第10話 明け透けな下心


 カラの街に居ると時間の流れを早く感じた。人の歩くスピードが速いからかもしれない。ショルダーバッグのチャックの隙間から目を覗かせつつ、シシュウはそんなことを考えていた。そして同時に頭を巡る「ここ本当に来たことあったっけ」という疑問。これ以上ないほどに薄らんだ当時の記憶とは、おそらく思い出そうにも、思い出せない。


 だからシシュウは街のシンボルである時計塔の、夜の暗がりのてっぺんを見上げ、ボソリ呟いたのだ。


「本当に来ちまったんだ」

「珍しい?」

「おう。 ……ってすまん、聞こえていたのか」

「少し道を逸れたから今なら大丈夫。でも、すぐに大通りの方に戻るから声は落として」

「分かった。メシ屋はありつけそうか?」

「さっきあなたと同じくらいの女の子にいい所を教えてもらった。 ――見えてきた」


 起伏の少ないハルシネの声に一つ頷いたシシュウは、その頭を引っ込める。それから間も空けず、カランカランと澄んだ鐘の音が鳴り、せわしない雑踏が穏やかな会話へと変わった。 ……女性の声が多い。街入り口付近のパブなどと比べると随分落ち着いた雰囲気の店なのだろう。


 ところがハルシネはすぐにきびすを返した。店員と少なからず言葉を交わしていたようだったが、何かあったのだろうか? そんな疑問を巡らせるより前に答えは示され、どうやら案内をされたのはテラス席らしい。食卓の中央に置かれた背の低い灯りにぼんやり照らされた、ハルシネの横顔が目に映る。どこか憂いを帯びた視線でメニューらしきを見ていた。



 ………………

 

 ………………

 

 ………………………………。

 

 

 ――なぜハルシネは俺と旅をするのだろうか?

 

 

 ふと心をついた疑問は実に何気ないものであったが、どうにも収まりが効かず、水面に落とした絵具玉のように自分の中でにじみ広がっていった。


 魔法捜査官として愉快魔の元へ連れて行く、という節をハルシネが発言したことはもちろん覚えている。実際問題、「仕事だから」というのがこの疑問への答えなのだろう。


 でも面倒なことに、ソレだけでは納得できない自分が居るのだ。ハルシネは出会って間もない赤の他人と、たった2日後から、夜汽車による長旅を突きつけられたのだ。ましてやその相手とは得体の知れないテディベアの少年だ。どうして「行く」という選択を即決出来るだろうか?


 何か裏があるはず……なんて勘繰りはそこまでないし、したいとも思わない。でも自分は、あまりにもハルシネを知らなすぎるのではないだろうか? たとえば好きな食べ物や趣味もそうだし、魔法捜査官になった経緯や分厚いレンズのメガネをかけている理由だって……その何1つを知らない。一方のシシュウと言えば、シャトルランの回数ですら記録されているというのに。


 一緒に旅をするなら親睦しんぼくを深めるべきだ、と母親は言っていた。シシュウだってそう思うが、では素直に訊けばハルシネはそれらを教えてくれるのだろうか? ……辛辣しんらつに断られる未来が容易に想像できた。かといって、ハルシネの方からペラペラと話してくれるようにも到底思えない。 ……これは存外にやっかいな問題かもしれない。ただただ、親睦を深めたいだけだというのに。


 そう、ただ親睦を。


 ………………


 ………………。

 

 いや。


 小さくかぶりを振り、バッグの裏地へと額を擦り付ける。どういう訳か、先日の路地裏での出来事が瞼裏まぶたうらに映ってしまったのだ。小さな羽と角を生やし、長い黒髪の、一糸を纏わないサキュバスの姿。まるで夢のような……でも確かに現実の光景だった。


 ほどほどの罪悪感が身体中を駆け巡り、シシュウは1つため息を吐く。そしてこれ以上、ムダに頭を使わないよう仮眠でも摂ろうとした……その時だった。



「お姉さん、荷物大きいねぇ。旅行? それとも仕事とか?」


 

 そのような軽い調子の声が、突然に聞こえてきたのだ。シシュウの肩がわずかに跳ねる。なんだなんだ、とチャックの隙間から目を覗くと、ハルシネの隣には襟足の長い髪の男がいた。男は小綺麗な身なりをしており、しかし一方で、その手には指輪やブレスレットがいくつも身に着けられている。清潔感のある服装と、成り金感のある両手。そのアンバランスさにシシュウは違和感を覚えざるを得なかった。


