能と狂言のカオス

森本 晃次

第1話 自殺の名所

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和4年3月時点のものです。


 日本には、自殺の名所と呼ばれるところがいくつもある。いわゆる、観光地であり、

「確実に死ねる場所」

 ということで、自殺者が多い場所。

 つまりは、観光スポットでありながら、かたや、

「危険な場所」

 という、両極端な面を持っている場所だともいえる。

 そんな場所だから、

「自殺の名所」

 などという、ありがたくない通称をつけられることで、さらに自殺者を引き寄せてしまい、自殺者が増えるという、

「負のスパイラル」

 となってしまうこともあるだろう。

 地元では、なるべく自殺者を出さないようにいろいろ工夫をしているようだが、なかなか防止が難しいのも本音というところであろうか?

 自殺者が多いといえば、

「北陸の東尋坊」

「華厳の滝」

「足摺岬」

 などといった、断崖絶壁であったり、

「青木ヶ原の樹海」

 などの深山幽谷というような場所があったりする。

 樹海などのように、

「一度入ると抜けられない」

 と言われるが、基本的には、案内板などを設置してある遊歩道なのだ。

 問題なのは、そんな場所から外れて、森の中に入り込んでしまった場合で、どこを見渡しても、木しかないことから、遭難しやすいのであろう。

 しかし、これはこの場所に限ったことではなく、どこにでも存在する話であった。

 そもそも、

「二度と出られない」

 などというウワサがあることから、入り込んでしまった人は、そう思い込むのだろう。

 しかし、自衛隊などのレンジャー活動などで、この場所が使われたりすることで、実際には危険な場所でもないようだ。

 この場所では、

「方位磁石が使えない」

 などという悪しきウワサがあったことから、余計に自殺の名所として強く言われるようになったのだろう。

 確かに溶岩の上にできたので地中に磁鉄鉱を多く含むことから、一時的に、方位磁石が誤作動を起こすこともあるようだが、それでも、冷静になれば、まったく方角が分からないというわけでもないのだった。

 樹海が、本当に危険だったのは、

「今は昔」

 の話であり、近年では、俗説としてあった危険なものも、かなり解消はされているようだ。

 ただ、だからと言って、自殺者が減るわけではない。

 そもそも、自殺者は、助かりたいと思っていくわけではないからだ。しかも、いったん自殺の名所として有名になれば、その悪名はなかなか払しょくできるものではない。テレビドラマは小説で紹介されたりすると、その影響力は絶大なのだろう。自殺が増える時期などはそれに比例して自殺者が多いのも無理もないことで、ある意味、しょうがないところがあるのだろうが、それで片付けてしまっては、地元の人にとっては、たまったものではないだろう。

 樹海では、捜索をすれば、今であれば、死体になる前に、助けられる可能性もある。

 もちろん、行方不明者が、樹海に入ったという証拠があればのことだが、どこに行ったか分からず、GPSも入っていないようでは、どうしようもないだろう。

 その点、断崖絶壁というのは、基本的には、

「死体が上がらない」

 と言われることが多いだろう。

 東尋坊などは、有名で、完全な断崖絶壁になっている。

 東尋坊というところは、福井県にあり、面しているのは日本海で、その断崖のすごさは、世界に3か所ほどしかないという。

 自殺者が多く、自殺の名所となっていることから、NPO団体が設立され、自殺を止める努力も行われている。

「救いの電話」

 なるものが設置されていて、自殺志願者の相談に乗ったりもしている。

 最近では、小型ドローンでのパトロールも行っているようで、さらに、NPO団体からは、救助した相手のその後の金銭的援助など行っているという。

 しかし、その反面、市議会などでは、

「自殺の名所として有名なところで、自殺者が減ってしまうと、観光地としての集客に困る」

 という理由で、このような対応を非難している、

「人道的に考えられない」

 と思われる輩もいたりする。

「人の命を何だと思っているのだろう?」

 と思えるのだ。

「自殺者がいなければ、集客できないほどの、低能の集まりです」

 とでも言っているようで、実に腹立たしいものだ。

 どうせなら、

「元、自殺の名所であったが、市民団体の努力によって、自殺者が減った」

 という触れ込みの方がいいのではないかと思う。

 せっかくの努力を踏みにじるような話を聞かれると、実に嘆かわしいことではないかと思えるのだった。

 そんな東尋坊では、潮の流れなどによって、

「一度身を投げたら、死体が上がらない」

 ということである。

 これは、この場所に限らず全国にある、断崖絶壁系の自殺の名所であれば、どこでも言えることのようだ。

 とにかく、想像を絶する高さであり、これだけ高いと、

「海面に達するまでの間に、死んでしまうのではないか?」

 と思われるほどだった。

 一番高いところで、25メートル級だというから、十数階のビルの上から落ちるのと同じことである。

 自殺をする人間がどのような心境になるのか、実際に自殺を考えたことのない人間には分からない。

 切羽詰まってくると、人間は、一体、何をどう考えるというのか、正直、その人の立場にならなければ、分かるものではないだろう。

 人間というのは、どうして死にたくなるのだろう?

 確かに人間生きていれば、一度くらいは、死にたくなるものだとは思う。後で忘れていても、それは、そこまで強い思い出はなかったというだけで、自殺を思いとどまった時にでも、自殺をしようとした意識を忘れてしまったからではないだろうか?

 そんなことを思っていると、死のうと考えるのは、

「生きているよりも、死んだ方がマシだ」

 と考えるからであって、実際に死というものを目の前にすれば、

「死んだ方がマシだ」

 と思った、

「マシ」

 という意識がどこを向いていたのか分からなくなってくるだろう。

 それこそ、樹海に入り込んだ時のようで、どこを向いていいのか分からなくなる。人間、進むべき道を見失うことほど怖いことはない。自殺の理由のほとんどは、見失ったとことにあるのではないだろうか?

 自殺の名所で、自殺をする人がいる反面、すぐ近くで、観光バスなどのツアーなどが、

「このあたりは、自殺の名所として有名で……」

 などと言われているのを聞くと、実に虚しくなってくるというものだ。

 いろいろな自殺の名所というところがあるが、ここで登場する場所は、

「自殺の名所」

 としては、広く知られたものではない。

 自殺の名所として広く知られるには、ただ自殺者が多いだけではダメで、

「観光地である必要」

 があるのだ。

 名所というのは、

「自殺者が比較的多い、観光地」

 という意味で、どちらかというと、自殺というよりも、名所という方が、ニュアンス的には強いのかも知れない。

 だから、前述の東尋坊のように、

「自殺者が減ると、来訪客が減るので困る」

 などという表現になるのかも知れない。

 そもそも、最初から、

「自殺するなら、どうぞうちでしてください」

 などと勧誘しているわけではない。

 自殺志願者が、勝手にやってくるだけで、本来は、観光地なのだ。

 逆に、

「自殺の名所」

 などと言われることで、変な誹謗中傷もないとは限らない。

 幽霊が出るなどというウワサが立ったとしても、やってくるのは、幽霊研究サークルの人間だったり、ホラースポットを面白がる人間であって、普通の観光客は、却って寄り付かないことになる。

 普通の観光客の方が家族連れなどになるので、お金をたくさん落としてくれるだろう。

 それを思うと、本当であれば、自殺の名所などという謂れは実に困ったものではないのだろうか?

 しかも、自殺の名所と呼ばれるところが、近くに他の観光地や名所、レジャーランドなどがあれば、人も増えるというものだ。

 当然、レジャーランド化された場所になっていて、ツアーだって組まれるだろうし、観光協会としては、

「自殺の名所であろうがなかろうが、結果的に集客できればいいだけのこと」

 なのであろう。

 だが、日本には自殺の名所と言われるところ以外でも、自殺者が多いところは結構あるに違いない。

 自殺志願者の数からいけば、実際の自殺の名所で死ぬ人よりも、見えていないところで、それ以外の自殺場所を選ぶ人の方が結構多いのかも知れない。

 ただ、問題になるのは、自殺する人が、

「自分はここで自殺した」

 ということを残すため、遺書や靴を、その場に置いて、飛び込むなどということをするかということである。

 それならば、自殺の名所にいけば、確実に、飛び降りたということが分かるというものだ。

 人知れずに死ぬのであれば、自分が自殺したかどうか、知らせる必要もないだろう。

 ただ、本当に自殺したことを知られたくなくて、行方不明になったと思わせるだけなら、死体がすぐに上がってしまうようなところでは困るだろう。

 名所とは言えないような自殺の場所。ここはすぐ近くに、砂浜があり、海水浴場もある。そういう意味で、

「自殺するには向かない場所」

 と言われてきたが、それも、近年のことであり、戦前の頃には、結構自殺者が集まったと言われていた場所である。

 今でこそ、誰も知らないだろうが、昭和初期くらいまでは、このあたりも、

「自殺の名所」

 と言われていた。

 ただ、訪れる人のほとんどが自殺者で、名所というべき大自然の景観があるのだが、なぜか、一般の訪問者はほとんどいなかった。

 近くに他に見るところがないというのが最大の理由であろうが、ただ、ずっと言われていたことには、

「この海では、飛び込んでしまうと、潮の流れや、藻の生え具合から、死体は上がらないだろう」

 と言われていたのだ。

 この場所というのは、三重県の志摩半島にある。

 志摩半島というと、松阪、伊勢、さらには真珠の養殖で有名な賢島などがあるが、その先に浮かぶ島があって、その島は、年に何度か干潮時、半島と陸続くになるという。

 その島の、半島側とは反対側に位置している、いわゆる外海側に、断崖絶壁があるのだ。

 半島から見えるところにあれば、半島側から見ることができる観光スポットになったのだろうが、まったく反対側なので、観光スポットにはならなかった。

 確かに、島と言っても、半島のすぐそばなので、観光客のほとんどは、誰も意識することはないようだ。

 意識する人がいても、そこが、まさか陸続きになっていないとは思っていないだろう。最初から島だという意識があって、島に興味を持つ人が増えれば、この断崖絶壁を名所として、観光PRもできるかも知れないが、まったくそんな気配がないことから、このあたり全体が、観光産業から切り離されていたのだ。

 漁業が中心の村で、人が住めるところは入り江になっているところだけなので、海岸っ近くまで、山がせり出してきているので、人の住める範囲は極端に少ないのだった。

 それでも、入り江のあたりというのは、海が湾曲して入り込んでいるので、山も深くまで入り込んでいる。

 それだけに、限られた範囲に、集落があり、漁村だけではなく、少しだけでも、農地もあり、ほとんどが、自給自足に近い、

「文明から隔絶されたかのような村」

 が存在していたのだ。

 その入り江の左側の奥に、自殺者が多いと言われる島があり、島に面した入り江の奥には、祠が作られていて、海の神を祀っていた。

 ただ言い伝えとしては、祀られているのは、海の神だけではないという。

 昔から、自殺者が多いことで、自殺者の霊を慰めるための、祠だったのだろうか?

 そんなことを考えていると、そもそも、この村自体も、ずっと昔から、他の土地と隔絶されていた歴史があるという。そんな歴史と、自殺の名所である島とは、どのような関係があったのか、ウワサとしては、いろいろと残っているようだった。

 その島の名前は、

「白桃島」

 という名前だった。

 名前は果実を冠した、きれいな名前だが、島には、ほとんど果実が成るような木は存在しない。まるで、溶岩で作られたような道が存在するだけで、草もほとんど生えているわけではない。

「美観」

 などという言葉とは程遠い風景で、まるで、火山島から、分離したかのようなところだった。

 それを彷彿させるようなエピソードとして、

「島からは時々、湯気のようなものが湧いてくるようで、まるで、別府や雲仙のような温泉地を思わせるような風景が見られることがある」

 と言われてきた。

 昔の人は、時々見ていたようだが、今では、白桃島にわざわざ渡ろうという殊勝な人もおらず、たまに、大学の研究チームが、何かの研究のために、時々訪れる程度だという。

 そんな研究チームの連中でも、ほとんど湯気を見たことはないというので、本当に偶然が重ならなければ、見ることのできるものではないのだろう。

 やはりウワサの一部としては、

「このあたりには、昔海底火山があり、もう少しで新山として、海面に浮かんでくるはずだったものが、海底プレートの影響からか、出てくることができず、その横にあった火山になれなかった島が隆起して、

「白桃島になった」

 という話であった。

 以前は、島には今のように、木も草も生えなかったが、唯一、白桃だけが成っていたのを見たことがあったということで、この名前が付けられたというのが、一つの説としてあったのだ。

 この説が一番有力であったが、普通に考えると、ありえないといえるのではないか? 他にもいろいろウワサがあったというが、それをなかなか聞くことができないのは、時代時代で、

「そんなことはありえない」

 ということで、握りつぶされて、ウワサがあったという話だけは伝わっているが、実際の話としては残っていないということなのかも知れない。

 もう一つ白桃島には、おとぎ話が残っていた。その話が、実は桃太郎の話に実によく似ていたのだ。

 この村に残る伝説の中で、白桃島に関する島が出てくるのだが、その島は、半島から結構離れている設定になっていて、

「比較的遠くの島を、白桃島と昔の人は呼んでいたが、そこには鬼が住んでいるというウワサがあったので、白桃島という名前を使わなかった。しかし、その島には別の名前が付けられたので、この村の目の前にある名もない島に、名前を付けようということになり、白桃島と名付けたのだ」

 という言い伝えもあった。

 そもそも、昔のおとぎ話というのは、その土地に伝わる話を、結びつけて一つの話にしたということもあると言われているので、似たような話が全国にあれば、それらを当時の人が伝え聞いて、一つの話にしたものもあるのではないか? 小説家が取材旅行において、仕入れたネタを材料に小説を書くというようなものである。

 つまり、このあたりにも、いろいろな神話や言い伝えが残っているということだろう。

 そもそも、志摩半島というと、伊勢があるではないか。神話の中心ともいえる伊勢神宮があるのだから、言い伝えだっていろいろと残っていても不思議はないだろう。

 そう考えると、日本で由緒正しき神社といえば、宮崎の高千穂であったり、島根の出雲大社であったり、三重の伊勢神宮であったりするだろう。そんな中で、白桃島をいただくこのあたりの村の存在が、世間的に知られていないというのも、神秘的な気がして、面白いというものであろう。

 そんな白桃島で、誰かが自殺をした。誰が自殺をしたのかは分からなかったが、自殺をしたという証拠になるものが、白桃島の外海に面した断崖絶壁の上に残されていた。

 そこには、革靴が置かれていて、きれいに並べられていた。その先はいかにもどこの自殺の名所にも見られる光景だった。

 この場所は、入り江の村から、定期的にやってきて、掃除をする村人が来なければ、誰も来る人はいない。

 この島に入るには、基本的には、この入り江側から、干潮となった時に渡るか、入り江側から、濡れるのを覚悟で、泳いでいくくらいしかなかった。

 島のまわりには、船をつけられるような場所はなく、唯一、入り江の先から入ることができるくらいだ、

 いったん入ってしまうと、狭い島なので、小屋などもあるわけはない。その日のうちに戻ってこなければ、島で野宿するしかない。

 大きな岩がゴロゴロしているだけの場所で、ほとんど草木も生えていないようなところのどこで、寝泊まりするというのか、島には動物もいるところを見たことがない、完全に、無人島であり、無生物島と言ってもいいだろう。

 そういう意味では、

「人知れず自殺をする」

 というには、ここは一番いいのかも知れない。

 今までにも数年に一度くらいは、ここで自殺者がいると言われている。同じように、靴だけが残されているのを後で発見するのだが、それが誰だったのかということが、分かった試しはなかったということだ。

 今までの事件は、地元の警察が捜査をしていたが、正直、まともに取り合っているわけではなかった。

「またか」

 と言ってため息をつきながら、警察は、一通りの捜査をするだけで、すぐに、行方不明者として認定する。

 一通りの捜査と言っても、何かをするわけではない。地元やその付近に、捜索願が出ている人がいたとして、まだ見つかっていない人がいれば、その人の足取りで分かっているところを聞いて、ここの死体と関係がありそうでなければ、完全に無視するという、ありきたりのことを、

「やっていますアピール」

 をするだけで、結局、何もしていないのと同じだった。

「どうせ、死体だって上がらないんだしな」

 ということで、事件は不明ということでお開きになるだけだった。

 とりあえず、村の人が、島の中心部あたりに、石を重ねただけの、

「墓」

 を作り、まるで無縁仏のように、ここで死んだであろう人の冥福を祈るということくらいしかできなかった。

 村の人間が定期的に島に行くというのは、自殺をした人がいないかということと、墓の清掃に行くくらいであったのだ。

 その時、男が墓を掃除してから、いつものように、自殺の名所と言われる場所に向かったのだ。

 男はその時、不思議なことを考えていた。

「そういえば、ここに限らずだが、自殺の名所というと、なぜか皆同じところに靴を並べているんだよな。初めて来る場所なのだろうし、どこから飛び込んでも一緒のはずなのにな」

 と感じていた。

 東尋坊であったり、他の場所でも同じなのだが、なぜか飛び降りる人というのは、決まって同じ場所から飛び降りるという。

「ここから飛び降りてください」

 などという標識があるわけでもないのに、なぜなのだろうか?

 死にたいと思ってこの場所に来る人には、分かるのだろうか? この場所から前の人が飛び降りたということを……。

 そう思うと、

「ひょっとして、自殺の名所に行った人の中には、死ぬつもりもなかったのに、無意識のうちに飛び込んだという人もいたりするのではないだろうか?」

 と感じたのだ。

「前に飛び降りた人の霊が呼んだ」

 とでもいえばいいのか、だが、そうでも言わないと、説明がつかないのだ。

 霊魂の存在を認める方が説明がつくというのも、実におかしなことだと言えるのではないだろうか。

 この場所でもそうだった。

 他の自殺の名所であれば、ひょっとすると、ネットなどの怪しいサイトでは、

「この場所が、皆が飛び込む場所」

 などと言って、紹介しているところもあるかも知れない。

 しかし、ここの白桃島は、地元の人間でもほとんど知られていないだけに、普通なら誰も知らないはずなのだ。

 それなのに、どこでどう聞きつけたのか、数年に一度くらいの割合で定期的に自殺者がいるのだ。

 他の場所で、

「数年に一度」

 くらいであれば、別に気にすることはないのだろうが、この島に入る人間といえば、村の人間だけで、しかも、定期的にともなると、掃除と、自殺者の有無を確認に入っている人くらいだろう。

 実際に、年に数回しか、陸続きにならないのだ。それなのに、どうして自殺者が出るのか、まるで、世界の七不思議と同じレベルではないかと思えるほどだった。

 今回も村の人が自殺者の痕跡を見つけたのだ。

 だが、今回の自殺者は、今までのパターンとは違っていた。いや、逆にいえば、こっちの方が他の場所では自然なのだ。

 というのは、今回の自殺者は、靴だけではなく、遺書も残していたのだ。

 石の上に遺書を置いて、さらにその上に石で重しをしていた。

「今回は遺書があるぞ」

 と、それを見つけた村人は、さっそく、警察に連絡を入れた。

 ここの村の人間は、田舎根性が身についてしまってはいたが、文明の利器は、ちゃんと身に着けている。スマホを持っていたのだ。

 スマホで、警察に電話を入れるだけで、警察が飛んでくることになっている。なぜなら、この男のスマホの位置情報は、警察で一目瞭然となっていたのだ。

 そもそも、このスマホは、警察から与えられたもの。

「もし、ここで自殺者の痕跡を見つけた時は、すぐに連絡してください。位置情報が入っているので、一報をくれた時点で、警察には分かるようになっていますので」

 ということであった。

 いつもは、スマホから連絡をいれて、

「痕跡、ありました」

 というだけだったが、今回は、

「いつもと違って、今回は遺書があります」

 というと、警察もビックリして、

「遺書があったんですか?」

 ということで、今回は今までと違って、警察にも緊張があったようだ。

 それだけ、普段とは違うことがあると、警察というところは、敏感に反応するところのようだった。

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