懐かしい味

 富山湾には、毎年春になるとほたるいかの群れが現れる。


 産卵のため、海岸近くまで大群が押し寄せるのだ。それぞれの体は青白く光り、幻想的なその様は富山の春の風物詩といわれている。


 漁期が定められ養殖も困難であることから、獲れたてを味わえるのは春から初夏にかけて。新鮮なうちに茹でると絶品だという。


「身投げしているところを見たことがあるが、あれは神秘的な光景だったなぁ」


 魚屋の主人が、ほたるいかを包みながら教えてくれる。「身投げ」というのは、産卵後のほたるいかが浅瀬に打ち上げられ、一斉に発光する現象だ。


 ほたるいかは、空気を含んだ海水を吐き出す際に「キューンキューン」という音を発する。まるで泣いているようにも聞こえて、切ない感じがするのだという。


 千影は支払いを済ませ、ご主人に礼を言って杉野館に戻った。他に必要な材料はすでに朝市へ行って手に入れている。あとは、こしらえるだけだ。


 ボイルしたほたるいか、酢味噌、それからワカメと分葱を使う。


 ワカメは水で洗ってから、水に浸して戻しておく。熱湯でさっと茹で、ざるに上げる。水気をきってから食べやすい大きさにカットする。


 分葱は根っこの部分を切り落とし、塩を入れた熱湯に投入する。このとき、火の通りを均一にするために根っこの白い部分から先に茹でることがポイントになる。白い部分がしんなりすれば、青い部分も鍋に落として様子を見る。


 全体がくったりとなったら箸でつまんで鍋から取り出し、冷ましておく。分葱の粗熱をとっているあいだに、ほたるいかの下準備に取り掛かる。


 ピンセットで目玉の部分を取り除き、げその部分にある口も取ってきれいにする。手間のかかる作業だけど、こうすることで食感が良くなるのだ。手間を惜しまず、ひとつひとつきれいにしていく。


 ほたるいかの処理が終わったら、分葱もぬめりを取って切り分ける。ワカメとほたるいか、分葱を涼やかな硝子製の器に盛って、あとは酢味噌をかけるだけ。


 富山の郷土料理「ほたるいかの酢味噌和え」の完成だ。


 さっそく味見をする。箸でつまんだ途端、もうすでにプリプリした感触が伝わってくる。


 そっと口に入れると、中はとろっとした食感で、酢味噌の風味とあいまって何ともいえないおいしさだった。ワカメと分葱も良い香りと歯ざわりを演出している。


「これなら、食べてもらえるかも……」


 そう期待しながら、千影はいつものようにホワイトボードに献立を書き込んだ。 


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【今日の夕食】


・ごはん(白米)

・彩り野菜とスペアリブのオーブン焼き

・ほたるいかの酢味噌和え

・豆腐と三つ葉の赤だし


※ごはんと赤だしはおかわり自由です

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 陽汰と結野は、食堂の入口に掲げられたホワイトボードを確認して、思わず顔を見合わせた。


 それから、配膳台の奥にいる千影のほうに視線を向ける。じいっと真面目な顔で見つめられた千影は、小さくうなずいた。彼らも同じように、いや千影よりも大きく首を縦に振って貫井の部屋に向かっていく。


 どうやら千影の意図は伝わったらしい。


 引きずってでも貫井を食堂に連れてくる、という気概をふたりの後ろ姿に感じた。しばらくして、沈んだ顔の貫井が姿を見せた。


 陽汰が、ホワイトボードを指さす。


 少し面倒くさそうに顔を上げた貫井は、ホワイトボードを見て「あっ」という表情になった。


「貫井さん、早く食べないと陽汰がぜんぶ平らげちゃいますよ」 


 結野が茶化しながら貫井の背中を押して、一緒に食堂に入ってくる。


 千影は硝子製の器に、ほたるいかの酢味噌和えを盛って配膳台に置いた。


「……どうぞ」


 食べてもらえるのだろうか。千影は心臓をばくばくさせながら、じっと貫井の動向をうかがう。


「食欲がなくても、これくらいの量なら食べれるでしょ」


 陽汰がいつもの明るい声で言う。


「……いただくよ」


 ぽつりと貫井が言って、硝子製の器を手に取る。


(良かったぁ……)


 全身の力が抜けたように、千影は大きく息を吐いた。本当に良かった。少しでも食べて、元気になってくれたらうれしい。


 ひとり感激していた千影だけど、貫井は席に座ったまま食べる気配がなかった。


 どうしたんだろう。やっぱり気が変わったのだろうか。きちんと調べて作ったつもりだったけど、何かおかしなところがあったのかもしれない。俯いている貫井の表情は、ここからではよく分からない。


 心配になって様子を見ていると、こちら向きに座っている陽汰と目が合った。


『大丈夫』


 そう、確かに彼のくちびるが動いた。


 陽汰と同じ向きに座っている結野は、特に何事もなかったようにスペアリブを食べている。


 わずかに洟をすする音が聞こえて、千影はハッとなった。


 陽汰が「大丈夫」と微笑んだ理由も、結野が何事もないように振舞っている理由もすべて分かった。


 しばらくすると、貫井はほたるいかの酢味噌和えに箸を付けた。


「懐かしいなぁ……」


 貫井が、途切れ途切れの声でつぶやいた。ちいさく肩を震わせているのが分かる。


 陽汰はいつものように旺盛な食欲を見せている。豪快にスペアリブにかぶりつき、かと思えば勢いよく白米を頬張る。結野も同じく、おいしそうに赤だしをすすっている。何も変わっていない。いつもの風景だった。


 良い仲間だなぁ……。


 ここ数日、何度も同じことを思った。それでも、今また食堂のいつもの席にいる三人を見て、千影は改めて実感していた。

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