人生を賭ける

無銘

人生を賭ける

 一人の部屋で、今日も彼女の帰りを待っている。

 待つという行為はなんだか惨めだ。私は空っぽを抱えて彼女だけをひたすら求めているのに、彼女は私以外のものに熱中している。私のことなんて頭の片隅にもないのだろう。そう考えると、余計に虚しさが募った。けれど、こうやって感傷に浸って自分を傷つけることくらいしかやることがなくて、マイナス思考は止まらなかった。

 今彼女はパチンコを打っている。それも私のお金で。

 私はいつでも求められた額をそのまま彼女に手渡した。金銭的な余裕なんてなかったけれど、彼女の期待を裏切ることが怖かった。それを理由に捨てられることが怖かった。けれど、二人の間にお金のやりとりが増えるにつれて、心の距離は広がっていくみたいだった。

 パチンコから帰ってきたら、彼女は私とは碌に口をきこうともせずにお風呂に入ってそのまま寝てしまう。機嫌が悪いと、話しかけても無視されたり、ひどい時には舌打ちと無関心を貼り付けたような冷たい視線を寄越してくる。そんなことの繰り返しで、いつの日か私から話しかけることもなくなった。

 それでも、私は毎日彼女の帰りをただじっと待っている。まるで幸せだった過去に縋り付くように。

 昔の彼女は見た目こそ派手で、怖い人だとよく勘違いされていたけど、優しかったし何度も抱いてくれたし好きといってくれた。だから私は友人たちの静止の声にも耳を貸さず彼女と恋人で居続けていた。

 私は、金髪にピアスの彼女が、少し頬を赤らめて言う好きの言葉が好きだった。その言葉が生まれて初めて触れた真実の言葉だと思った。

 だから私は誓った。私だけは誤解されやすい彼女の理解者でいようと。

 今の私は彼女の理解者でいれているのだろうか。彼女はまだ私のことを好きでいてくれているのだろうか。私はただ彼女との関係を大事にしたいだけなのに、そうしようとすればするほど彼女の心は離れていくみたいだった。

 彼女がおかしくなったのは去年の夏のある出来事がきっかけだった。その出来事とは彼女のおばあちゃんの死だった。

 私と彼女が初めて身体を重ねた夜、行為の余熱が残るベッドの中で私を抱きしめながら、彼女はポツリポツリと自分の境遇を語った。

 彼女の家庭は父親が無職のギャンブル中毒者で、母親が水商売で稼ぐお金でどうにか日々を暮らしている状態だったらしい。けれど、そんな母親もアルコール依存症で酒癖が悪く、飲んでは父親と一緒に彼女を殴るような人だったそうだ。そんな時に彼女を守ってくれたのが彼女のおばあちゃんだった。彼女にとって、家の中でおばあちゃんだけが味方だった。おばあちゃんは彼女に何度も言った

「私がお母さんの育て方を間違えたがばっかりに、あなたに辛い思いをさせてごめんね」

「あなたは少しでも早くこの家を出るんだよ。私のことは心配いらないから」

 彼女はその言葉通りに高校生になると家を出て、上京してそこからずっと一人で暮らしてきた。けれどおばあちゃんを置いてきたことはずっと心残りだったらしい。だから彼女の夢は十分なお金が貯まったら実家からおばあちゃんを連れ出して、一緒に東京で暮らすことだった。そしてその夢は、その時にはもう叶う直前まで来ていた。

「そしたら3人暮らしになっちゃうけれど、奈津は平気?」

 優しい手つきで私の髪を梳きながら彼女は尋ねた。

「全然大丈夫!ていうか、私も未音のおばあちゃんに会って、お礼を言いたいかも。おばあちゃんがいたから今の未音がいるんだろうし」

 私の言葉に彼女は嬉しそうな笑顔を浮かべ、私をぎゅっと抱きしめてくれた。あの時の、優しい体温を今でも思い出すことができる。

 そして、去年の夏。うだるような暑さが猛威をふるっていたある日に、満を辞して彼女は実家へと帰っていった。おばあちゃんを連れてくるために。

 私は彼女が心配だった。私も一緒に行きたかった。

 けれど彼女はこう言った。

「これは私の家族の問題だから奈津を巻き込むわけにはいかないよ。奈津はここで待ってて。奈津が待っててくれるって思ったら私、頑張れるから」

 私は彼女の背中を見送ることしかできなかった。家のしがらみに負けず無事に帰ってくることを祈る他になかった。

 私の祈りが通じたのか、彼女はその日のうちに帰ってきた。けれど、彼女の隣におばあちゃんの姿はなかった。玄関で私が見たのは、生気が抜けたように真っ青な彼女の顔だった。

「大丈夫!?」

 私は駆けていって彼女を抱きしめた。私の腕の中で彼女は呟いた。

「おばあちゃん死んじゃってた。お葬式もあげてもらえてなかった」

 そう言ったきり、彼女は黙り込んだ。泣く元気もないといった感じだった。私はなんと言っていいかわからなくて、彼女をぎゅっと抱きしめた。けれど、私の体温が彼女に通じているとはとても思えなかった。

