夜汽車のサキュバス

しんば りょう

編まれた体、ほつれた日常

第1話 高さ24cm、重さ521g

 

 ガタン ゴトン ガタン ゴトン ガタン ゴトン


 フォーマルな印象を与える分厚いえんじ色のカーテン。その裏に広がる闇色の窓ガラスはピシャリと閉めきられている。にもかかわらず、線路の継ぎ目を規則正しくまたぐ車輪の音はその大きな耳にハッキリと届いていた。シシュウはカーテンと同じえんじ色の座席にその背中をどっぷりと沈める。


 ガタン ゴトン ガタン ゴトン ガタン ゴトン


 すると、小刻みに震える座席の振動が背中全体を伝わってきた。人によっては、その振動が不快なものでしかないかもしれない。しかし幸いなことに、シシュウにとっては何てことのないものだった。それこそ、一度も起きることなくノンストレスで朝を迎えられる程度には。 ……目を閉じると、まぶた裏の暗黒に車内灯の淡いだいだいがチカチカ光る。


 ガタン ゴトン ガタン ゴトン ガタン ゴトン


 ガタン ゴトン ガタン ゴトン ガタン ゴトン


 ガタン ゴトン ガタン ゴトン ガタン ゴトン

 

「シシュウ」

「…………え?」


 間の抜けた声と同時に、まどろみの世界へ落ちかけていたシシュウの意識が引き上げられる。そして反射的に呼び声の方を振り向いた。そこに大股2歩分程度の幅の通路と、シシュウを見下ろす大きな影を1つ見つける。


 ハルシネはぼんやりとした様子で見上げるシシュウの姿を見てわずかに眉を上げた後、相変わらずの平坦な口調でこう言った。


「ごめん。寝ていた?」

「その直前だったよ」

「そう。 ――さっきまでミケと話してた」

「ミケ……あのネコ、なんか言ってたか?」

「『仕方ないから旅に付き合ってあげる、と伝えておいて』」


 シシュウには当時のミケの様子が容易に想像できた。ボブに切り揃えられた自身の髪をくるくると指に巻きつけながら、あるいは二手に分かれた尻尾の先を爪でいじりつつ、イタズラな笑みで言ったはずだ。決して長い付き合いではないけれど、挑発的なあの態度と言動は今まで容赦なく浴びせられてきたものだからシシュウには分かる。

 

「はァ」


 露骨にため息をこぼしたシシュウの視界に突然長い黒髪が降ってくる。それからすぐに大きな体が目の前を横切り、ハルシネはシシュウのすぐ隣の自席へと座った。長い脚を組み、豊満な胸の下で両手の指を軽く絡ませたハルシネは、真向かいの空席を見たまま、なんてことのない調子でこう尋ねる。


「ミケのことは、嫌い?」

「……嫌いではないよ。嫌いでは。本当に嫌いなら俺は……あんなまともに取り合わないよ。もっと干渉されないように立ち回るって」

「なら、よかった。きっとミケはあなたのことを気に入っているから」

「何を――」


 思ったよりも大きな声が出てしまったことに半分の驚きと半分の恥ずかしさを感じる。シシュウは自らの喉元に毛むくじゃらの手を伸ばし、意味もなくさすった。そして言葉の続きを紡ぎだす。


「何を根拠に……言うんだよ」

「根拠、と訊かれると難しい。でもあなたのことが嫌いなのにわざわざ同じ汽車に乗らないと思う。きっと……ブランちゃんのことを大切に思って言った、あなたの言葉が響いたんだと思う」

「今朝のか?」

「そう」

「……とてもそうは思えない。あの言葉は思わず口からこぼれただけなのに」

「本人に直接尋ねてみる?」

「嫌だよ。素直に答えるわけないし、爪を立てられて俺が


 シシュウが自身の両腕を見つつそのように言うと、ハルシネが珍しく笑った。軽く握りこんだ手を口元に充てがい、それはそれは上品に。その様子に思わず見惚れてしまったが、シシュウはすぐに咳払いをして誤魔化そうとした。


「とにかくだ。ただでさえ賑やかしにはシェーデルが居るんだ。これ以上騒がしくなるとまともに眠れるか心配なだけだって、俺は」


 ガタン ゴトン ガタン ゴトン ガタン ゴトン


 ガタン ゴトン ガタン ゴトン ガタン ゴトン


 ガタン ゴトン ガタン ゴトン ガタン ゴトン


 シシュウの投げやりな呟きに、ハルシネがすぐさま答えることはなかった。そうして静かになった三号車の車内を包んだのは、やはり線路の継ぎ目を規則正しくまたぐ車輪の音だった。


 そんな夜汽車の、いわば“鼓動”だけがしばらく響いた後、ハルシネはようやくその口を開いたのだった。


「シシュウ、きっと大丈夫。楽しいから」

 

 ハルシネはそう言ったきりで、それ以上言葉を重ねようとしなかった。挙句の果てには、懐から取り出した本のそのしおりを、表紙と1ページ目の間へと移し替える始末だった。


 つい先刻のハルシネの言葉を口の中で反芻はんすうする。なんて無責任な言葉だろう、とシシュウが不満を抱いたことは事実だった。 ……しかしそれ以上の安心感を覚えたこともまた事実だった。他でもないハルシネの言葉で、このような気持ちになるのはなぜだろうか。 ……心当たりはいくつかある。

 

 シシュウもそれ以上の言葉を促そうとはせず、しかしそれが『安心したから』だなんて気取られたくはなくて、だから代わりに深い呆れのため息を吐いたのだった。 ……それこそが、年相応にひねた少年に出来る精一杯の抵抗だった。


(楽しくなる、か) 


 目を閉じる。まぶた裏の暗黒に車内灯の淡い橙がチカチカ光り、やがてテディベアの影が映し出された。まどろみのシシュウはそのことを疑問には思わず、ひどく客観的に……それこそ小説を書く時のようにその特徴を羅列したのだ。



 高さ24㎝、重さ521g。ダークブラウンの毛で覆われている。ふわふわなモヘア素材の毛は触り心地がいいけれど、抜けやすいことが玉にきず。あと湿り気に弱いことも。そしてチャームポイントのつぶらな瞳は、愛らしいがどこか頼りない。



 間もなくすべての意識を手放したシシュウは、久しぶりに夢を見た。ずっと昔のようで意外と近いその夢は、ハルシネと夜汽車の旅に出る少し前――人間の姿をしていた頃のつまらない生活の一幕だった。

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