恋愛日和 〜巡り会う〜 完

ヤジマ ハルカ

第1話  始まり 



 今から五年前





 中学を卒業した私は、

 真新しい高校の制服に身を包み

 校内で一番大好きな場所となった

 眺めのいい図書館で、

 毎日の昼休みと放課後を過ごすのが 

 楽しみになっている




 そしてもう一つ‥‥




 高校一年生でまだまだ子供な私だけど、

 その大好きな場所で生まれて初めて誰かに

 恋をするという経験をした



 出会った瞬間は

 今でも忘れられないほど鮮明に覚えている



 小さい頃から本を読むことが大好きで、

 それ以外にはあまり興味もなく

 生きてきた私の世界が、ガラリと

 大きく変わった日だったから‥



 誰かに恋をするというものを

 知らずに育ってしまった私は、

 その人に出会ってから暫くは

 自分が彼に恋をしたとは気づけなかった



 ただ、あの人に出会ってから、

 本を読んでても、授業中でも、

 家でもどこでも何をしてても眠る前ですら

 ふとした時に思い出す彼が頭から出ていかず、

 私の心にいつの間にか

 住みついていることに気が付いた



 いつもと変わらない

 大好きな学校の図書館も、

 彼がそこにいるというだけで

 別世界な空間になり、

 言葉を交わすことなんてなくても、

 その場所が居心地がよく

 帰りたくないなぁなんて思ってた。



 偶然の出会いからひと月も経てば

 私の中で彼はもっと

 大きな存在になってしまったと思う




 恋って本当に不思議な感情だ‥‥



 もしもこの気づいた感情を

 恋というものじゃないと言うのなら、

 この気持ちの正体を誰か教えて欲しい




 あの人との出会いは本当に偶然だった‥‥‥




 春風が豪快に開けられた窓から入り、

 図書室全体に暖かな優しい

 日差しが差し込む放課後




「(えっと‥‥確か……ここに……)」



 あ‥‥‥嘘っ!!あった!



 前から気になって

 読もうと思っていた本を見つけて

 心がワクワクしてしまう‥



 なかなか返却されずで、迷っていたあの時、

 借りれば良かったとずっと戻ってくるのを

 待っていた一冊なので、

 嬉しくて思わず手を伸ばした



 毎日来てるのにこうして

 なかった本が突然戻ってくるのも

 図書館のいいところだと思う



 どうせ今日もないだろうなって思って

 半ば諦めてたから、

 そういう時に起きる奇跡は平凡な日なら

 尚更余計に嬉しくなる。




 ‥よいしょっ

 ‥‥えっ!!?



 やっと気になっていた本が

 読めることで嬉しくなったのに、

 手に取った本の表紙を見て

 あることに気付いた



 藍色のその本を手に取ると、

 そこに書かれていたのは

 まさかの『後編』と書かれた二文字



 まさかの二冊シリーズなのね

 なんだ‥‥残念‥‥‥。




 前編から読まないと

 さすがに物語がわからない‥



 手放しにくいけど仕方ない‥‥か。

 前編を読んでる人が、次にこれが

 なかったら悲しいもんね‥‥



 あと三年ここにいれば

 いつかは読めるはずだから

 気長に待とう‥



 まだ読んでない本が山ほどある図書館に

 胸がワクワクしてくる





『その本、借りるの?』



 ドクン



 後編の本を棚に

 戻そうとしたその時



 突然聞こえた声に振り返ると

 空いていた窓から強い春風が舞い込み、

 白いカーテンがふわっと舞うと

 お互いの空間が一瞬遮られてしまう




 ゆっくりと風になびいたカーテンが、

 スローモーションのように

 フワリと舞いあがり

 窓際の位置に戻った時






 時間が本当に止まった気がしたんだ。





 他の人からしたら時が止まるなんて

 ありえないって思われても仕方ない



 それでもそう感じるほど

 あの一瞬がとても長く感じられた



 まだ時折窓から運ばれる風にカーテンと

 彼の黒い髪が柔らかくなびき、

 日の光が射した場所だけ

 その髪がうすい茶色にも見える



 少しだけ長めの髪の間から

 整った容姿に映える綺麗な瞳



 視線が私と交わり、

 その目から逸らせない私と

 その彼もこちらを見て視線を離さない





『クス‥‥見たことないから君、一年生?』



 ドクン



「えっ……は……はい、

 一年の‥‥あ‥‥えっと‥‥矢野です」



 三学年通して制服も上履きも共通なため、

 目の前の男性が

 先輩なのかさえ分からないけど

 私のこと見たことないって言ってたから

 多分先輩だよね‥‥



 顔に似合わず

 少し低くて耳に残る声に、

 胸の奥の鼓動がどんどん加速する



 彼は自分の脇に抱えていた本を手に取ると、

 中に入っていた貸し出しカードを取り出して

 上から目線をすっと下げ始めた




「‥あ‥‥‥それ‥」



『ん‥‥まだこれ読んでないんだな。

 ここに矢野さんの名前はないから

 ‥‥‥はい』



「えっ?」



 貸し出しカードを戻した対である前編の本を

 私の目の前にそっと差し出した彼は、

 私が抱えていた本を

 片手でそっと抜き取ってしまう



「えっ?あ、あの」



『これ読みたいんだろ?

 俺もう読み終わったから交換して。』



「は、はい…ありがとうございます」



 ドキン



 受け取る時に一瞬だけ触れた指は

 細くてとても綺麗だった



 どうしよう‥‥

 顔が‥‥とても熱い



 男の人なのに、

 こんなに綺麗に整った顔立ちの人

 初めて見た‥‥‥



 勿論今まで見てきた男性の中では

 群を抜いてカッコイイのだけど、

 彼はその中でもより綺麗な男性な気がする



 鼻筋がとおってて涼しげな瞳。


 それに身長もスラリとして

 こんなバランスの取れた人が

 世の中にいるんだと思わされる



 この人独特の周りを惹き付けるような

 柔らかい不思議な雰囲気に、

 初対面なのに既に呑み込まれていた



 あの時はすぐに気づけなかったけど

 今思えば、きっと

 この時が恋の始まりだったのかもしれない




 元々小さい時から人見知りな私は、

 昔から友達も限られているのに、

 高校入学を機に

 仲のいい友達と学校が離れてしまってから、

 緊張のあまりクラスの子にも

 自分から話しかけることもできずにいた。




 すごく内気かと言えばそうじゃないけれど、

 慣れた人じゃないとなかなか

 リラックスして上手く話せないだけ



 小さい頃から本を読むのが大好きで、

 この高校の図書室の本の所有数が

 都内で一番多いというだけで、

 友達と離れてしまうのに

 志望校としてしまう単純な動機なほどだ。




『‥‥矢野ってなんか小さくて可愛いな。』



「えっ?」



 矢野って呼ばれただけでも、

 また顔が熱くなる始末。

 



 それなのに、去り際に

 彼の長くて綺麗な手が

 私のショートヘアを撫でるだけで、

 電気が走るように心が震えていく



 可愛いなんて

 初めてそんなこと言われた‥‥




 髪はショートボブで

 みんなみたいに綺麗に巻いたりもせず、

 女の子らしくもない。



 周りのみんなが

 ヘアメイクに興味を持つ中

 ほとんどノーメイクの私



 なのに可愛いって‥‥

 嬉しいけど‥お世辞だよね?




 『これ読み終わったら矢野に直接渡すから』



 触れられた頭がずっと熱を帯びて

 私は俯いたまま返事もできず

 その場から暫く動けなかった







 〜現在〜




『‥‥り、起きて……

 ねえ、起きてって』



「…………」



 久しぶりに懐かしい夢見てるんだから


 もう少し‥‥‥


 懐かし過ぎていい夢なん‥だから‥‥‥



 ん?


 ゆ‥め‥



 ……夢!!?



 ガタッ!



 勢いよく体を起こせば

 そこはやっぱり現実で、

 目の前に仁王立ちする

 助教授に血の気が引いていく




 隣に座る親友の彩に助けを求めれば、

 肘をついて反対方向を向かれてしまった



 どうしよう‥‥‥‥

 ……この状況はとっても不味い



「えっ‥‥と…ですね…」



『俺の授業で寝るとはいい度胸だな?

 お前文芸専攻したいって言ったのは

 空耳か?』



「‥‥(はい、空耳じゃありません。

 その通りです!!)」



 他の生徒たちの視線をいっせいに感じながら

 首を大きく左右に振る



 寝ていた私が悪いので仕方ないが、

 回りの生徒の笑い声を

 全身で受け止めることになった。



 恥ずかしいけど自業自得だ



『お前授業終わったら残れ』



 ええっ!?



 言い返そうと助教授の顔を見上げれば、

 物凄い剣幕の表情に血の気が引くどころか

 冷や汗が流れる



 あぁ……最悪だ。



 今日講義終わったらバイトがあるのに

 これじゃ完璧遅刻だ……



 先生が講義室の階段を下りて行く中、

 うな垂れて座る私に

 隣から聞こえたのは親友の声だ



『‥あんたバイトし過ぎなのよ。

 そんなにまだ生活苦しいの?』



「…そっとしておいて‥

 今、地味に落ち込んでるから。」



 昨日も夜中までバイトした後、

 レポートと課題やってたら

 いつの間にか朝方になって

 仮眠程度しかとれてないのは事実



 見つかった相手が相手なだけに

 溜め息が溢れる




「はぁ‥‥‥」



 あれ‥‥?

 そう言えばさっきまでどんな夢見てたっけ‥

 懐かしいようなそうじゃないような‥‥

 



 




『で?

 勤労なのは構わないけど、

 俺としては学費を出してやってる分

 ちゃんと学んで貰わねぇと困るんだけど?

 ‥っておい、聞いてんのか?こら』



 立ち尽くす私は、

 助教授に丸められたノートで

 軽く頭を叩かれる



 皆が教室から出ていった後、

 約束通り帰れるわけもなく

 説教されているのだ



 説教されてるにも関わらず、

 バイト仲間に少し遅れると

 メールをしてたのがバレていた。



「……ごめんなさい」



『謝るくらいならしっかり学べ。

 それより生活大変ならそれぐらい』



「い、いいよ!!

