第9話 人殺し

 春であるが雨の夜、それも塹壕の中は寒かった。

 兵士たちは足りない毛布を分け合い、お互いに抱き合うように眠っている。いちおう壕には屋根が付いているので雨が入って来る事はなかったが、それでも内部は不快な湿気で満ち溢れていた。

 睡眠をするには最悪な環境である。しかし壕の中にいる誰もがぐっすりと深い眠りに入っていた。

 日頃の疲れが溜まっているせいだ。そのうえ今夜は珍しく嫌がらせの夜間空襲もない。

 終わりの見えなかった陣地構築から解放され、みんな泥のように眠っていた。

 無論、敵の第二派が上陸した事は伝えられているし、解放されたのも敵の攻撃に備えるためだ。

 しかし今はそれすら気にならずに眠れるほど疲れ切っていた。

「ミキ、交代っス」

「うむむ……」

 ぐっすり寝ていたところを起こされ、ミキは唸るような声を上げながら目を擦った。

「もうそんな時間……?」

「そんな時間っスょ…………」

 毛布に潜るとあっという間にアカツキは寝てしまった。

 本来なら歩哨の交代には然るべき引継ぎを行う規定があるのだが、そんな事すら守られていない。それだけみんな疲れているのだ。

 ミキは小銃を持ち、鉄帽ヘルメットを被って歩哨に立つ。

 陣地構築から解放されて三日目。第五中隊は川岸の陣地から、飛行場の東にある陣地に交代を命ぜられていた。

 そして陣地からやや離れた場所に幾つかの小哨を作り、分隊で交代しながら警戒に当たっている。

 つまりミキたちは実質的に敵前にいるような状態なのであるが、敵襲が予想されている地点は北の陣地であるから皆気楽なものだった。

 もっとも歩哨に立つ時ばかりは緊張の連続だ。

 何しろウッカリ敵を見逃せば小哨どころか部隊、否、友軍全体を危険に曝す事になる。そして何より自分の死にも繋がるため、眠いからといって気を抜く事はできなかった。

 元より臆病な性格のミキであるから、ちょっと物音がしただけで跳び上がりそうになる。そのため歩哨中は常にビクビクしており、一時間が経過して次の歩哨と交代になる頃にはすっかり心身共に疲れ切ってしまっていた。

 交代し、生乾きの毛布に潜ると次の瞬間には既に眠りについている。それほどミキは、否、兵士たちには睡眠が足りていなかった。

 しかし無情にも朝は直ぐにやって来る。

 まだ寝足りないと思いつつ、ミキたちは起床して毛布を片付けた。

 疲れは取れないが、とにかく今日の夕方まで警戒任務に就けば後方陣地にいる分隊と交代が出来る。陣地にはある程度の生活環境は整えてあるから身体を休める事くらいは可能だ。少なくともこんな穴蔵とは比べ物にならない。

 早く交替の時間にならないか。

 みんなそればかりを考えていた。

「おい、隠れろ!」

 唐突に監視所代わりの木の上に立っていたアサキに言われ、ミキたちは大慌てて壕の中に入った。アサキも木から飛び降りると急いで壕の中に転がり込む。

 この壕は入念に擬装されており、入った後に「蓋」を載せれば外部からは一切見えなくなるように造られていた。

「なにがあったんスか?」

「シッ!」

 なんだか解らないまま、みんな黙りこくって事の成り行きを見守る。

 ソッと擬装の隙間からミキが外を覗いて見ると、何やら草がガサゴソと動いているのが見えた。明らかに生物が動いているような感じだ。

 そのまま監視を続けていると、目の前に擬装網を被った兵士たちが現れた。

 それも一人や二人ではない。十人、否、もっと多い。

「百人は軽くいるな」

 分隊長の軍曹が備え付けられた監視窓を覗きながら呟く。

 こっちは十名弱。見付かれば勝負にもならない。

 軍曹は有線電話のハンドルを回して中隊本部を呼び出し、小声で現状を報告した。

 それから分隊の全員に小声で命令を伝える。

「監視を続行する。全員気付かれないようにしろ」

 それからしばらくの間、ミキたちは目の前を通過していく敵の群を監視する。

 思えば「生きた敵の群」をこれだけ間近で見たのは初めてであった。

 青い軍服に皿のような形の鉄帽。腰に巻いた帯革ベルトには銃剣や弾薬盒ポーチが付いており、肩掛け式の雑嚢カバンや水筒をぶら下げている。

 特徴的な物などない。典型的な装備をしたマーガレット公国軍の兵士たちである。しかし服装には戦闘をしたような形跡はなかった。

 おそらくは上陸第二派の連中だろう。

 身長がエラい小さく見えるのは小人族ホビットであるからかもしれない。

 十分ほど息を殺して身を隠していると、敵兵士たちはミキたちに気付かずに前を通過していった。

 ホッと安堵の溜息が漏れる。

 しかし安心するのは未だ早かった。なんと新しい部隊が現れ、再びミキたちの目の前を通過し始めたのだ。

 先ほどより数は少ない。合わせればちょうど一個中隊ほどの規模だろう。

 軍曹は隠れながらも逐一報告をしていたが、唐突に「あ?」と素っ頓狂な声を出した。

「どうしました?」

「切れた」

 有線電話が唐突に切れたという事は電話先に何かがあったか、あるいは電話線自体が切れたかのどちらかである。

「なんか嫌な予感がする」

 軍曹は何度か中隊本部の呼び出しを行ったが、相変わらず連絡は着かない。

「…………戻って来たぞ」

 分隊の一人がそう呟いた瞬間。

 凄まじい数の銃声が響き、壕の近くに銃弾が襲い掛かった。

「うわぁ!」

 全員壕の中に縮こまる。

 しかし銃弾は壕の中には飛び込んでこない。どうやら当てずっぽうで撃って来たらしい。

 だが壕の近くを撃って来たという事は、大よそとはいえこちらの位置を把握しているという事だ。

 おそらく何処かで電話線が見付かったのだろう。

 その場で即座に切断し、線を辿って監視しているミキたちの所まで戻って来たのだ。

「射撃の規模からするとオレたちと同数か、少し多いくらいか」

「やりますか」

「他の連中にも戻って来られれば終わりだ。一斉射の後に引き揚げるぞ。軽機は狙え! あとの者は手榴弾!」

 軽機関銃の銃手が照準を合わせ、他の分隊員は手榴弾を取り出す。

 幸いにして敵はまだこちらの正確な位置を掴んでいない。当て推量で撃っているだけだ。

「目標前方の森、撃て!」

 機関銃が景気の良い連続した発砲音を鳴らし、一瞬だけ出来た隙を突いて全員が壕の合間から手榴弾をぶん投げる。

 爆音。

「よし、下がれ!」

 号令一下、全員壕から逃げ出す。

 いざという時のために壕は四方八方に出入口を作っている。そのため敵がいると思われる位置の反対側から順次跳び出した。

 しかし真っ直ぐに後方の友軍陣地まで逃げれば先ほど通過していった敵主力とかち合う可能性がある。そのためかなり時間は掛かるが森を大きく迂回するようにして逃亡した。

 幸いにして、この数日で飛行場周辺の詳細な地図が作成されている。そしてミキたちの頭の中にもしっかり叩き込んであり、小さな道も幾つか作っていたので森を抜けるのは差ほど困難ではなかった。

 それでも視界不良である事に変わりはなく、しかも敵は後ろからバンバン撃ちながら追い掛けてくるので気が気でない。

 機関銃や手榴弾で応戦出来れば良いのだが、そうすると他の敵にも見つかる恐れがある。そのため反撃は出来ず、ただひたすら逃げるのみであった。

 そうこうしている間に銃声の数が増えてくる。

 最初、ミキは追手が増えたのかと錯覚した。だが銃弾は飛んでこない。

 先ほど通過していった敵が味方の陣地に突入したのである。聞こえてくる銃声はその戦闘音であった。

 しかし逃げている最中のミキにそんな事を考えている余裕はない。自分が撃たれているのだと錯覚し、とにかく逃げて、逃げて、逃げる。

 しかしこの数日続いた雨が祟った。

 長い雨で地面はぬかるんでおり、所々に深い水溜まりが出来ていたのである。そしてミキはそこに思いきり突っ込み、足を滑らせて転倒した。

 それだけなら未だしも、半ば斜面のようになっていたのだから堪らない。転倒した勢いでそのまま転がり、泥を浴びながら身体は滑っていく。

 幸いにして近くに浮き上がった木の根があったお蔭で直ぐに止まったが全身を強かに打ち、痛みにのたうち回っている間に分隊の皆に置いて行かれてしまった。ミキが転んだことに気付かなかったのだろう。

 全身泥まみれでミキは装具まで真っ茶色になってしまったが、転んだ拍子に投げ出したのが幸いして小銃だけは何とか無事だった。

 小銃に銃剣を取り付け、ミキは周囲を見渡す。

 追手は分隊の方に向かったのか、周囲に敵は見当たらず、銃弾も飛んでこない。

 運が良かったのか、それとも悪かったのか。滑って転んだお蔭でミキだけ追手を撒く事が出来たらしい。

 さりとて油断は禁物だ。戦闘の音は続いている。

 本来であれば銃声が鳴り止むまで何処かに隠れていたいが、残念な事にミキは兵士だ。怖いからという理由で戦闘を放棄する事は許されない。

 おっかなびっくり小銃を構え、音を立てないように恐る恐る森の中を進む。

 すっ転んだせいで自分の位置を完全に見失ってしまった。おかげで折角脳みそに叩き込んだ地形図もサッパリ役に立たない。

 ふと。

 背後から視線を感じた。

 小銃を構えながら、恐る恐る振り返る。

 目が合った。

 そこに立っていたのは皿のような鉄帽を被った兵士だ。

 青い軍服を着て、腰には軍刀。顔のよく整った女性であり、奇妙な事に耳が異様に長く尖っていた。

 間違いなく公国軍の将校である。

 金髪の将校もこちらに気付くと即座に回転式拳銃リボルバーを向けた。しかし弾切れなのかカチッと空撃ちの音が鳴っただけだ。

 同時にミキも小銃を撃っていたが、驚きのあまり照準をほとんど付けていなかったので弾は明後日の方に飛んで行った。

 慌てて次弾を装填しようと槓桿を操作したが、何かが引っ掛かったのか上手く動かない。オマケにろくに身構えずに小銃をぶっ放した物だから拍子で尻もちまで着いてしまっていた。

