淫宮の秘め事と薬師シキ

不来方しい

第1話 瑛と織

 川の流れる音、聞いたことのない鳥のさえずり、風に乗って葉が擦れあい、宮殿の音楽隊が奏でる音以上の贅沢な時間だった。

 水の中の石や砂まで、はっきりと見えるほどの透き通った水には、見たことのない魚が泳いでいる。

はく、あれは食べられるだろうか」

「あれほど澄んだ水に棲んでいるのですから、きっと身もしっかりとついた魚でしょうね」

 水に手を入れようとしたえいを制止し、柏は自ら手を入れてすくい、口に含んだ。

「まろやかで口当たりの良い水ですね。このような水は飲んだことがありません」

「俺も飲んでみる」

 柏の真似をして瑛も透明な水を飲んだ。

「本当だ。とても甘い。持って帰ることはできないだろうか」

「引くのはとても難しいでしょうね。山一つ分以上離れていますし」

「……ここは平和だ。我々の住む地もこうであってほしい」

 柏は瑛の分の水も皮袋に入れ「そうですね」と頷いた。

 瑛郭は夏の暑さを少しでも和らげようと、煌苑殿こうえんでんを離れて避暑地へ来ていた。

 立場上、従者たちがわんさかついて来ようとしたが、瑛は丁重に断りを入れて柏郭はくかくのみを連れてきた。二歳年上の柏とは幼なじみで、剣の腕や乗馬を競い合う仲だ。

 柏は剣の腕っ節がめっぽう強く、齢十七にして大人十人相手でも負けなしだ。瑛も剣の腕には自信があり、たとえ山賊が現れようとも負ける気がしない。

「瑛様、あまり遠くへ行ってはなりませぬ」

「判っている」

 十歩歩くたびに同じことを繰り返されるものだから、瑛は苦笑いを浮かべるしかない。

「これはなんだろう?」

 腰までしかない木には小さな赤い実が成っていた。上には青々とした葉が実を隠すように覆っている。

「うっ…………!」

「瑛様?」

 いきなり膝から崩れ落ち、瑛は柔らかな土に膝をついた。

 頭が真っ白になり、熱が一気に上昇するが、身体が小刻みに震えた。額には汗粒が浮かぶ。

「殿下? 殿下!」

 柏も本来の呼び名である「殿下」と何度も呼ぶが、瑛は肩を揺らしながら乾いた息を吐くだけだ。

「どうしました?」

 木陰から現れたのは小さな少女だった。籠に赤い実や何かの雑草を抱えている。

 少女は倒れた瑛を見て、駆け寄ってきた。

「いきなり倒れたんです。原因が判らず、近くの村に医者はおりませんか?」

「……脈が弱くなってます」

 少女は瑛の脚を見て、いきなり下袴を上げ脚をむき出しにした。

「なっなにを!」

 柏の叫びも気にせず、少女は自身の着物の帯を解くと、瑛の腰に巻いてきつく結んだ。

「そちらの水を下さい。脚を洗います。この方は毒蛇に噛まれています」

「毒蛇ですと?」

「お早く。毒は一刻を争います」

 柏は先ほど汲んだばかりの水の入った皮袋を少女に渡した。

 瑛の脚には小さな穴が二つ並んでいて、血が滲んでいる。

「毒のある蛇の見分け方ですが、噛まれた跡を見ると二つの穴が並びます。毒蛇は毒腺の通った毒牙があるんです。すぐに心臓へ毒が回らないよう紐などで縛り、水で洗い流して下さい」

 少女は懐から麻袋を取り出し、中に入っている粉薬を瑛の口へ入れた。残った水で喉を潤すと、徐々に血の気が戻っていく。

 足下の下生えが揺れ、隙間から毒蛇が顔を出した。

 柏は冷静に小刀を抜き、銀色の切っ先を毒蛇へ向ける。

「何をするのですか」

「毒蛇を始末しようと、」

「始末? 毒蛇も生きています。生体の命を奪うなどもってのほかです」

「しかしっ……」

「柏……やめろ……」

「瑛様!」

 瑛は弱々しく呟くと、柏はすぐに側へ駆け寄る。

「大丈夫だ……命を奪うな……」

「判りました」

「……ここにいて下さい。人を呼んできます」

 少女は籠を持って立ち上がると、帯のなくなった着物を直し足早に去っていった。

 まだはっきりと目が見えないが、小さな少女はとても頼もしく思えた。




「シーキー、いる?」

 薬草を引いていると、鈴が顔を出した。鈴姫りんひめしきの妹分で、織も彼女を家族のように思っていた。

「どうしたの?」

「織、あの客人が意識を取り戻したよっ! 今はおばあさまが診てるけど、織にお礼を言いたいらしいから連れてこいって」

「判った。今行くよ」

 織はうんと背伸びをし、作りたての薬を持って鈴の後に続いた。

 客人は珍しく、子供たちが見ようと診療所の回りに集まっている。

「おばあさま、参りました。薬です」

「ああ、織。早く顔を見せておやり。さあ、中へ入って」

「失礼します」

 中へ入ると、蛇に噛まれた青年はすっかり顔色が元に戻っていた。

「血行が良くなってますね」

「ありがとう。君のおかげで助かった」

「お役に立てて光栄です」

 織は優雅にお辞儀をすると、瑛はまじまじと見つめる。

「脚にちくっとした痛みが走った。虫か何かにやられたのだろうと気にもとめていなかったが、いきなり目がかすんで崩れ落ちたんだ」

「山にいる蛇にも種類がいて、あなたを噛んだ蛇はまだ毒性が強いものではありませんでした。心臓から離れた位置を噛まれていましたし、大事にいたらなかったんです」

「私はそうは思わない。あなたの処置が良かったからだ」

 織は目を見開いた。

「山を歩くのに、薬すら持ち歩いていなかった。あなたと出会えなかったら、今頃……」

「瑛様!」

 扉が大きな音を立てて開いたかと思うと、どたばたと背の高い男が入ってくる。毒蛇を切ろうとした男だ。

「良かった……! よくぞご無事で……」

「柏、私はもう大丈夫だ。それより、こちらの少女と村へ何かお礼をしたいので、すぐに手配してほしい。それと、少女へ何か衣服を。彼女の帯を汚してしまった」

「かしこまりました」

「あらためて。私は瑛と申す。こちらは右腕の柏だ」

「あ……わ、私は、織と申します」

 織はしどろもどろに答える。何やら盛大な勘違いをさせてしまっている様子だが、どう口を挟んでいいものかと唸る。

「そちらの少女は?」

 振り返ると、開けっ放しの扉から鈴が覗いている。

「あちらは鈴です。私の妹分で、幼なじみなんです。勉強も遊びもずっと一緒で、この村で育ちました」

「そうか。柏は私の二つ上で、私たちも幼なじみなんだ。同じだな」

「ええ……そうですね」

「さあ、話はそれくらいにして、織も鈴も戻りなさい。瑛殿はまだ安静に」

「ありがとうございます。回復したら、ぜひ村を見せて下さい」

「もちろん構わないよ。そっちの良い男も部屋から出なさい」

「どうか瑛様をお願いします」

 織も一揖して廊下に出るが、いつまでも瑛がこちらを見つめているため、逃げるようにして鈴を連れて出た。

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