 うだるような暑さの中で、彼女の体だけが死体のように冷たかった。

 その日から彼女は電池が切れたみたいに眠り続けた。一日に一回起きて、私の作ったご飯を食べてまた寝る。それの繰り返しだった。仕事はいつのまにか辞めたみたいだった。

 在宅勤務の私はパソコンを寝室に持ち込んで、彼女の隣で作業をした。少しでも一緒にいてあげたかった。けれど、彼女の悲しみを癒せている実感も共有できている実感もなかった。あの日以来、彼女は笑顔も言葉も何も向けてはくれなかった。

 そんな日々が続いていたある日、彼女はおもむろに布団から這い出て、最低限の身支度をして、私には何も告げずに家を出た。

 ずっと家にいたから気分転換に散歩でも行ったのだろうか。何にせよ今の状況が少しでも変わるならそれは良いことなのだろう。

 そんなことを考えていた。けれど心配は募った。彼女が私の側を離れるのは本当に久しぶりのことだった。

 心配が昂じてこのまま彼女が帰ってこないような気までしてきて、一度湧いた不安は心の中でどんどん繁殖して、気がついた時には家を出てこっそりと彼女の跡をつけていた。

 彼女は真っ直ぐ、目的地が決まりきっているみたいに駅の方へと向かって歩いて行った。

 どこにいくつもりなのだろうか。まさか本当にどこか遠くに行ってしまったり。

 彼女は駅前の銀行のATMへと寄ってそこでお金をおろした。まるで、遠出をする準備をするみたいに。私はいよいよ身構えた。彼女が駅の構内へと入るようなら止めるつもりだった。

 けれど、私の危惧とは裏腹に、彼女は駅前のビルの過剰な電飾の中に吸い込まれていった。そこはパチンコ屋だった。

 私はどうすればいいのかわからなくて、その場で立ち尽くしていた。心の中で安堵と悲しみが渦巻いていた。

 その日から、彼女は毎日家を出た。私は毎日その跡をつけた。目を離すと彼女が消えてしまうような気がしていた。それはある種の強迫観念だった。

 しかし、彼女は私の危惧とは裏腹に、決まって過剰な電飾の中へと消えていった。私は毎日それを見届けた。胸の中にはいつだって安堵と悲しみが渦巻いていた。

 そんなある日、いつもみたいに彼女をつけていたら、彼女が不意に後ろを振り向いた。視線が真正面から衝突した。

 私は彼女の視線に凍り付けにされたようにその場で固まった。そんな私を見て彼女は笑みを浮かべた。彼女の笑顔を見るのは本当に久しぶりだった。

 けれどその笑みは昔みたいに優しくて暖かなものではなかった。彼女の浮かべた笑みは卑屈と嫌悪が混ざったようなものだった。

 彼女は少し離れた場所の私に向けて叫んだ。

「最低だね。最低だよね」

 彼女は踵を返して歩みを再開した。彼女の背中がどんどんと遠ざかっていった。それを追いかけることはできなかった。乾燥した秋風が私の頬を引っ掻くように撫でた。

 それ以来私は彼女の跡をつけるのを辞めた。別に彼女をつけなくても、彼女は私の側からいなくなったりはしなかった。だから彼女が消えるという強迫観念はどこかに消え去った。

 代わりに漠然と感じ続けてきた悲しみが言葉を伴って噴出した。

 彼女の悲しみのはけ口に、私は選ばれなかった。一番辛い時に彼女が頼ったのは私ではなくギャンブルだった。パチンコだった。私には彼女に依存されるほどの価値もなかった。

「貯めてたお金ぜんぶ使っちゃったから、ちょっとだけ貸してくれない?」

 だから、そんな言葉を彼女にもらった時、私は心のどこかでうれしいと思ってしまった。まだ、私にも存在意義があるんだって。まだ私は必要とされているんだって。

 そうして、私は自らの手で彼女の理解者からただの金蔓へと成り下がった。ただの金蔓としてでも彼女と繋がっていられるならそれでいいと思えてしまった。どうしようもなく、私は彼女のことが好きで離れられなかった。

 だから、今日も彼女を待っている。昔の彼女が戻ってくるのを待っている。

 私は悲しみに明け暮れるのにも飽きて、何の気なしにパチンコについて調べてみた。

 そこにはこう書いてあった。当たった時の快感が忘れられなくて、それをもう一度味わいたくて依存してしまうと。

 そんな記事を見ていると、アパートの鉄筋の階段の甲高い音がした。それから程なくしてドアの開く音がした。

「ただいまー」

 そんな声が玄関から聞こえてきた。そんな言葉を聞いたのは久しぶりだった。私は思わず立ち上がって、玄関へと向かった。

 玄関で彼女は何かの紙袋を持って佇んでいた。その紙袋はよく見たら、駅前の評判のいい洋菓子屋さんのものだった。

「ケーキ買ってきたから一緒に食べよ」

 彼女はそう言って笑みを浮かべた。それは昔の優しい笑顔には遠く及ばない不器用な微笑みだった。けれど、そんな笑みが痛いくらいに私の心臓を掴んだ。

 久しぶりに掛け値無しに幸せだと思った。そして気づいた。

 ああ、私も彼女と同じだ。

 一度幸せの味を覚えてしまったからやめられない。離れられない。いつかもう一度、あの幸せが味わえるかもと思う気持ちを止められない。

 私は彼女に人生を賭けている。そうして今日も、緩やかに人生が消費されていく。

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人生を賭ける 無銘 @caferatetoicigo

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