第2話 フクジュソウ

 5年前、天篠島あましのじま――


 それは5年前の夏に遡る。その夏も、記録的な猛暑日が続き島内でも熱中症になってしまう人が多くいた。

 この時2人は14歳。中学2年になった夏である。


 2人は既に交際をスタートさせてはいたが、この時はまだ誰もそのことを知る由もなかった。


 天篠島の南部に住む2人は、暇を持て余すだけの夏休みを利用して島の中央部まで足を伸ばしていた。2人だけの秘密のデートである。

 親には泊まりになることを各自伝えていたので、何の心配もなくテントを設置した。そう、2人は中央部にある森を流れる川のほとりでキャンプをしていた。


 2人はテントを設置すると、辺りを散策し始めた。すると、すぐに綺麗な花畑を見つけた。

 そこには、アリウムやキンセンカ。更にはエリカとフクジュソウ。どれもこれも、夏には開花するはずのない花たちだが、そこにあった花たちはとても美しく幻想的な花を咲かせていた。しかし、そんな不可思議な事象もそれを知らない彼女たちには、ただ綺麗な花だとしかその目に映らない。


 2人はそんな花畑の真ん中に腰を下ろし、止むことの無い蝉時雨をどこまでも聞き続けた。



 しばらくしてから、日が落ちてきたので2人はテントへ帰った。そして、夕食の準備を始めた。


「ね、そっちの飯盒良い感じ? 」

「うーん、多分……? 」


 今日の夜ご飯は、キャンプの王道であるカレーだ。僕が飯盒で米を炊き、彼女がカレーのルーを鍋で作っている。本当は、BBQがしたかったが……お肉やらの用意が間に合わなかった。コンロも重いしね。


「ねぇ、あの男にまだつきまとわれてる? 」

「……いや、最近はあんまりかな」


 僕は、去年の今頃くらいからずっとある男にストーカーまがいな事をされ続けていた。

 きっかけはなんだったか……確か僕が、男が落としてぶちまけた何かのトレカを一緒に拾ってあげた事だったかもしれない。

その次の日から、僕は度々視線を感じるようになった。それは学校にいても、登下校中でも。そして、家の中にいても。


 最近はそんな事がめっきりと減って、僕はあの男がもう諦めたものだと思っていた。もう僕に興味をなくしたのだと。



 それからも楽しいキャンプが続いて、次の日に家路に着いた。見慣れた街並みが見え始め、安堵感を覚えると共に少しだけ嫌な感じがした。それは、もう少し後に的中することになる。


 彼女と別れ、家に入ると母が血相を変えて僕の所へ来た。そして、「話があります」と言って引き返していった。特に心当たりも無かったし、なんの事か分からずとても怖かった。

 母の後、少し遅れて居間に入ると、そこには神妙な面持ちをした父と母が座っていた。

 ここに座りなさいと言わんばかりに、母は空いている所を叩いた。


「何? どうしたの」


 僕が座っても両親は黙ったままだったので、僕の方から聞いてみた。すると、母は深いため息をついて言った。


「あなた、近所の女の子とお付き合いしてるんだって? 」


 母が言った事に僕は少し胸を撫で下ろした。そんなことの為に、わざわざこんな家族会議を開いたのか。全く大袈裟だ。


「もう、誰から聞いたの? そうだよ……」


 僕がそう言い終わる前に、母は両手を机に叩き落とした。不意な出来事だったのと、大きな音にびっくりして僕は思わず立ち上がった。急に何なんだ、一体何が悪いって言うんだ。

 今まで黙り決め込んでいた父が、「座りなさい」と一言。僕はそれに従い、また同じように座り直した。


「お母さんとお父さんは、あなたの為を思って言っているのよ? なんで分かってくれないのよ……」

「僕の為? そんなの余計なお世話だよ」


 僕は母の態度に少し腹が立ってしまった。口調がつい強くなる。

 不愉快だ、これ以上何か言ってしまう前にこの場から出ないと。そう思い、席を立とうとすると父がすかさず言ったのだ。


「なんでお前はいつもお母さんの言う事が聞けないんだ? お父さんたちはお前がになって欲しいだけなんだ」

「それにあなた、まだ『僕』なんて言ってるの? 『私』にしなさいって、この前注意したわよね! 」


その時、僕の中で何かがプツンと切れたような音がした。今まで溜め込んでいた感情が、雪崩のように音を立てて崩壊した。


「僕は僕だ! 何が悪い、そもそも幸せってなんだ? 何をどうすれば幸せなんだ? 自分の思う幸せが人の幸せだと思うな! 」


 それを口にした後でハッとした。母は今にも泣き出しそうだ。父は腕を組んだまま目を閉じている。


「あなた、自分が何言ってるか分かってるの? あなたはなのよ? 普通に男の子と交際して、それから結婚して。いつかは子供を産んで……それがどれほど幸せな事か……」


 聞いていて頭が痛くなった。気分が悪い……

 普段の様子から見るに、両親はそういう事に理解があるとばかり思っていた。それがいざ我が子となると、こんなにも変わってしまうのか。


 僕はこの場にいることがどうしても嫌になり、遂に家を飛び出した。


「待って、碧都みと! お願い、戻ってきて……」


 背の後ろの遠くの方から、僕を呼び止める父と母の声がする。僕は構わず走り続けた。いつしか、その声も耳に入らなくなっていた。

 荒くなった息を整えながら、僕は自分の頭を整理しようと努めた。僕はこれからどうしたら……


「――っ!? 」


 その時、不意に後ろから誰かに抱きつかれた。誰だ、分からない。少し汗ばんでいて、太っているようだ。ねっとりとして、まとわりつくような汗の匂いが僕の鼻を容赦なく襲う。

全身に強烈な不快感が走り、悲鳴をあげようとしたがその大きな手で口を覆われていて、その悲鳴は悲鳴とならずに僕の体内にこだまするだけだった。その口を覆う手とは逆の手で、身体をがっちりと掴まれていてとても逃げられそうにない。


 男が耳元で、何かを囁く。生暖かい吐息が僕の耳を襲う。恐怖や混乱。そして、生理的な拒絶を抑えられず僕はついに気を失ってしまった。

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