Alice ─精神科病院の生活─

Unknown

Alice ─精神科病院の生活─

 俺は作り上げたものを自ら破壊することに快感と虚無感を覚える。俺はたまに、あえて人に嫌われるような言動を取る。それはまるで自傷的な衝動だ。そして俺の精神は孤独になり、真っ逆さまに堕ちていく。


 日本人は世界の中でも孤独から来る寂しさを覚えやすい民族だと語るのは「幸福学」の第一人者であり、K大学大学院教授のM氏だ。M氏曰く、日本人は世界各国に比べて同調圧のかなり激しい国で、遺伝子レベルで孤独を苦痛に感じる奴が多いのだとか。


 ──かく言う俺も、長年に渡る孤独を苦に、自宅アパートの部屋の中で首を吊り、失敗し、今こうして精神病院に入院している。


 精神科に入院してから、2ヶ月が経とうとしていた。入院当初は独房のような閉鎖病棟にいたが、今はストレスケア病棟と呼ばれる比較的症状の軽い患者の集まる病棟の個室にいた。俺の部屋は1階の135号室である。部屋の中にはベッドと個室トイレとテレビと椅子とテーブルがある。至って普通の部屋だ。スマホの持ち込みも許可されている。だが、患者の脱走や飛び降りを防ぐ為か、部屋の窓にはストッパーが付いており、5センチ程度しか開かない。

 現在、俺は25歳。ここに入院するまではG県のT市内の1Kの家賃3万円台のアパートに住んでいた。

 仕事はフリーランスのwebライターをやっている。今は入院中の身だから、当然、発注者からの依頼は受けていない。ちなみにライターとして1番稼げた月で20万ほどの収入があった。

 生来の気質から、俺には友人と呼べる存在も恋人と呼べる存在も現在は全くいない。ネット上でも自分の居場所を作ることはできなかった。他人と接する事に恐怖感がある。その上、社交性がかなり低い。

 恒常的な孤独の苦痛から逃れる為に、俺は酒やドラッグやタバコに強く依存していた。

 25歳にもなって、俺は毎日孤独に苦しんでいた。この世の誰からも必要とされない人生に果たして生きる価値があるのだろうかと常に考えていた。

 孤独な人生の中に生きる意味を見出せなかった俺は、ある日、12ミリのクレモナロープで首を吊った。

 俺が首を吊って、意識を失うと、気付けば俺は救急搬送されていた。目を覚ますと救急病棟のベッドの上にいた。

 男性看護師曰く、俺がクローゼットで首を吊って糞尿を垂れ流して横たわっているところを、偶然部屋に訪れた姉が発見し、すぐに救急車を呼び、俺は一命を取り留めたらしい。

 それから、数日間、俺は大きな総合病院に入院した後、X病院という精神病院に転院する事となった。

 ちなみにアパートは追い出されてしまった。

 自殺未遂するような危険な入居者は追い出すしかないのだろう。こんな事になるのなら、非定型首吊りではなく、より確実な定型首吊りを選択しておくべきだった……。


「──さん、岡本さん」

「あ、はい」

「大丈夫? 超ぼーっとしてるけど」

「大丈夫です」


 真夏の昼下がり。

 俺が135号室のベッドの中で天井を眺めながらぼんやりしていると、気の強そうな顔の茶髪の女性看護師が俺に話しかけてきた。たしか名前は、内田さんだった気がする。

 

「岡本さん、今日もOTに参加しないつもり?」

「はい」

「たまには参加しなよー」

「でも、OTって強制参加じゃないですよね」

「強制じゃないけど、たまには参加しなきゃ駄目だよ。言っとくけど岡本さんが1番参加してないからね。そろそろ始まるから、ホールに来て。ほら」

「はい……」


 俺は看護師の圧に負けて、OTに参加する事にした。

 ちなみにOTとは作業療法の事だ。

 俺は135号室から出て、廊下を歩き、ホールに向かった。ホールには数人の患者がいる。ホールは、いくつもテーブルと椅子がある広い空間だ。ホールの左隣にはスタッフステーションがある。右隣にはライブラリーと呼ばれている図書館のような空間がある。

 俺はホールの壁に貼られている掲示物を見た。

 何曜日に何のOTが行われるかが記されている紙がある。

 

(今日はたしか金曜日だったな。金曜日のOTは……うわ、まじか。カラオケかよ……最悪じゃねえか……)


 俺は無表情のまま、心の中で嘆いた。

 金曜日の午後のOTはカラオケらしい。

 なんでよりによって1番参加したくないOTの日に看護師が俺の部屋に来てしまったのだろう。つくづく運が無い。

 ホールの端っこの椅子に座って、元々ついていたテレビのつまらないワイドショーを見ていると、やがて、さっきの茶髪の看護師と、女性の作業療法士が2人同時に現れた。


「あれ、今日の参加者、これだけなの?」


 と、看護師が笑いながら言う。

 俺は何となく周囲を見渡した。

 10代くらいの若い地味な女性2人組。40代くらいのメガネの中年男性1人。そして俺。現在この4人しかホールには居ない。

 やっぱり、カラオケはOTの中でも全く人気が無い。そりゃそうだ。仲良くもない人とカラオケをして一体何が楽しいのだろうか。


「4人だけみたいですね。カラオケはみんな嫌なのかなぁ」


 作業療法士が穏やかに笑って、そう言った。


「ちょっと人数少ないけど、そろそろ時間だし、行きましょうか」


 看護師が笑顔で言った。


 ◆


 俺を含めた4人の患者と、看護師と作業療法士の計6人が、カラオケのある部屋に向かった。

 構造上、患者は自由にこの病棟から出ることができない。何故なら、この病棟の外へと繋がる大きな扉は常に施錠されているからだ。OTや売店に向かう際は、常に看護師の同伴の元、目的地へと向かう。

 仮に大きな扉の先に出て、脱走を試みたら、どうなるのだろう。まぁおそらく、すぐに男性の看護師が複数人で走ってきて身柄を拘束され、再び閉鎖病棟の中に入れられるのだろう。最悪の場合、手足を拘束されて、監視カメラのある保護室に入れられるかもしれない。

 俺は入院中、個室の窓を椅子で割って脱走しようと何度か考えたのだが、メリットよりもデメリットの方が遥かに大きいと考え、脱走は諦めた。

 “カッコーの巣の上で”じゃあるまいし、精神科からの脱走なんて、現実的じゃない。脱走したところで、再び病院に入れられ、更に入院期間が伸びるだけだ……。


「──今日、めっちゃ暑いですね」


 6人で歩いていると、大人しそうなガリガリの若い女の子が看護師に向かって呟いた。


「今日は39℃まで上がるらしいねー。部屋のエアコンはちゃんと点けといて。熱中症になっちゃうから」


 39℃かよ……。

 もう終わりだな。この地球も、俺も。

 

 ◆


 病棟の外に繋がる大きな扉を出て、しばらく歩いて、エレベーターに乗り、俺たちは5階のカラオケのある部屋に移動した。

 5階に移動したのは初めての事だ。

 入院以来、カラオケのOTなんて1度も参加したことが無いから、今から気持ちが億劫で仕方ない。

 

「そういえば、岡本さんがOTに参加するの珍しいですね」


 と作業療法士が笑顔で俺に言った。


「……参加するように言われたので」

「あ、そっか。でも嬉しいです。岡本さんがOTに参加してくれて」


 作業療法士に笑顔を向けられたので、俺は無表情で俯いた。


 ◆


 看護師の提案で、歌う順番はじゃんけんで決められた。


 1番 作業療法士

 2番 看護師

 3番 メガネのおっさん患者

 4番 ガリガリの女性患者

 5番 メガネの女性患者

 6番 俺


 この順番である。

 作業療法士と看護師はそれぞれ、最近流行りのアーティストの曲を歌ったが、おっさん患者を始めとした患者たちは、各々が自分の好きな曲を自由に歌っていた。

 おっさんは古いロックバンドの曲を歌い、若い女性患者2人は、比較的最近の暗いバンドの曲を歌っていた。

 俺以外の5人は、割と盛り上がっていた。みんな社交性があるようだ。

 そして、俺の順番が遂に回ってきた。

 看護師が言う。


「──じゃあ次は岡本さんの番!」

「わかりました」


(やれやれ、しょうがねえな。俺の圧倒的な歌唱力をお前らに見せてやるよ。それでは聞いてください。syrup16gで、センチメンタル。)


 俺は心の中でそう呟いて、俺が世界で1番好きなバンドであるsyrup16gのセンチメンタルをデンモクで入れた。

 センチメンタルは俺の十八番である。暇潰しで1人カラオケに行くたびに必ず歌う曲だ。


 俺はマイクを握る。そしてセンチメンタルの前奏が流れ始めた。


 ◆


「岡本さん! 歌、超上手いじゃないですか!」

「上手すぎてびっくりしました!」

「上手いですね」

「上手いですね」

「上手いね」


 センチメンタルを歌い終わると、俺以外の5人が俺の歌唱力を称賛した。


「……上手いなんて初めて言われました」


 俺は小さな声でそう言った。

 内心、嬉しかった。


 ◆


 その後も、カラオケは続いて、俺は何曲か好きなバンドの曲を歌った。当初は死ぬほど億劫だったカラオケだが、和気藹々とした雰囲気の中、俺は割と普通に楽しんでいることに気付いた。

 とりあえず、退屈な入院生活の刺激にはなった。今回のOTには参加してよかった。

 参加者が少人数だったのも気楽だった。


 ◆


 その数日後、俺は真っ白い診察室の中にいた。

 俺の主治医である川村先生は30代くらいでメガネを掛けている短髪の男性の精神科医だ。

 先生と俺は机を挟んで向かい合って、椅子に座っている。先生の前にはノートパソコンがある。

 やがて先生が言った。


「岡本さん、スマホの使用許可が出ましたけど、最近は小説の方は書いてますか?」

「最近は全然書いてないです。書くことが何も思いつかなくて……」

「そうですか。でも、待ってるんじゃないですか? 岡本さんの読者が」

「……別に待ってないと思います。自分の事なんて」


 俺は趣味でネット上に文章を投稿していた。

 以前、川村先生との診察の中で、趣味を聞かれた俺は、ネットに小説を載せる事だと答えたのだ。 

 

「でも、何人か読者さんがいるんですよね。それだけでも凄いことじゃないですか。僕も読んでみたいですよ。岡本さんの書いた小説」

「いや、恥ずかしくて、リアルの人にはとても見せられないです……」

「そうですか」


 と言って、先生は笑った。


「岡本さんは普段どういう小説を書いてるんですか?」

「……私小説が1番多いかもしれないです」

「ほー」

「普段自分が思ってることを伝えられる相手が、リアルの世界には1人もいないので、私小説ばかり書いてます」

「あぁ、なるほど。でも今は良い時代ですよね。インターネットの向こう側で人と繋がることが出来ますから」

「そうですね。多分、この世にネットが無かったら、自分はもっと生きるのが苦しかったと思います」

「文章表現は誰にでも出来ることじゃありませんから、岡本さんの生まれ持った才能ですよね。僕は文を書くのが物凄く苦手なんですよ」

「へえ」

「岡本さんは文章表現を続けていくべきだと思いますよ」

「どうしてですか?」

「それが岡本さんの生きる理由の一つになるからです」

「生きる理由ですか……」

「あ、そうだ。書くネタが思いつかないなら、この入院生活のことを小説のネタにしてみたらどうですか?」

「……そうしてみます」


 ──その後も先生との診察は続いたが、基本的には、雑談のような会話ばかりだった。

 具体的な退院期間の話も初めて出た。

 俺は、あと1ヶ月でここから退院できるらしい。

 それを聞いて嬉しく思った自分もいたが、退院したところで、俺の人生に希望なんて何も無かった。


 ◆


 診察室を出て、135号室に戻って、白いベッドに横になった俺は、Bluetoothイヤホンを耳に付けて暗いロックバンドの曲を聴きながらスマホのメモ帳を開き、小説を書き始めた。

 先生に言われた通り、この退屈な入院生活を小説にしてみようと思ったのだ。

 しかし、指はなかなか動かず、全く文章を書くことが出来なかった。


 ──そもそも、俺が小説を書く事に、一体何の意味があるのだろうか。


 別に、意味なんて何も無いんじゃないのか? というか、突き詰めれば、この世に意味のある事なんて何一つ存在しない。どうせ最終的には死んで骨になって、無の世界に旅立つのだから。

 俺は、生きる意味なんて1ミリも感じないから、アパートで首を吊ったのだ。

 “孤独”は着実に俺の精神を蝕んでいる。

 俺は生まれつき発達障害を持っていて、上手く他人と接することが出来ない。更には躁鬱病も持っている。当たり前のことが当たり前に出来ないことが苦しかった。俺は2級の精神障害者手帳を保有しているし、障害年金も受給している。

 基本的に、生きる事に意味や喜びを感じる事が無い。

 彼女でも作って性行為でもすれば、俺の価値観も少しは変わるのだろうかと思い、外見にかなり気を使い、マッチングアプリを用いて彼女を作ってみた。

 だが、肉欲を満たせば満たすほど、むしろ俺の心は空洞になっていった気がした。こんなに醜い行為が「愛し合う」って事なのか? と疑念を持った。

 結局、彼女には2ヶ月半ほどで振られた。

 別れた理由は“価値観の相違”だった。

 

「──優雅は、想像力が欠けてるから、他人の痛みを想像できないんだよ。だから友達もいないし、彼女も今まで出来たことが無かったんだよ」


 彼女は、最後にそう言った。


 ──想像力が欠けている。

 ──他人の痛みを想像できない。


 俺の人間としての本質を全て彼女に射抜かれたような気分がして、俺は胸がとても苦しくなった。

 彼女は俺と同様に精神を病んでいる人だったが、俺よりも遥かに現実主義で聡明な人だった。

 朝のニュースを見た俺が「いつか日本で戦争が起きたらどうしよう」と不安な表情で言えば、彼女は笑って「そんな事より今日の予定のこと考えようよ」と言った。


 彼女を失った事がきっかけで、俺は「他者から愛される資格が無い」と確信した。


 頭のおかしい俺は、生きる価値が無い。誰からも必要とされない。そんな人生、生きる意味が無い。


 そんな胸中で俺は首を吊り、今に至る。

 

 これからの人生、どうしよう……。


 ◆


 その日の夜は、睡眠薬を服用しても全く眠る事が出来ずにいた。

 この病院では夜の9時に消灯になる。

 深夜の1時頃、たまらず俺は135号室から出て、スタッフステーションに向かった。

 そこには夜勤の太ったおばさんの看護師がいた。


「あ、岡本さん。どうかした?」

「すいません。眠れないので、追加の眠剤を貰ってもいいですか?」

「眠剤ね。わかりました」


 やがて看護師は俺の手の平に錠剤を1粒乗せた。

 

「あ、岡本さん。コップ」

「ああ、すいません。取ってきます」


 精神病院に入院している患者は、どんな時も必ず看護師の目の前で薬を飲まなくてはならないというルールがある。

 コップを忘れた俺は、135号室の中にあるプラスチック製の自分のコップに水を入れ、看護師の元に戻った。そして、目の前で錠剤を飲んだ。


「大丈夫だね。はい、じゃあおやすみなさい」

「はい」


 俺は、部屋に戻り、スマホをいじって時間を潰す事にした。だがしかし、Wi-Fiが接続されていない為、俺のスマホは通信制限になっていた。

 ラインなどで会話を交わす相手も今は1人もいない。

 匿名掲示板を見るか、メモに小説を書くか。その2つくらいしか俺に出来ることは無かった。


「……」


 俺はスマホで小説を書く事にした。

 小説を書いてネットに晒すという行為に、何の意味があるのかは分からない。

 だけど、俺の孤独をこの世界の誰かに知ってほしかった。誰かに俺のことを見てほしかった。1人は寂しかった。

 そんなことを考えていると、不思議な事に、すらすらと小説を書く事が出来た。

 俺は夢中で小説を書き始めた。


 ◆


 結局俺は一睡もせずに、音楽を聴きながら、ずっと小説をスマホのメモに書いていた。

 朝方になる頃には、1つの短編小説が完成していた。

 タイトルはどうしようか。

 俺はいつもタイトルが思いつかないので、小説を書き終わった後に考える。

 “無題”というタイトルでも別にいいのだが、無題では読者の興味を引けないような気がした。

 そこで俺は、今聴いているロックバンドの曲をタイトルにする事にした。

 今、俺が聴いているのはpeople in the boxの「Alice」という曲だった。


 ◆


 数時間かけて短編小説が書けた後、俺はいつも利用している小説投稿サイトに「Alice」を投稿した。

 すると、しばらく時間が経ってから、


『●●●さんが応援しました』


 という通知が俺のスマホに来た。

 その瞬間、俺の孤独は和らいで、少しだけ生きるのが楽になったような気がした。

 今この瞬間、俺はこの世界に孤独ではなかった。





 終わり






【あとがき】


1年前くらいに旧アカウントで投稿した文の再掲載です。





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Alice ─精神科病院の生活─ Unknown @unknown_saigo

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