津和野 最後の武士

@chromosome

第1話 津和野にて

 今から百五十年前、政権が幕府から新政府に移行しようとする正にその時、中国地方の小さな藩で、当時ご禁制とされていた切支丹への弾圧が行われた。後に、浦上四番崩れと称されるようになった事件に関連したものであったが、御預百五十三名の内、三十六名もの死者を出すに到ったことは、長く記憶に留められるべきであろう。

 だが、この迫害に関与した津和野藩の記録は何故か消失し、被害者である切支丹の言葉だけが残された。山口公教史は、切支丹弾圧が功を奏しなかった事を、以下の様に伝えている。

「神父(ビリヨン)は布教の為に津和野に到り、旧藩士金森一峰氏に面会せられしが、氏は維新の初め藩主の命に依り、公教信者を改心せしめんとて、百端工夫したりしかど、毫も効なかりし事を語り、当時の記録を示されたり」

 ここに登場する金森一峰とは何者なのか。彼は、切支丹弾圧にどのように関わり、その後、キリスト教と如何なる関係をもつに到ったのだろうか。  

 当時、津和野藩には、他藩と比較して誇れるものが二つあった。一つは、津和野本学でありもう一つは国学者の福羽美静であった。 国学とは、古事記・万葉集などの日本の古典を研究して,日本固有の思想・精神を究めようとする学問であるが、これをさらに国粋化した「皇国古道学」とでも言われるべきものが、津和野本学である。国学やそれを純化した津和野本学は、後に王政復古思想と結びつき幕末の一大思想を形成することとなる。

 津和野藩は、四万三千石と石高は少なかったが、第八代藩主矩賢(のりかた)公が、藩校である養老館を開き藩士に学問を奨励した。第十一代藩主茲監(これみ)公は、藩政を改革し、国学を盛んにして実力ある者の人材登用に努めた。

 それらの者の中には、西周、福羽美静等がいた。彼等は、金森より年少であったが、秀才の誉れが高く、諸藩に名を轟かしていた。しかし、学問を尊ぶ風潮は、有能な者には良いが、常人にはつらいものがあった。

 津和野藩は、嘉永安政の時より長州藩とともに行動を同じくし新政府が樹立されるまで人材を供給した。金森も京に上り、又、戦にも出たが武功を立てることもなく藩から新政府に推挙される貢士にもならず、徒に時を過ごしていた。

 金森が特に劣っていたわけではない。幕末の一時期、四万三千石の小藩に、左記のとおり、きら星の如く人材が輩出したために、常人より優れている程度では、目立たなかったというべきであろう。


亀井茲常 - 神祇行政・東宮侍従。伯爵

岡熊臣 - 幕末維新期の国学者

大国隆正 - 幕末維新期の国学者

福羽美静 - 幕末維新期の国学者。子爵。

西周 - 幕末維新期の西洋法学者・思想家。男爵。

森鴎外 - 明治時代の文豪・軍医。


 安政五年、日米修好通商条約が締結されると、忽ちのうちに蘭露英とも同様の条約が締結され、少し遅れて仏蘭西とも条約が締結された。

長崎では、居留地の仏人のため南山手地内に大浦天主堂が建立された。三つの塔を持つこの三層の建物は、異国の建物を見慣れていた当時の長崎の者でも目を見張るほどの偉容を誇った。

 天主堂が完成したという噂は、浦上のみならず、外海、五島、天草、筑後今村に広まった。時、あたかも幕府消滅のさなかであり、その地の隠れ切支丹に、新しい時代が来たことを告げるものであった。

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