カフェモカが飲み終わる頃におかえりください

赤崎 月結

1杯目「プロローグ」

 夏の暑さには限りがなく、少し外に出ただけで大量の汗があふれ出る。

 年齢のせいか、環境問題のせいか、年々この夏の暑さは身に沁みて苦しくなり、ため息が止まらなくなる。

 ジャーナリストとして独立してから、自分の好きな時間に仕事ができるようになった反面、仕事をしなければ目に見えて減っていく収入を前に、私は気が滅入っていた。焦る気持ちを他所に、集中力を欠き、一向に進まない仕事から逃げ出して外を散歩していた。

 頭痛がひどくなってきた。外に出てから気温の変化で体がびっくりしただけだと思っていたが、甲高いセミの鳴き声と相まって不快感が募る。このままだと熱中症にもなりかねないと感じた私は、ちょうど目に入った「遙」と書かれた喫茶店に逃げ込むのだった。


 30歳になっても男っ気はなかったことを気遣った母親は私にお見合いを提案したことがあった。30歳という残り物一歩手前のような私を引き取ってくれるような素敵な男性はいなかった。私自身は当時から仕事が好きで、男が居なくても生きていけると思っていた。

 だからというわけではないが、私は自分の体調に敏感だった。いざというときに私が倒れてしまっても、助けてくれる人がいないかもしれない。誰もいない道端で倒れるわけにはいかない。この日の私が、若干の脱水症状を患っていたことも、すぐに感づいた。

 喫茶店の中は、決して冷房が効きすぎているわけでもなく、冷房の効いた室内に入った時特有の震えるほどの寒さは感じなかった。ただ、自然と自分の高鳴っていた心臓が少しだけゆっくりになったのを悟った。

 喫茶店の中にはお客さんは誰もいなかった。カウンターでグラスを拭く女性が私に少し会釈をした。初めて入った喫茶店で店員さんと二人きりになるのは、気まずさが少し残るが、テーブル席に座って微妙な距離感になるのならいっそ、と私はカウンターの女性が経っている前の席に座った。

「ご来店ありがとうございます。ご注文はお決まりですか?」

 女性は優しそうな落ち着いた声で話した。私は特段決まって好きな飲み物があるわけではないので、席に立てかけてあったメニュー表をじっと見つめた。

 頭痛からわずかに眩暈が襲ってきていたので、私は自分で考えることができずにいた。

「何か、おすすめはありますか?」

 結局、私はメニュー表の文字を見るのも辛くなった。状況を察した店員さんが、また落ち着いた声で言ってくれた。

「この店で一番自信があるのはカフェモカです。暑いのでアイスでお出ししますね」

「お願いします……」

 私はうつむいて答えた。実のところ、私はコーヒーが苦手で特にカフェイン中毒になりやすく、昼間飲んだら夜眠れなくなるのが嫌だった。

 しかし、せっかく店員さんが勧めてくれたのを無下にするわけにもいかず、私は店員さんが慣れた手つきでカフェモカを淹れてくれるのを無言で待った。


「お待たせいたしました」

 ものの5分ほどで店員さんはカフェモカを淹れてくれた。大きめのグラスにいっぱいに氷とクリーム色の液体が注ぎ込まれ、赤いストローが刺さっていた。

「……ありがとうございます」

「あ、それを飲む前にこちらもどうぞ」

 グラスに手を付けようとする前に、店員さんは私に飴を差し出してくれた。

「熱中症でしたら、先に塩分を取っておくのをお勧めします。カフェモカにはカフェインレスのコーヒーを使っていますので、ご安心ください」

 私はその言葉を聞いて、やっと顔を上げた。

 店に入ってきたときは気にしていなかったが、店員さんは顔が整っていて髪も綺麗な素敵な人だった。はにかんだ笑顔は女の私でさえもドキッとさせた。

「あ、ありがとうございます!」

 私はすぐに飴をなめた。


「少し落ち着きましたか?」

「はい……、ご心配をおかけしました」

 そこから私は店員さんと他愛もない話をしていた。

 店員さんは独りでこの店を経営していること、店の名前の遙が店員さんの名前であること、遙さんと私の年がすごく近いこと、話し出すといつの間にか時間が経っていた。遙さんはとても話が上手で、私の話もニコニコと聞いてくれていた。そして、話は私の仕事の話になった。

「私、フリーのライターをやっていて、それで新しいネタを探して外歩いていたんですけど……、ちょっと失敗しちゃいました」

「そうだったんですね」

 私が飲んでいたカフェモカの残りが半分を過ぎた頃だった。

「お客さん、もしよかったら私の話を聞いてみませんか?」

 店員さんは手を合わせてお茶目な格好で私にそう言った。

「遙さんの話ですか?」

「そうなんです、こういうお店をやっている関係で、いろんなお客さんからお話を聞くんですよ。もしかしたらお客さんのお仕事の手助けになれるかなと思うんですけど……」

 私はすぐ帰るつもりもなかったし、遙さんが私の仕事を心配してくれているのも感じていた。

「せっかくなので、お聞きしたいです!」

「わかりました。では……」

 遙さんはわずかに不敵な笑みをして、そして突然、客に言うには少し失礼な言葉を告げて話し始めた。


「カフェモカが飲み終わる頃におかえりください」

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