に幸せにします。どうか見守っていてください。」

そう言ってこうくんは丁寧に手を合わせた。それは何分間もずっと。こうくんはそうやってしばらく手を合わせて、また来ますと力強く言った。その次に少し離れたお母さんのお墓に行った。私はお母さんにも同様に手を合わせてつぶやいた。

「私の名前ね。お母さんがつけてくれたの。春に咲く花みたいに明るくみんなを笑顔にしてほしいって。」

「春花ちゃんにピッタリな名前だね。」

それから私たちはお母さんに手を合わせた。それは随分と長く。頭の中では曖昧なお母さんの温まりを思い出してた。それはやはり思い出すことができなかったけど、お母さんのつけてくれた名前に大きな温もりを感じた。


春はいつでもアンラッキーの連続で私には死が付き纏っている。それは暗くて悲痛な現実にも思える。しかしそれだけではない。失う命もあれば生まれる命も多数存在する。それはいつか生まれた出島さんのひ孫だったり、お母さんが私を命懸けで産んでくれたり。いつか失われる命。それに伴って新しく芽吹く命。私はほんの少しだけ前者が多かっただけ。私はそう思う様にした。

此処じゃない何処かへ行きたい。岡田さんの言っていた言葉を思い出す。もしも岡田さんがけんちゃんの写し鏡ならけんちゃんは此処じゃない何処かへ行くことを切望していたかもしれない。それはまるで渡り鳥の様に春を求めて私の届かない場所に飛び立つような。

それかもしくは本が単純な様に世界はもっと単純でただの不運な事故であったのかもしれない。

ただ言えるのは生き残っている人たちはそこにある現実を捉えて、ないものを探していくよりずっと、そばにあるものを大切にしていかないとならない。それは今まで私の周りで失われた命が教えてくれたものだった。


「けどね、けんちゃん。私の中にも春はあったよ。」

「ん?何か言った?」

「んーん。なんでも無いの。行きましょ。」

「今日はどこ行こうか。」

こうくんが運転席で私を優しい瞳で見つめて言った。彼のその美しい瞳は唯一無二だと思った。

「此処じゃない何処か、かな。」

「?」

こうくんはとても不思議そうな表情を浮かべた。

いつか私のお腹にも小さくて温かな命が宿るかもしれない、その時はきっとまたここに来ておばあちゃんとお父さん、そしてお母さんに挨拶に行こう。そして遠くの地にあるけんちゃんのお墓に挨拶に行くのもいいかもしれない。こうくんが車を出発させて窓を開くとすっかりと夏の姿に様子を変えた桜が私たちを見送った。


私は鞄の中に大事にしまっていた本を取り出し、栞の挟まったページをそっと開いた。






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春、君を想ふ 赤野チューリップ @akano_1999

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