ネバーブルーの伝説
日向理恵子/小説 野性時代
第1話
第1章 アスタリットの写本士
空をはじめて見たのは、八歳のときだった。
僕は〈発見〉され、〈救出〉された。そのときの記憶に焼きついているのは、ガラスの温室ととけ残った雪。それらが自分に関係があるのかないのか、そこのところはさだかではない。
しゃべるのがだめだった。僕は
そこで、文字を書くことが教えられた。こちらは僕に適していたらしい。「とても美しい文字を書く」と驚かれ、つぎつぎに新しい言葉とその書き方を教えられた。僕はいくらでも新しい文字と言葉、それらの組み合わせを覚えることができた。声を出してしゃべることは難しくても、文字ならば、僕はどんなに長くても書きつづけられる。
十二歳になると、自分専用のペンが与えられた。いまも毎日使っている、このペンだ。軸は樹脂製で深い
このペンで文字を学び、言葉を定着させるための修行を積む。
〈発見〉された八歳のあのとき以来、僕は言葉を覚えては書きつづけ、いまでは図書館員の資格を得た。アスタリット
毎日毎日、僕は文字を書く。やがてはそれが本になって、図書館の新たな蔵書のひとつに加えられる。あるいはほかの図書館や学院へ運ばれ、そこでたくさんの人に読まれるのだ。
アスタリットのあらゆる書物が収められた、国立図書館。そのもっとも奥まった片隅に、写本室はある。分厚い扉で図書室から隔てられたこの部屋には大勢が集まっているのに、室内の空気はほとんど動かない。
写本室には、ペンが紙の上を走る音ばかりがひそやかに響いている。新しい
高い天井に
僕たちが写しているのは、他国から図書館へ救出されてきた本だ。周辺国はすべて、かつての植民地だったので、書物はアスタリットと共通の言語で書かれている。僕がいま担当しているのは、北方にあるペガウ
写本士見習いは、はじめは図書館の蔵書を正確に書き写すことから訓練をしてゆく。与えられたノートに、何冊も何冊も、本を書き写す。一行も、一文字もまちがえることなく。書物の膨大さをまずは手に記憶させるのだと、ナガナ師は僕に教えた。分厚い本を何冊もまちがえずに写せるようになること。そして手本と同じ書体を、ひとつの揺らぎもなく書けるようになること。それらを習得すると、いよいよ葉皮紙にペンを載せ、他国から救出された本を
滅びた他国から運び込まれた本は、
このごろはそれでも、間に合わないことが増えてきた。
カタン。誰かがペンを置く。椅子から立ち上がり、写していた本を抱えて移動する。写本士の平服である
「先生」
どんなに低めた声も、写本室の中でははっきりと聞こえてくる。写本士の一人が、抱えた本を写本室の後方にいる三つの流派の老師に見せているのがわかった。何を見せているのかも、その返事も、写本士たちはわかっていながら写本の手を止めない。
「……また
老師の一人のつぶやく声に、頭の中に真っ白なページが現れる。雪のように白くてまっさらな、文字を奪われたページだ。
静かに本が閉じられる音が、後ろから聞こえる。ぼろぼろに傷んだその表紙を、インクの染みたしわだらけの手で
メイトロン
失われた書物を取り戻すことはできない。まだ戦争の
「コボル、つづき書けたか?」
ペンとノートを持って宿舎へ向かっていると、後ろから肩を
僕がはっきりしない音を喉の奥にくぐもらせると、ホリシイはぱっと表情を明るくした。
「見せろよ、早く早く。先生に取り上げられちゃう前に」
ホリシイは遠慮なく、僕のノートに手を伸ばしてきた。革製の表紙をかけた小型のノートは、写本士全員が練習のために与えられているものだった。ノートの紙は写本用の葉皮紙よりにじみやすく、わずかの水分に触れるだけでインクが溶けてしまう。その代わりに安価な紙でできているため、大量に使うことができる。均一の文字と多種多様な書体を
そのノートに、僕はこっそり物語を書いている。写本士の修行とはまったく関係のない、架空の冒険物語だ。図書館でこれまでに読んできたあの本、この本のつぎはぎのような文章を、僕は勝手にノートに書きつらねている。完全に自分で創作したものとも言えず、かといって多くの書物に
上下を引っくり返して最後のページから書き綴っている出来損ないの物語を、ホリシイは歩きながら読んでゆく。
集中を遮るからという理由で、写本士は十四歳まで髪を伸ばすことを禁じられている。男女の区別なく、全員が耳の上で切りそろえ、襟足は
ブルー派に所属しているホリシイとは、写本士見習いになる前、よく一緒に訓練室に居残っていた。ホリシイは課題が終わらないという理由で、僕は一秒でも長く本のそばにいたいという理由で。ホリシイは相手がしゃべらなくても気にならないくらい、一人でよくしゃべるから、僕といることもあまり苦にならないみたいだ。ノートの取りちがえも、暗くなるまで訓練室で練習をしていたために起こったのだった。
ホリシイのペンは深い青と金を基調にした軸が太めのもので、書く文字は伸びやかだ。癖を出しすぎるきらいがあるとしょっちゅう注意されているけど、僕はホリシイの伸び伸びとしなる文字こそがいいのに、と思う。
宿舎の周囲には菜園が広がり、僕たちの食べるものは主にここで育てられる。ここへ来るのは、身寄りのない子どもたちだ。家が貧しくて食べる口を減らすため図書館へやられる子や、そもそも家族がいない子や。ただ一人発見されて、家族も引き取り手もいない僕のような者もいる。
使われなくなった井戸の陰には、硬くなった雪がうずくまっている。サンダルから出たつま先も
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます