14杯目「赤石春花の話6」
8月12日(金)13:00
うだる蒸し暑い季節が進む。まもなくお盆を迎え、たまっていた仕事を少しでも消化するために、私は少し早い目に午後からの業務に戻っていた。
あれから2週間近くの日々が経ったが、あの子からの連絡は一切来なくなっていた。それどころか、新しく作ったはずの「もか」のアカウントさえも、ツイート数も、ここ数日一気に頻度が落ちていた。彼女に新しい恋人ができたために、SNSをする暇がなくなった……とも考えにくいので、彼女なりに何か反省してくれているのだと感じたいが、きっとそういうわけではないだろうと、私の勘が告げている。
ひょっとしたら、私に投稿内容を見られているのが問題なのかもとも考えたが、それならば、私のアカウントをブロックして私が彼女のアカウントを閲覧できないようにすればいいだけの話だ。
彼女とかかわらなくなってからも、私の生活に大きな変化があるわけではない。しいて言えば、明日から彼氏が地元に帰省することくらいか。
もうお盆の時期だ。
半ば喧嘩別れした前回のデートから、二人でどこかにでかけることはなかった。そもそも彼との休みが合わないのだが、デートの後、お盆休みに実家に帰省すると言われ、いよいよ私たちの交際も終盤に入っていることを悟った。
お盆には二人でゆっくり過ごせるね。その言葉は、彼には届いていなかったようだ。
「先輩、今日元気ないですか?」
いつもは無表情で私に毒を吐く後輩が、コーヒーを淹れたカップを渡す。その顔はやはり無表情だったが、彼女が私を案じていることが伝わる。
「うん、大丈夫よ」
「それならよかったです。今夜一緒にご飯でもどうですか?」
「ああ、それもいいけど、今日は遠慮しておくわ」
私はまた表情を殺してパソコンに向かう。終わりそうもないこの途方もない作業の量に、私は肩を落とし、また関連会社に電話を掛ける作業に戻る。
8月12日(金)15:00
「———くぅ」
作業をひと段落終え、私は伸びをする。この調子でいけば、なんとか残業にならずに作業を終えられそうだ。後輩が淹れてくれたコーヒーは飲み干したので、2杯目を注ぎに行こうと席を立つ。
その際、ふと自分のスマホに目が映る。そこには1件のツイッターの通知が来ていた。画面には、彼女、「もか」のアイコンが映し出されている。
「……」
私は平静を装って、そっとスマホを持ち出し給湯室に向かう。たった一目で心臓の鼓動が早くなるのを感じた。その姿はまさに恋する乙女のように……。
給湯室に駆け込むと、すぐコーヒーを淹れるわけでもなく、彼女からのメッセージを確認するのが先だった。
『はるちゃん、少し話したい』
彼女はいつも要件から入る人だった。一刻も早く相手に伝えたいことがある、相手からの返信を待っている時間がもったいない。対面と異なり、SNSの場合だと返信が遅い分、そう考えるのが妥当な場合も多い。
しかし、今日の彼女は違った。彼女からはこれまで見られなかった落ち着きがあり、何を言われてもすべて受け入れてくれそうな抱擁感もある。
泰然と返信を待つ彼女に、私はなんと言葉を返そうか悩んだもの束の間、私の頭とは相反して私の指はすでに彼女へのメッセージを送ろうとしていた。
「どうしたの、もかちゃん」
その間、わずか2分。私が彼女からのメッセージを心待ちにしていたかのように彼女に受け取られてしまうのは不満だが、気づいたときにはもう遅かった。はて、私は彼女からのメッセージを心待ちにしていたのだろうか?
『ごめん、今まで連絡あんまりとれなかった』
「いいよ、私からも連絡できなくてごめん」
少しずつ、私が給湯室にいる時間がも長くなる。あまり長い時間、休憩しているとほかの人にも迷惑になってしまうから、彼女からの距離を取りたいと思ったが、私の意志はスマホの画面にくぎ付けにされていた。
「ごめん、今仕事中だよね」
彼女と話したい。けれども、いつも強引な彼女ではなく、覇気がなく大人しい彼女の言葉に、私は後に続けることができない。
『ううん、今日の夜も少し話せる?』
私は彼女にメッセージを送って、給湯室を後にした。
私は肝心のコーヒーを淹れるのを忘れたままだった。
8月12日(金)21:00
想定していたよりも、仕事が終わる時間は遅くなってしまった。何度ももかに連絡するため早く帰りたいと思ったが、思えば思うほど仕事の効率が下がり、帰宅の時間に響く。当初の予定よりかなり遅くなってしまったが、あれからもかからのメッセージはない。
「仕事、終わったよ」
彼女に一言だけメッセージを送ってから、帰宅の車に乗り込む。
職場から家に着くまではわずか10分。その10分の時間が異様に長く感じる。
淡く栗色に染められた髪も、透き通った先に闇を抱える眼も、彼女の持つ完璧性が垣間見える。彼女の明るく優しい声は、何人もの人に愛を伝えてきた。彼女の明るい性格は、誰もを魅了し、感受性の高さは、何人もの人の気持ちを共感してきた。
苦しい。この気持ちを、私はこれからいつまでも覚えていくに違いない。決してふわふわとした心地のいい透明な気持ちではない。重く苦しい血紅色の気持ちが、私を襲って離そうとしない。
車の中で、何度も彼女のことを思い出す。
会社を出てからそう長くない時間のうちに、家にたどり着く。彼女からの通知が来ていることは、感じていた。
『お疲れ様、はるちゃん』
彼女のその静けさに不気味さを感じながら、私は家族が用意してくれた夕飯に口をつけられずに彼女へのメッセージを返す。
「ありがとう、疲れたけど、大丈夫だよ」
『私ね、はるちゃんにちゃんと話さないといけないことがあって』
私の緊張はピークに達する。
目の前にいない彼女には、対面の人と異なり、彼女への言葉をいくつも推敲できる。彼女から送られる文章に対して、私はどのように返信したらいいのかを必死で考える。「いいよ、話して」「好きだよ、もかちゃん」「大切な友達だからね」いくつもの嘘と真実がその液晶に入力しては消していく。その繰り返しを続けていると、彼女からのメッセージが続けざまに送られてきた。
『私は今、マッチングアプリで彼氏探してるの』
私は彼女のメッセージを見て、思考を止めた。まだ彼氏ができていないという半分の安堵と、次は本気で彼氏を探そうとしているという半分の焦りが入り混じる。私が彼女に送ったメッセージは、自分でも後悔するくらい無理やりだった。
「ねえ、もかちゃん。私と通話しない?」
『え、いいの!? めちゃくちゃしたい!』
現実の私の息が荒れる。これまでに感じたことのない緊張が私に襲い掛かる。心の中のドロドロとした血紅色の感情は、だんだんと柔らかな薄紅へと変わっていく。
「今からご飯食べるから、お風呂から出た11時くらいでもいい!?」
『いいよ~、待ってるね!』
彼女は、今日一番明るい表現で、私を見送ってくれた。
当の私は緊張で味がしない夕飯を胃の中に詰め込むのだった。
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