第16話 皇后の正体
「急ごう」
織は今、家にいないが何かあったら悲しむだろう。あそこには彼の仕事道具も置いてある。
地響きが靴を通して小刻みに振動し、徐々に揺れは大きくなる。爆撃かと思うほどの大きな唸り声が響いた。
かろうじて安堵したのは織の家からは離れている。柏たちとともに山へ入ると、太い木がいくつもなぎ倒されていた。大きな爪で引っかいた跡は、山にはいない獣の爪痕だ。
「殿下、あれを」
柏の指さす方向で大きな影が動いた。とたんに地響きが鳴り、立っていられないほどの揺れが起こる。瑛は剣を抜いた。
「な、なんだあれは…………」
巨大な影が蠢き、獣の臭いが充満した。
なぎ倒された気の先には、血のような真っ赤な目を持つ獣がこちらを凝視していた。
獣の轟く声に負けじと衛兵が雄叫びを上げる。
「よせ!」
瑛の制止も聞かず、数人の衛兵は巨大な獣へ切っ先を向ける。
獣はただじっとしている。向かう衛兵に何か仕掛けるわけでもなく、目が悲しげに見えた。
光る先端を腕や腹部、足をかすめ、獣は地に倒れた。
「殿下がやめろと申しておる!」
柏が叫ぶと、衛兵たちはぴたりと動きを止めた。
巨大な影はしだいに小さくなり、変貌を遂げていく。
姿は人だ。真っ白な女体が地に転がり、瑛は羽織を女体へかけた。
「誰か、担架を持ってきてくれ」
「そちらは……さっきの獣ですか……?」
「ああ、皇后だ」
「なんと、まさか皇后が……」
「彼女が化け物の正体だったのか……」
「柏」
「かしこまりました」
戸惑う衛兵よりも柏に頼むべきだと判断した。
数分後には数人の医師もつれて柏が戻り、二人で皇后の身体を担架に乗せた。
「お前たちはこのことは公言せぬよう、肝に免じておけ。時期がくればいずれ知ることになるだろう」
殿下としての立場はあるが、瑛自身も彼女の正体を知り迷いが生じていた。
一週間も寝込んでいたと、医師から伝えられた。
眠っていた間、目を開けば棚に新鮮な水菓子や飲み物が置いていて、寝台の脇にある椅子が少しだけ傾いている。誰かが座っていた証だ。
「もう良いのか?」
隣の部屋から瑛が顔を出した。
「いろいろとありがとうございます。もう大丈夫です。一日寝ていればよくなると思っておりましたが、随分と意識を手放していました」
「顔色がよくなったな。もう普通食に戻して問題なさそうか?」
「はい」
「では、朝餉を用意させよう」
今日の瑛はゆっくりと過ごしている。毎日動き回っている彼は、久しぶりの休息だという。
「医師から話は聞いているか?」
「ほとんど聞いたと思います。皇后のことも、……家のことも」
皇后が獣であると聞かされ、あらかた予想はしていたためにそれほど驚きはなかった。だが、医師から告げられたのはそれだけではなく、住んでいた家が崩壊してしまったことは唖然とした。
獣が暴れたときに木がなぎ倒され、家に当たってしまったのだという。
「残念ですが、もうあの家には住めません。とても気に入っていたのに」
「ここに住めば良いではないか。仕事道具も、こちらに持ってきたぞ」
「それは有り難いのですが……」
問題ないのは仕事道具だけではない。梟のことだ。家の中に木箱を設置し、今は家を無くしていることだろう。
「もしや、あの子のことか?」
窓には梟がいて、じっとこちらを見ている。
「中へ入れてもよろしいですか?」
「ああ、構わん」
窓を空けると、梟は待っていましたとばかりに織の肩に止まった。
「可愛らしい客だ。ずっと飼っていたのか?」
「実は家族との手紙のやりとりをしていて、梟に届けてもらっていたのです」
「それは賢い子だ。俺にも来るか?」
「人懐っこい子ですよ」
村でも梟は子供たちとよく遊んでいた。瑛の肩に乗せてやると、梟は織の肩にいたように何ら変わりなくおとなしくしている。
「おとなしいな」
「そうでしょう? 家の中に木箱を作っていたのですが、そちらも壊れてしまったのでしょうね。また作り直します」
「ここに設置したらいい」
「殿下の部屋にですか?」
「猫や小鳥を飼っている人もいる。梟だって問題ないだろう」
朝餉の後は家に戻った。覚悟はしていたが、愛着のある家が無惨な形になり、さすがにショックを隠しきれなかった。
運良く梟の住む木箱は無事で、織は木箱のみを持ち去って自分の部屋に設置した。すると梟はさっそく木箱の中で落ち着いた。さすがに殿下ともあろうお方の部屋へ巣箱を置くのは忍びない。梟は脂粉も多く、余計な気を使ってしまうためだ。
「餌はいいのか?」
「お腹が空けば自分で狩りに出かけます。すぐそこは山で、小動物や虫が豊富ですから」
いくら休みといえど、瑛の隣に住まうことになれば仕事部屋も用意しなければならない。
広い部屋なので、衝立を立てて寝台と分けた。同じ煌苑殿に住まう医師ともやりとりが円滑に行えるだろう。
「お前と同じ部屋に住めるのだから、とても気分がいい」
瑛は平然と言ってのける。家族のような愛情を向けてくる彼に、居心地の良さを感じていた。
翌日に皇后が意識を取り戻したと連絡が入った。
禧桜と医師、瑛はともかく、織も来いと言われ聞いて驚愕した。
獣の姿になる陛下を治せるのは、現状考えられるのは医師と薬師だけだ。皇后の容態を知るのも一歩である。
最初は無言を貫いていたものの、皇后の頬に涙が流れ、布団に吸い込まれていく。
「この国など、滅びてしまえばよい。誰も助けてはくれぬ」
「なぜ獣の姿になられたのです?」
医師が何度質問をしても、皇后は国に対する怨恨を声に出すだけだ。相当根についていて、心の傷は薬ではどうにもならない。
「憚りながら、私自身、皇后の特異なお身体を治したいと考えております。もしかして、この国が皇后の尊厳やお身体を傷つける行為をしたのでは……と」
織が声をかけると、あれだけ気が強い皇后の姿は微塵も感じられなくなった。
今は泣きじゃくる子供よりも小さく見え、抱きしめたくなる衝動に駆られる。それほど幼い存在だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます