洗濯してあるかもわからない黒い服を、無造作に着た年齢不詳の人物。身だしなみを整えようともしない。気に入られようとも思わない。他人への配慮など思い至らないのだろう。


 独りよがりな執着に取り憑かれている。


 横顔がこちらに向く。

 あの女だ。まったく美しくない。好みの基準にかすりもしない。半眼で、ねっとりと足もとから舐めるように見定める。視線を向けられているだけで肌が粟立つ。痩せ細り、乾燥した肌と割れた唇、乱れた長髪。あの容貌は、一度見たら忘れない。

 定まらない視点がゆらりと動いて、こちらを捕らえ、そして──


「なんで……こいつが」


 勝手に言葉がこぼれ出る。こんなところに。なんで。

 理不尽に、記憶がよみがえる。しつこく現れる。逃げても現れる。引っ越しもした。転職もした。痕跡を消した。それなのに。


 昼間の雑踏に紛れ、遠くからのぞかれ、気づけば視界の端に入り込む。

 強くまぶしい光が当たる場所には現れず、日陰に潜み、その暗がりに溶けるようにして骨に皮膚をまとわせただけの手を伸ばしてくる。


 恐怖だった。あれは害を為す肉塊。止まり切った時に生きる者が、憑きもの同然に取りすがる。

 痛いほどに鼓動が早まって、呼吸が乱れる。喉がぐっと締まって、しゃべりたくても声が出ない。


 男は、目の前の画面をスワイプさせ、次々と表示させ続ける。

 まるで動画のように移り変わっていく。遠くに立っていた女の横顔が背景の一部に紛れ込んでいる。ゆっくりと下向きからおもてを上げ、好物を味わう目つきになる。


 写真なんか一枚も撮っていない。記録に残すなんてもってのほかだ。


 ゆらりゆらりと身を揺らし、足を引きずって歩み出る。画面のなかで、風景に、雑踏に、ときに中心に立つしなだれた美しい女の身体に溶け込み、化け物のように変形しても同じ人物だと本能的に理解する。なおも近づいてくる。もう一歩、さらに一歩。距離を詰めたその時。


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