 敵将校も拳銃が弾切れだと察するや否や、そのまま放り棄てて細身の軍刀を抜く。

 大慌てでミキは何度も槓桿を操作したがガチャガチャ鳴るばかりで上手く動かない。

 蛮声を上げながら敵将校はミキに突っ込み、掲げるかのように軍刀を振り上げた。

 怖い。

 ただそれだけの理由で、無意識のうちにミキは小銃を前に突き出していた。

 小銃に取り着けた銃剣が敵将校の腹部に突き刺さり、その勢いで手から抜け出した軍刀が宙を舞う。

 二、三回ほど宙で回転した軍刀が落ちて地面に突き刺さると、それで思い出したかのように敵将校は膝を着き、口から血を吹き出した。

 碧色の瞳がしっかりとミキの顔を捉えている。

 だがそのまま動かなくなると、敵将校は覆い被さるようにしてミキの上に倒れた。

「ヒィッ……ヒィィ」

 奇声のような悲鳴を上げ、ミキは転がるように敵将校から逃げる。

 しかしよく見れば、敵将校は既に絶命していた。銃剣が突き刺さったのは即死するような部位ではなかったと思うが、とにかくピクリとも動かなくなった事に間違いはない。

 思わずホッと安堵の溜息を吐く。

 だが安心をするには早過ぎた。

「少尉殿ッ!」

 繁みから勢いよく青い軍服の兵士が現れる。

 そして斃れている敵将校とミキの姿を見るや、憤怒の表情で「貴様ァ!」と手にする小銃を構えた。

 だが敵兵が引き金を引くよりも先に、対面の草陰から放たれた銃弾が彼の頭に飛び込んだ。鉄帽と頭蓋骨によって弾速は落ちたが脳の破壊を止める事は出来ず、頭を撃ち抜かれた敵兵は即死して地面に崩れ落ちる。

「ベニキリ、立つっスよッ!」

 草陰から現れたのはアカツキだった。手に持つ小銃の銃口からは硝煙が昇っている。

 アカツキが尻もち着いているミキに手を伸ばそうとした瞬間、再び敵兵が現れてアカツキに銃剣を突き立てた。

 だが切っ先が突き刺さる直前にアカツキは身体を逸らすと、振り返り様に銃床で敵兵の顔面を殴打する。

 転倒する敵兵。アカツキは容赦なく止めを刺そうとしたが、草むらから突如として三人目の敵兵が跳び出してアカツキを押し倒した。

 慌ててミキが立ち上がろうとすると、そこを目掛けて今度は四人目の兵士が「死ねーッ!」という蛮声と共に銃剣を突き出しながら突っ込んでくる。

 銃剣では間に合わない。

 ミキは覚悟を決め、突っ込んでくる敵兵の腹に思いきり頭突きをかました。

 これがヒュマやホビットなどであれば衝撃で終わっただろう。

 しかしミキは鬼人族オーガであるから角がある。

 刺さるという程でもなかったが敵兵はミキの角で突かれて「ゲボッ」と珍妙な声と共に嘔吐した。

 角を突いたまま、勢いに乗ってミキは敵兵を木に叩きつける。

「クソがァ!」

 鼻から血を流しながら、アカツキに殴打されて転倒していた敵兵が小銃に手を伸ばす。

 だが彼の手が小銃に届く事はなかった。

 その前に駆け付けたアサキの銃剣が深々と横腹に刺さっていたからだ。

 アサキは敵兵を蹴り飛ばして銃剣を抜くと、今度はアカツキに覆い被さっている敵兵の背中に突き立てる。

 斃れた敵兵を押し退け、アカツキは立ち上がると自分とミキの小銃を取った。

「ま……待て」

 ミキの角で腹部をやられていた敵兵は手を前に出して制止したが、アサキは構わずに銃剣を突き殺した。

「よし、行くぞ」

 アサキに言われ、ミキとアカツキは頷く。

 だが走り出す前に、ミキは絶命している将校の近くに革の鞄が落ちているのを見付けた。

 書類や地図を入れておく図嚢マップケースである。

 腰に下げる型なのだが戦いの際に外れていたらしい。

 無意識のままにミキはその図嚢をひっ掴み、アサキとアカツキに続いて森の中を走っていく。

 そして気が付いた。

 これまでもミキは戦闘自体はしている。しかし明確に、自分の手で人を殺したのはこれが初めてだった。

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