 襟足の男はえくぼをくぼませるように笑みを浮かべると、なんとハルシネの隣へ座った。


「……なに」

「お姉さん、目ぇ悪いんだ! メガネさ、めっちゃレンズ分厚いんだもん」

「だから、なに? 勝手に座ってきて」

「えぇぇ? でもほら、1人でディナーなんて寂しいじゃんかさ。 ……っていうかお姉さん、意外と気が強いんだね」

「いい加減に――」

「大丈夫だいじょーぶ! ちょっとだけだからさぁ」


 ……何が大丈夫なのだろう? というのがシシュウの感想だった。ハルシネがあからさまに不快な態度をとっていることが分かっていないのか、それとも分からないフリなのか。男は一切に軽い調子を崩すことなく、聞かれてもいない自分話を間髪入れず広げていた……その目線はハルシネの顔と胸元とをのらりくらりしている。そのことに気づいた時、シシュウはようやくこれがナンパであると理解したのだ。


 それとほぼ同時くらいに、男が突然、手をパンと叩く。


「そうだ! こんなショボい店じゃなくてさー、オレのダチがやってる店行こうよ? バー、バーね? 裏路地んとこにある隠れ家的な店で雰囲気良くてさぁ……オレ全然おごるから」

「……あいにくもう汽車が出るの。駅に行かないと」

「あちゃーそれは残念だなぁ。ならせめて荷物持つって! もう夜も遅いし、人通りだって少ないからさぁ……お姉さん一人だけだと心配だからさぁ」


 『俺はお前とハルシネが2人きりになることの方が心配だけど?』という言葉は発することが出来ず、テディベアであるシシュウの中で、もどかしさが雪みたく降り積もってゆく。 ……もし男の要望通りに2人で駅へ向かうとどうなるだろうか? ハルシネは美人でスタイルがいいし、先ほど男が言っていた”隠れ家”という言葉が引っかかる。 ……とても嫌な予感がした。


 ぎんぎらな男の左手が、料理が乗ったお皿のふちを舐めるように滑っている。ハルシネはその指を一瞥した後、ついに大きなため息を吐いた。


 ガタリ


 椅子が引かれ、ハルシネがその場に立ち上がる。その目を見て、シシュウは思わず気圧けおされてしまった。冷ややかな……ではない。まるで獲物を狙う野生動物のような血走った目をしていたのだ。そしてハルシネは、ふらふらとした足取りで歩くと、向かいの椅子の近くに置かれたショルダーバッグへと手をかけた。


 そう。ショルダーバッグへと。


「えっ?」


 間もなくして、シシュウの右腕に抗いようのない強い力が加えられた。耳元を衣擦きぬずれの音が一瞬だけ襲い……気がついた時には、テラス席の一角で、シシュウはハルシネに抱っこされていたのだ。その正面には、きょとんとした表情を浮かべるナンパ男の姿があった。


 …………。


 久方ぶりの静寂の中、淡々とした調子でハルシネが言う。


「旦那と娘が待っているの。気持ちだけ受け取っておくね」


 …………

 …………?


 …………あぁ、そういうこと?


 ナンパ男の表情が途端に険しくなったのを見て、シシュウはハルシネの意図を理解できた。ナンパ男は、ガタンと椅子を倒しながら立ち上がると、ただねっとり舌打ちを打ったのだった。そして去り際、このように捨て台詞を吐いていった。


「んだよ、かよ。 ……そのダサいぬいぐるみプレゼントすんの? ハッキリ言ってセンスないよ」


 ナンパ男の背中は、一瞬で人混みの中にまぎれこみ、もう見えなくなってしまった。一連の流れを傍観て、思わずシシュウの口から乾いた笑いが漏れ出てしまう。


「露骨すぎるだろ、あいつ。 ……大丈夫か、ハルシネ」

「……もう少しで凌辱りょうじょくするところだった」

「え!? ……あぁ男がね! 男の方が」

「シシュウ、こんなところで喋っちゃダメ、だよ」

「……はい」

「早く駅に行こう。のぼせた」


 風呂上がりでもないのに、気温はむしろ低いくらいなのに、”のぼせた”なんておかしな話である。しかし、確かに会計を済ませに店内へと向かうハルシネはどこか上の空な様子で、まるでのぼせているようだった。


 …………。


 明け透けな下心。それはきっと他人事ではない。先ほどはあのナンパ男のことを心底に「ざまあみろ」と思ったものだが、ハルシネの背中を見送る今のシシュウの心境とは、絡まった糸みたく実に複雑なものだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る