第8話 窮鼠猫を噛む

「イェレミアス」


 ゆっくりと体をヤルノの方に向け、正対するアシュベル


「お前は今までに一度だって」


 口の端がいやらしく吊り上がり、もはやこみ上げる笑みを抑えることにその力を注いでいるようだ。


「そう、ただの一度だって、僕に意見したことなんか無かったじゃあないか」


 自信と、確信した勝利から、その細身の体が何倍にも膨れ上がって見える。何度も何度も「今までに一度もなかった」ことを強調しながら、ヤルノに詰め寄る。


 失着である。


 女騎士ギアンテは狼狽えながらヤルノ少年の顔に視線をやる。


 実際、ずっと身の回りを警護している彼女ですらイェレミアス王子が兄どころか他人に意見をしたところを見たことがない。その「一度も見せたことのない姿」を、よりにもよって王子の影武者を疑っているこの男の前で見せてしまったのだ。


「まるでだな、イェレミアス」


 そして、その一度も見せたことのない王子の姿に、もはや次兄アシュベルは自分の勝利を疑う余地も無し。「やはりこの男は別人だ」と。「影武者に違いない」と。


 影武者を用意すること自体は構わない。王族ならば普通の事である。だがそれが王別の儀を後に控え、それを独力で乗り越えることが極めて困難なイェレミアスであれば話は別である。少なくとも王別の儀での『替え玉』は不可能となる。


 獲物を追い詰めたという余裕の笑みを浮かべるアシュベル。しかしそれに相対するヤルノの表情は如何にも精悍なものであった。


 同じ細身ではあるが自分よりも背の高く、増長によって膨れ上がっているアシュベルに対し一歩も退かない構え。キッとその双眸を睨みつける。


 ギアンテは、これほどの強い意志を感じさせる表情の王子を見るのも、また初めての事であった。この男はまだ自分の失着に気付いていないのであろうか。


「何とか言ったらどうだ? ……お前はいったい何者だ?」


 問い詰めるアシュベル。しかしヤルノはその問いかけには応えない。逆に兄に問いかける。


「何とか言うのはそちらです。侮辱の言葉を取り消してください」


 決して強い態度を崩さないヤルノ。明け方の雪の如く青白い肌を紅潮させ、その可愛らしくも美しい顔の眉間にしわを寄せ、体は怒りで小刻みに震えており、目には涙まで浮かべている。


 まるで猟犬に追い詰められ、逃げ場を失い、最後の抵抗に出んとする兎のようであり、愚かしくも胸を打つ必死な怒りの姿。


「む……」


 しかし、何を思ったのか、その抵抗の姿を見てアシュベルの態度が軟化したのだ。


「す、すまなかった……侮辱の言葉は撤回する」


 気まずそうに言葉少なく呟くと、軽く会釈をしてすぐに背を向け、すたすたと歩いて姿を消していった。


「ふううぅぅぅ……」


 緊張の糸が切れ、大きく息を吐き出すギアンテ。まるで生きた心地がしなかった。どう考えてもここで部屋から出て姿を現すことは悪手であったし、ましてや兄であるアシュベルに怒りの姿勢を見せ、抗議するなどあってはならないことであった。


 冷静さを取り戻したギアンテはきつくヤルノを睨みつけると、衛兵に一言声をかけてから部屋の中に入って固く扉を閉ざした。


「どういうつもりだ! ヤルノ!」


 手を引いて部屋の一番奥、廊下の反対側まで行くと前腕を使って壁に押し付けるようにヤルノに凄んだ。先ほど取り戻した冷静さが再び鳴りを潜める。


「いぇ……イェレミアスですよ、ギアンテ……」


 あくまでイェレミアスの演技を続けるヤルノ。しかし……


「ふざけるな! 今更取り繕ったって無駄だ!! お前のせいで計画は全てパァだ!! どうしてくれる!!」


 ヤルノはギアンテの手首を掴んで押し戻そうとするが、しかしまだ体格も幼いヤルノは、如何に女といえども騎士として体を鍛えているギアンテの腕を押し戻せない。


「僕は……イェレミアスを完全に演じて見せただけですよ」


 抑え込まれながらも抗するヤルノ。しかしその強情な態度はギアンテの怒りの火に油を注ぐだけである。


「いいか、王子は長兄ガッツォにも、次兄アシュベルにも、いや、それだけじゃない。他人に対して怒りを見せて抗議なんてしたことはない。一度もだ。お前は今までの王子なら決して取らない行動をとったんだぞ!!」


「でも……殿下は納得して退散しましたよ……?」


 ギアンテの腕から力が抜ける。


 実を言うと彼女もそれが気にはなっていたのだ。何故アシュベルはあそこで退いたのか。


「……そんなの、納得したわけじゃない。猜疑心を強めて、次は動かぬ証拠を押さえてくるに決まっている」


 ヤルノは知らないがギアンテは知っている。あの抜け目なく、猜疑心の強い男の事を。


「イェレミアス殿下だったならば、あの場で……私が侮辱されたくらいで声を荒げる事なんて、決してしない。お前はそれが理解できずに感情のままに行動して……」

「そんなことはない」


 今度はヤルノが、ギアンテの手首を強く掴んだ。


 先ほどまでの弱弱しい力とは違う。この線の細い、まだほんの少年の体のどこに、いったいこれほどの力があるというのか。あまりに強い力にギアンテは驚愕してヤルノの目を見た。


「もし王子がここに居たら、僕と同じように怒ったはずだ」


 真っ直ぐに彼女の目を見つめてくるヤルノの瞳には、今までに見たことの無いような力強さを感じられた。


「ば……バカなことを……お前は、王子の事を、何も分かって……」


「王子の事を何も分かっていないのはギアンテの方だ」


 真っ直ぐに見つめてくる瞳。


 鋼のように純粋で、朝露のように透き通っている。


「くっ……」


 たまらずギアンテはヤルノの手を振りほどいて目を逸らした。


 そうしなければ彼の目に取り込まれてしまうような気がしたから。何もかも見透かされてしまうような気がしたから。


 この少年は確信しているのだ。


 もし目の前でギアンテが侮辱されたなら、たとえ兄だろうとイェレミアスは決してそれを許しはしないと。


 今までに一度も王子が他人に意見をしたことが無いというのならば、今がその初めての時なのだと。


 王子にとって彼女は、それほどまでに大切な存在なのだと。


 そう言っているのだ。


「もういい」


 ヤルノに背を向けて俯く年嵩の女騎士は、少女のような目をして、早まる胸の鼓動を必死に抑えようとした。

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