 学費だけで助かってるから!!」



 この都内の大学で

 文芸専攻の助教授(成り立て)

 をしているのが私の兄。



 立花 櫂(かい)

 私の大切な大切な家族だ。



 本が好きなのも、年が離れた兄の影響。

 家では沢山の本に囲まれて育ったから

 2人とも外で遊ぶより本を読んでいた。



 七つ年上で

 面倒見のいいところだけは

 今になっても感謝してる



 シングルマザーで苦労した

 お母さんの変わりに、

 こうして行けないと思っていた

 大学に通わせてくれているのは

 優しい兄のお陰だから



『はぁ‥‥お前さちょうどいいわ。

 もっと割りのいいバイトしないか?』



 えっ?



 割りのいいバイトって

 変な仕事じゃないでしょうね‥?



 夜の世界とかだったら

 今よりもっと授業なんて

 起きてられないよ?



『ところでお前‥

 今バイトいくつ掛け持ちしてんの?』



 え?

 そんなの数えたことなかった‥‥



 洋食屋

 パン屋

 それに最近始めたネカフェでしょ?

 土日は時々図書館の整理と

 あとは……



 指を折りながら

 頭の中で数えていれば、

 お兄ちゃんにさっさと阻止され

 溜め息が届けられた



『アホ、それ全部辞めろ』



「はぁ!?そんな、む、無理だよ!

 ‥‥‥家賃払えなくなるし。」



『だから割りのいいバイトやるって。

 本が好きな知り合いに本関係で仕事

 頼まれてるからいいだろ?』



 えっ?本!!?



 その言葉に、さっきまでの意志の固さも

 呆気なく興味深い方へと寄せられていく。




 『ハハッ‥決まりだな。』



 頭を撫でる手に、

 いつまでも子供扱いされてて

 自立できてない自分が

 情けなく感じた





 数日後



 本当にバイトを全て辞めさせられたので、

 お兄ちゃんに言われて

 大学から歩いて十分ほどの場所にある

 立派な建物に来ていた



 でも‥‥ちょっと待って

 ほんとに…………ここ?




 見るからに

 高級マンションなその建物に

 唾をごくんと飲み込み、

 メールで送られて来た地図やマンション名を

 確かめる。




 ‥‥やっぱり住所も

 マンション名もここだ。



 世の中には必至で働いて勉強しながら

 生活をしてる人が

 ここにいるって言うのに、

 こんなすごいところに

 当たり前に住む人もいるなんて

 悲しくなってしまう。



 でも文句なんて言ってられない!


 今は生きるためにここでやるしかない。



 でないと

 家賃滞納、

 水道光熱費は勿論払えず、

 おまけにお小遣いもなし。


 強制退去まっしぐらだ。



 恐るおそる息を呑み込み

 マンションのエントランスに入れば、

 ホテルかと思うほどの

 広々とした空間を見渡した



 これってもしかしなくても

 オートロックだよね?



 完全に場違いな私だったけど、

 慣れない機械に震える手を伸ばして、

 ゆっくりと部屋番号を押した




『‥‥‥‥はい 』



ドクン



 暫くしてから聞こえた低い声に驚いて

 緊張感が一気に増し背筋が伸びる



 いつでも行けばだいたい居るから

 大丈夫とお兄ちゃんは言っていたけど、

 よく考えたら面接なのに、

 アポもなしで突然来てしまったことに

 今更気付いてしまう



 生活費のこともだけど、

 お兄ちゃんにこれ以上心配かけたくないから

 一日でも早く働きたい衝動で

 あまり考えずに来てしまった




「あ、あの‥‥

 アルバイトの件で来ました立花です。」



『……‥立花?

 ……ああ……どうぞ』




「…あ、はい。」




 ん?

 

 お兄ちゃんからアルバイトに来る

 私の名前聞いてなかったのかな?




 応答の仕方に疑問を抱いたが、

 目の前のガラス扉が閉まる前に

 開いた通路に足を踏み入れた




 うわっ!!

 す、凄い……ホテルでもないのに

 全面絨毯なんて初めて見た‥



 すごいふかふか‥‥

 


 

 私、ほんとに凄いとこに

 来てしまったのかもしれないと

 不安が一層増していく



 到着した立派なエレベーターに乗り

 指定された十五階に到着した私は、

 教えられた部屋番号を探した



 どうしよう‥‥



 部屋の前に着いたのはいいけど

 今更なのに緊張してきた


 

 そもそも仕事内容わからないけど

 こんな格好でいいのか?



 何だかんだで言われるまま来たけど

 本というワード意外

 実際なんの仕事かもよく分からない。



 お兄ちゃんに限って

 妹にやらせるバイトだから

 信用はしてるけど、

 ほんとに変な仕事だったら

 どうしよう‥‥‥

 とりあえず逃げる?



 いつものアルバイトの面接とは

 違う緊張感が増して、

 大きなため息が溢れる



 ガチャ



「はぁ……」



『‥‥入ったら?』



 えっ!?



 先程聞いたより

 もっと低い声がダイレクトに伝わり

 驚いた私は瞳を開けて目の前を見た



 ドクン



 あれ…………



 ちょっと待って……



 この人何処かで…………






 ‥‥‥‥‥ツッッ!!

 嘘でしょ!?




 たかだか二十年という人生で

 こんな出会いが

 二度も起こるなんて思えない




 それでも今この瞬間

 胸の中がどうしようもなく

 苦い思い出に覆われる



 口の前を震える手で

 覆ってしまうのは

 あり得ないという驚きによる

 声を抑えるためだ。



 扉にもたれてこちらを見つめる瞳に

 心臓がどうしようもなく騒ぐ





 ‥‥告白もしないまま終わった

  身勝手な片思い。

 それだけなら相手には迷惑かけてない



 私が心から向き合えないのには、

 ものすごく大きな理由がある。



 見間違えるわけない‥‥‥




 目の前で腕を組み見下ろすキレイな相手は、

 やっぱりどう見ても彼なのだ。



 あの頃よりも大人びた容姿だけど、

 自分の脳がちゃんと覚えてる




 逃げないと‥‥‥‥‥

 このままだとダメだ‥‥‥



「‥‥‥あ‥‥あの」



『櫂さんから聞いてるから早く上がって。』




 いつのまにかわたしが

 フロアに落としていたであろう鞄を

 綺麗な手が広ってしまうと

 そのまま扉の中に何も言わずに

 歩いて行ってしまった



「あ、あの!」



 ガチャン



 扉が閉まる音で我にかえり、躊躇しながら

 重たい大きな扉を慌てて開けると

 サンダルを脱ぎ捨て彼を追いかけた



 駄目だ……



 ここにいたら……

 ここにいちゃいけない



 ドクンドクンと

 警告音が大袈裟に脳内に鳴り響く



 初めてきた人の家なのに

 ずかずかと上がり込む私だったけど、

 真っ白な扉の先に現れた空間に驚き

 その場で立ち止まった



 

 うわ‥‥‥なに‥‥ここ。



 見渡す限りの広い部屋に高い天井



 部屋の中なのに階段があるってことは

 ここは‥‥まさかメゾネットタイプ?

 エレベーターもよく考えたら

 十五階までしかなかったから

 最上階じゃんここ!!



 何処を見渡しても凄すぎて

 開いた口が塞がらない……



『ねぇ、こっちに来て座って』




 ツッッ!!


 あまりの凄さに目的を忘れてた!!

 初めて見る感動的な空間に

 のんびり見とれてる場合じゃないのに‥



「あ、あの!」



 ソファの近くまで行き追いついた私は、

 彼の手から勢いよく鞄を奪い取る



 昔と変わらない黒い髪と瞳に

 あの時に引き戻されそうで怖くなり

 心臓の音が聞こえないように

 カバンを胸に抱え込む



『なに?』



「……バイトの件

 やっぱり断らせて貰えませんか?」



 いきなりアポなしで来て上がり込み、

 面接もせずやっぱり辞めますなんて

 非常識だし人間として最低だと思う



 でも、忘れたくて苦しくて、

 もう二度と会うこともないと

 思ってた相手だからこそ、

 今すぐにでも逃げ出したくて仕方ない



 五年前のあの日

 あんなことをしなければ良かったのに‥‥




『‥‥‥嫌だって言ったら?』



 えっ!?



 一歩こちらに近付く彼から

 逃げ出したいのに震えて

 緊張からか足が動かない




『あのさ‥‥一度引き受けた仕事は

 最後までやろうとか思わないわけ?

 櫂さんから根性あるやつって

 聞いてたけど間違いだった?』



 えっ?



 目の前で腕組みして見下ろす彼に

 体がさっきよりも強張るけど、

 昔とかなり違う口調や表情に

 違和感を感じる‥‥



 これって


 もしかして……

 もしかしなくても、



「(まさか‥‥

 私のこと覚えてない……とか?)」




 短い数ヶ月の出来事で、

 私にとっては大きな問題でも、

 相手にとってはもしかしたら

 大したことではなかったのかもしれない




 落ち着いて話す相手に

 取り乱していた自分が恥ずかしくなる




「‥‥ツッ‥

 辞めたいなんて言ってすみません。

 人として最低な発言でした。

 お時間取ってくださったのに

 申し訳ありません。

 ‥‥‥実はもう他のバイト

 すべて辞めてしまったんです。

 なのでここで働かせてください

 お願いします。」




 初対面で挨拶もせず

 辞めたいなんて言ったら

 まず普通は受からないから

 その場で激怒されて帰されるだろう



 はぁ‥‥



 落ちたら今日にでも

 他のバイトまた探さないとな‥‥

 お兄ちゃんにも謝らないと。



 それより明日からの生活費どうしよう‥



 もう一度

 元いたバイト先に頭下げようかな‥





『‥‥そこに座って』



 えっ?



 相変わらず無愛想な態度の彼は

 顎で軽くソファーの方を

 合図したかと思えば

 私を置いて何処かへ行ってしまう



 怒ってない?

 というか‥

 私帰らなくてもいいの?



 何だか状況が分からず

 力が抜けたまま拍子抜けしてしまう



 普通なら帰れって言われても

 おかしくないくらいの

 態度をとったのに…‥




『立花さんコーヒー飲める?』



「えっ!?‥‥あ…はい。‥‥甘めなら」



 お兄ちゃんは

 確か本が好きな私には

 ちょうどいいバイトって

 言ってた気がするんだけど‥‥



 見渡しても

 モデルルーム並みの綺麗な部屋だけで

 本棚すらない。



『はい、熱いから気を付けて』



 ガラスのテーブルに

 コツンと音をたてて置かれた

 真っ白なマグカップ



 差し出されたマグカップよりも

 それに添えられた長くて綺麗な指に

 目がいく私は昔と何も変わってない



「‥あの‥‥‥‥ありがとうございます」




『…………』



「…………」



 なんだろう‥‥

 コーヒーを優雅に飲みに

 来た訳じゃないんだけどな



「あ、あの……聞いてもいいですか?」



 コーヒーに向けられていた視線が

 ゆっくりと私に向けられるだけで、

 私は馬鹿みたいに体が熱くなる



『なに?』



 透き通るような瞳はとても綺麗で、

 わたしは思わず俯いてしまう



「…えっと……あの‥

 どんな仕事をすればいいですか?」



 先輩の側で知らないふりをして

 どこまでやれるのかわからないし、

 割りのいい仕事っていっても

 一体なんなのかが不安だ。



 台所でコーヒー淹れる感じだと

 どう見てもここは先輩の住居みたいだし、

 仕事場という感じじゃなさそう。




『‥‥家事全般』



 えっ!?



『それに買い出しとかおつかいとか色々』



 はっ!?



 ちょっと待って……?



 さらっと何言ってるの!?



 それって簡単に言えば



 ‥‥‥家政婦ってこと!?




『あとは……‥‥‥俺の執筆のアシスタント』




 ドクン



「執筆……ですか?」



 マグカップに

 形のよい唇をつけて

 静かにコーヒーを飲む姿が

 それだけで先輩は絵になる



『‥ああ、聞いてないんだ。

 俺、本書く仕事してるから』



 嘘………先輩が?



 私の記憶が正しくて先輩本人なら

 まだ二十二歳のはず。

 その若さで本を書いてるの?



『一応色々案内するから着いてきて』



 驚いている私なんか関係なく、

 丁寧にマグカップを

 テーブルに置いた彼が立ち上がり

 仕方なく着いていくしかなかった




 まず今いるフロアは

 リビングダイニング、

 キッチン、パントリー

 トイレ、お風呂、

 洗面室などのランドリースペース



 わたしはこの広い家の

 掃除や管理をするらしい。



 今まで住んでた家なら1kで

 掃除も簡単だったのに広すぎる‥



ガチャ



『で、ここが仕事部屋』



「えっ?‥‥うわっ‥‥‥‥すごい‥」



 一階にある唯一の部屋である

 白いドアを開けた先に見えた光景に、

 お兄ちゃんが言っていたことが

 ようやく理解できた



 何畳だろうか‥‥

 軽く十二畳以上はありそう



 かなり広い部屋に置かれた

 広めの木目のデスクは四人は

 座れそうなほどだ。



 驚くほどの

 壁一面の本棚は

 一言で言えば小さな図書館のようだ




「……私、本がとても大好きなんです。」



 本を読むのが大好きだから

 見たことのない本たちに

 気付けば緊張感なく顔が緩んでしまう



 改めて見渡せば

 ここは小さな書庫とも言えるほど

 様々な本が並べられている




『‥‥‥‥知ってるよ』



 えっ?



 消えそうな小さな声で何か先輩が

 言った気がするけど気のせいかもしれない。




『‥ここの本なら好きなだけ読んでいい。

 ただし仕事中はなるべく入らないこと。

 次は二階に行くから』




「あっ‥‥はい。」



 リビングの奥から壁沿いに

 続く真っ白な階段を登れば、

 長い廊下に面した扉が二つ、

 そして突き当たりに扉が一つあった。




『ここが立花さんの部屋だから』



 カチャ



「えっ?…‥…私の‥部屋ですか?」



 家政婦用の休憩室とか?

 ただのバイトだから必要ないのに、

 なんの部屋だろう‥‥



 不思議に思いながらも

 開けてくれた部屋にゆっくり入ったら、

 その光景に目を疑った




「!!ツッッ……えっ……!?

 ちょっと‥待ってください……

 これってどういうことですか!?」




『この部屋は自由に使っていいから。

 隣はトイレとパウダールームで、

 突き当たりは俺の部屋だから』




「いや…‥あ、あの、そうではなくて

 何故ここに私の部屋の荷物が

 あるんですか!?」




 デジャブ?

 とも思える見慣れたこの部屋のアイテムに

 段々顔が青ざめていく



 今日の朝

 大学行く前まで

 アパートにあったわたしの家具が並べられ、

 ダンボールも何箱も置かれたままだ




『住み込みで働く契約って聞いてない?』



えっ?




「……あの‥‥ちょっとすいません」

 




 バタン



 ドアの外にいる先輩には悪いけど

 状況が把握できないし、

 全くわけがわからない




 その時

 着信を知らせるバイブ音に

 ポケットから取り出したスマホを見れば、

 兄からメールが一件届いた。




 件名 連絡事項

 ---------------------------------

 日和の荷物運んどいた。

 一生懸命頑張れよ。


 ---------------------------------



「‥‥‥‥嘘でしょ」



 な‥‥なにそれ。

 冗談じゃない!!



 今すぐ電話をかけて

 文句のひとつでも言わないと

 気がすまない




 ガチャ


 ドクン



『あのさ‥‥‥‥

 櫂さんからこのこと聞いてなかったわけ?』



 えっ?



 振り返ると

 ドアにもたれ軽く腕を組む姿の彼に

 何故だか背を向けてしまう



「‥き‥聞いてません……それどころか

 今…‥凄い混乱してます。」



『もうアパート解約されてるし

 帰る場所はないよ。

 ここに住めばいいから。』



 えっ!?解約!?



 お兄ちゃんほんとやりすぎだよ‥‥



 何かもう色々一気に起こりすぎて

 頭がパニックしてる



 はいそうですかって

 簡単に受け入れられないくらい

 閉まっておいた気持ちは

 簡単なものじゃない



 泣くつもりなんてないのに、

 勝手に溢れてきた涙を見られたくなくて

 慌てて手の甲で拭う




「あ……やだな、何かすいません…

 仕事が嫌とかじゃなくて……その

 突然過ぎて‥ついていけな‥‥ヒック」



 もう最悪だ‥‥‥




 あの日から好きで好きで仕方ない

 思いを胸にしまい、しっかりと

 鍵をかけておいたのに、

 予告もなくそこを開かされてしまい

 不安が溢れて止まらない




『ごめん‥‥

 でも他の人探すつもりないし、

 ここに居てくれないか?』



 ドキン



 いつの間にか

 目の前まで来て座り込んだ彼が

 私の頭を撫でた手に、

 五年前に引き戻されそうな私は

 やっぱり涙を流すしかなかった



 落ち着くまで私の側で

 何も言わずに待ってくれたけど、

 私はその優しさが余計にツラくて

 顔をなかなかあげられなかった。




「すみませ‥…」




『別にいい。驚かせて悪かった。

 それより自己紹介がまだだったな……』




 自己紹介……か




 そんなことするって事は

 私のことやっぱり忘れてるんだね。

 それだけでも心が軽くなる。




 立ち上がった彼に

 部屋を出て着いていけば、

 そこはもう一度訪れた彼の仕事部屋だった






『これ書いてるのが俺』



 そう言って渡されたのは

 一冊の本




「………瀬木 遙?」




『ん、仕事用の名前。

 これからアシスタントするなら

 出版社とかからこの名前宛に

 電話や郵便が来るから

 覚えておいて』




 ……せぎ はるか……



 本当に先輩は作家なんだ‥‥



 北海道に行ってからお金に余裕がなくて、

 なかなか本すら買えなくて

 図書館にある古い本ばかりが

 私の楽しみだった。



 こっちに来てからも、

 お兄ちゃんに迷惑かけたくないし

 自立する為に新しい本は買わずに

 バイトばかりしてたから、

 瀬木さんの本が読めていないことが

 悔やまれる




「M大二年の立花 日和です。」



『ん、櫂さんから聞いてるよ。

 一応だけど俺の本名は‥‥尾田 隼人。

 慣れて欲しいからここでは瀬木の方で。

 俺は……立花でいいか?』



「はい……」



 先輩‥‥



 私ね、先輩の名前知ってるよ




 初めて名前を呼んでもらえた時は

 矢野だったから

 気付かないのは当たり前だよね



 今更だけど、

 両親が離婚してから

 名字が変わってて

 良かったのかもしれない




 瀬木さんは

 引き出しからなにかを取り出すと

 私にそれを渡した




『それ……とりあえず見ておいて。

 俺、少し明日までの仕事あるから悪い。

 家の中自由に見て回ってていいから。』




 リビングに一人で戻った私は

 そのA4サイズの紙を

 固まったまま暫く見ていた




 ‥‥えっ!!?



 何に驚くって

 その契約書には

 お兄ちゃんの承諾サインが既に

 されていたのだ。




 面接する必要ないじゃん!!




 アルバイトだから

 一応こういう最初の面接のやりとりは

 必要かもしれないけど、

 最初からそのつもりだったなんて

 どうかしている




 確かに文芸専攻で、

 卒業した後は出版社や

 編集プロダクションとかに

 入るのは夢だから、

 間近で仕事が見れるのは

 ラッキーなことだと思う




 ただ……

 その最初のきっかけとなる相手が

 先輩とは思わなかったけど‥。




 あの頃は貸出カードに

 尾田 隼人って書かれた名前がある本を

 借りれた時の小さな喜びで満たされていた



 それがこんなに近くで

 過ごす事になってしまったなんて‥




 私もあの時と違って

 今は髪の毛も胸まで伸びたし、

 大学生になってから

 下手なりにお化粧もうっすらして

 面影もないかもしれない




 五年前

 先輩は覚えてないのかもしれないけど、

 転校することが決まった日に

 私が先輩を酷く傷付けたことが

 今でも後悔としてずっとずっと

 ここに残ってる




「‥‥はぁ」



 悩んでても仕方ない‥‥

 働かないと生きていけないのだから。

 やるしかない‥‥




 もう一度一通りゆっくり室内を散策し

 部屋で荷物の整理をし終えると

 夕方五時を過ぎた頃だった。



 今日からここで住まないといけないし

 家政婦がバイトならとりあえず

 晩御飯作らないといけないな。



 立ち上がった私は一階に降り

 キッチンに向かうと

 そこは使った形跡もないくらい綺麗だった



 ん?


 使った形跡がない?

 もしかして……



 ガチャ



 やっぱり思った通り‥‥

 飲み物しか入っていない。



 先輩って普段何食べてるの?



 とりあえず何か買いに行こうかな……

 私もお腹空くし

 瀬木さんも食べる物ないし。



 無防備にもソファに

 置きっぱなしにしていた鞄から、

 財布を取り出して気がついた



「(…………)」


 

 どうしよう‥‥

 悲しいくらいお金が入ってない‥‥



 財布から自然と視線を向けるのは

 あの仕事部屋なわけで情けないけど 

 借りるしかないか‥‥



 あぁ…

 お兄ちゃんの事だから冷蔵庫の中とか

 関係なく処分しちゃったんだろうな。

 作り置きとか冷凍沢山しておいたのに

 勿体無い‥‥



 仕方ない‥‥‥



 静かにドアの前まで行き、

 遠慮がちにノックした



 コンコン



「あ…あの‥‥

 せ、瀬木さん少しいいですか?」



危ない‥‥

先輩って言ってしまいそうになり

思わず口元を押さえてしまう。



『‥なに?』



 ガチャ



 中から聞こえた声に

 遠慮がちにドアを開けて

 顔を少しだけ覗かせた



 あ………眼鏡かけるんだ‥‥

 初めて見る先輩の姿に一瞬戸惑うけど、

 やっぱりどんな表情でも先輩だ‥




「あの…食材何もないので

 買いに行きたいんですけど……

 その給料日前で恥ずかしいんですが

 お金なくて……」



 こんなことを先輩に言うのが

 恥ずかしくて最悪だけど仕方ない。



 本当に給料日前だったし、

 手持ちが殆どないのだから。



 眼鏡をしても尚キレイな瀬木さんは、

 立ち上がり入り口まで来ると

 財布から何枚かお金を取り出して

 無言で差し出してきた



「あの、えっと‥こんなには」



『今月分渡しておく。

 足りなかったら言って』



 両手に収められた

 諭吉を数えればちょうど十枚



 ‥‥この人ここで

 どんな暮らしをしてきたんだろう。

 私ならこれで五ヶ月分の食費に回せる




『あとこれ渡しとく。鍵についてる

 カードキーを入り口にかざせば開くから』




 渡されたのは多分家の鍵で

 この家のってことは分かるんだけど



 フフ‥‥



 笑ってはいけないと思いながらも

 それが無口な彼に似合わず

 笑みがこぼれる



 諭吉を財布に有り難く納めた私は、

 鍵についたリボン付きのベルを

 チリンと鳴らして鍵をかけた



 



「もしもし、お兄ちゃん!?」



 "おぅ、どうだ?"



「‥どうだじゃないよ!!

 相談なくやり過ぎ!!

 追い出すなんて度が過ぎてる!」



 耳元でケラケラと笑う兄に、

 ここが外と言うことも忘れて怒鳴り続けた




 "尾田に会えたか?"



 ドクン



 その名前を聞くだけで

 私の心が勝手に反応してしまう



 これから考えたくなくても

 一緒に住めば毎日顔を会わせることになる



「……不安だよ」



 "アイツは若くして

 才能を発揮したヤツだから

 勉強になるし、やるだけやって来い。

 そして、俺の授業はもう寝るなよ?"



 分かってるし……



 電話を切った後

 今日で何回目になるか分からない

 溜め息がこぼれてしまう




 米すら見当たらなかったあのキッチン。

 近くのスーパーで調味料から

 お米まで買ったから、

 流石に一人で運ぶには大変だった。




 ガチャ



「はぁ‥‥手がちぎれそう」



 近くにスーパーなかったら

 手が死んでたかも。

 大学から割とここは近いから

 この辺の地理は詳しいのが

 まだ助かった




『おかえり』



 ドクン



 リビングのドアが開くと

 眼鏡をかけたままの瀬木さんが

 こちらに歩いて来た



 おかえりって誰かに言われるの

 久しぶりかもしれないから

 口元が綻ぶ



『どうした?』



 いけない……

 つい嬉しくて



「あ‥あの遅くなってすみません。」



『‥これ全部一人で運んできたのか?』



 私の手から軽々とそれを奪うと

 置いてあるもうひとつの袋も

 持たれてしまった



「あ、あの!私やりますから」



 体力ぐらいしか取り柄がないのに、

 雇い主に仕事させてたら意味がない




 瀬木さんを追いかけると、

 キッチンに荷物をおろしてから

 少しムッとした表情を見せると

 私の方へ片手を差し出してきた





 あ……えっと‥

 残りのお金‥渡せばいいのかな?




『スマホ』



「えっ?」



『持ってるでしょ、貸して』



 私のスマホを渡さないと

 引っ込めて貰えそうにないその手に

 断ることも出来ず

 素直に渡すしかなかった。



 ドクン



 綺麗な指先が掌に触れただけなのに

 恥ずかしくなった私はその場を離れたくて

 買ってきた荷物を冷蔵庫に

 しまうことにした




 馬鹿……



 私はただのバイト‥‥‥

 ちゃんと割り切りなさいよ。



 五年前は先輩と後輩で

 今は雇い主とアルバイトじゃないか



 偶然再会したのに

 縮まることのない

 知らないふりをした関係に

 虚しくて泣きそうになる



『はい、これ』



「…えっ?…」



『入れておいたから、俺の番号』



 雇い主なら知っておきたいだけって

 分かってるのに、

 そんなことが馬鹿みたいに嬉しくて、

 この気持ちがバレないように

 胸の前でケータイを握り締めた



『今日みたいな時は必ず呼んで。

 車出すから。』



「…はい、ありがとうございます。」



 どうしよう……

 今顔あげたら絶対赤い

 部屋が薄暗くて少し助かる




『‥あとさ、敬語使わなくていいから』



 ドクン



 私の頭に自然に置かれた手が

 あの時のように

 優しくくしゃりと撫でる



「す、‥少しずつ慣れるようにします。

 あ……夕飯何がいいですか?」



 そんなにすぐには変われない。

 今は雇い主だけど

 私の中ではまだ先輩だから

 



『立花に任せるから何でもいいよ。

 嫌いなものないから。』



ドクン



 そう思いたいのに、

 もう一度頭に軽く触れた手に、

 この人の事がどうしようもなく

 好きという気持ちが溢れそうになる




 ダメ‥‥

 気持ち切り替えてお仕事しなきゃ‥‥



 一人暮らしもしてたし

 かなり節約してたから

 よく料理はしてたけど、

 そんなに多くの料理は作れない。



 バイト先で余ったパンとか

 居酒屋でのまかないや

 余った食材もらいながら

 生活してたから本当に助かっていた。



 バイト代入ったら

 料理本でも買おうかと真剣に考える。



『あ‥‥ごめん、電話』



 目の前のソファに座って

 誰かと電話をする彼の後ろ姿を

 見つめて思う



 遠くから見てるだけでも

 幸せに思えた人が

 今、私の目の前にいる。



 それは本当に信じられないことだ。



 学生の時よりも低い声だけど

 線が細いキレイな手は変わらない




 初めて作った料理は

 本当に簡単なものだったけど、

 なにも文句を言わずに食べてくれて

 かなりホッとした。



『立花もここで食べればいい』



「あ‥‥‥はい」



 瀬木さんと一緒に食べてから

 後片付けをした私は、

 お風呂の準備を慣れない機械と格闘して

 一旦部屋に戻った。




「はぁ……掛け持ちバイトより

 どっと疲れるかも。」



 バイトを掛け持ちしてた最近にしたら

 この時間に家にいられることが不思議で

 変に思えるくらいなのに、

 気が張っているのか疲れ方が今までと違う。



 お母さんにお金のことで甘えたくないし、

 出来るだけ自分でやりたい。

 わがまま言って大学なんて来てるんだから。



 大きな欠伸をすれば

 どっと疲れていた私は

 ベッドの柔らかさに埋もれて

 簡単に意識が飛んだ





「‥‥‥ん」



 夏前のなんともいえない湿度に目が覚め、

 変な体制で寝ていたのか体をコキコキと

 鳴らして伸びをした。



 あ……そうだった‥‥



 見慣れない壁紙に、

 ここは瀬木さんの家ということを

 忘れそうになるけど、

 やっぱり夢じゃないんだよね‥‥



 ん?

 寝惚けた頭でスマホを開けば

 メールが数件届いていた



 彩と、バイト先で仲良くなった

 友達からだ‥‥

 みんな優しいな‥

 突然辞めたのに連絡くれるなんて。

 


 返信をしたあと

 大きな欠伸をまた一つし、

 着替えを持った私は

 お風呂場へ向かった。



 あれ‥‥‥‥

 まだ電気が点いてる‥‥



 リビングに降りた私は

 仕事部屋から漏れる光の方を

 静かに見つめた



 もうすぐ夜中なのに

 まだ仕事してるんだ…‥‥



 アシスタントの

 詳しい仕事内容は分からないけど、

 落ち着いたら瀬木さんの本を

 いつか読んでみたいな‥‥



 お風呂に入った後髪を渇かして

 静かにキッチンへと向かった



「ふぅ……暑い」



 喉が渇いた私は冷蔵庫を開けて

 買ってきておいた

 ミネラルウォーターを取り出した



 カチャ



「あ……」



『起きてたのか』



 黒く縁取られた眼鏡をかけた瀬木さんは、

 やはり仕事をしていたのか

 首を左右に回しながら私の方に来た



「何か飲まれますか?」



『あ、じゃあコーヒー頼む』




 暗がりでも分かる疲労感は、

 見るからに夕食後から休まず

 仕事をしていたのが伝わるので

 せめてコーヒーくらい淹れてあげたかった




 ソファにドサリと音を立てて

 座った瀬木さんに

 キッチンの明かりを付けて

 コーヒーメーカーをセットする




『あのさ……

 立花はどうして本が好きなの?』



 ドクン



 コポコポと音を立ててお湯が沸くと、

 セットしたメーカーで珈琲をおとしていく



 静かで薄暗い空間で緊張が増す中、

 暗闇の中から真っ直ぐこちらを見つめる

 瞳に少し俯く




 先輩‥‥五年前幼かった私に、

 図書室の本棚で初めて会えた時に

 同じ質問したの覚えてる?



「どうぞ…」



 ソファの背もたれに埋もれて

 眠いのか瞳を閉じていた瀬木さんが

 ゆっくりと目を開ける




「‥私‥…小さい時から本を読む環境があり、

 それからずっと好きなんです。

 書いた人の伝えたいことが

 こうだってわかったときに、

 その世界には行けないけど、そこで

 生きているキャストになれるんです。

 人見知りだったけど、本の世界の

 中では違う自分になれるって‥‥」




『…俺も同じだよ。』



 ドクン



 綺麗な瞳が少しだけ私を捉えると

 少しだけ笑った気がして顔が熱くなる。



 先輩‥‥

 先輩がそう言ってたから益々

 読むのが好きになったんだよ‥。




「おやすみなさい……」



 頭を下げてから

 キッチンの電気を消した私は

 二階へ続く階段へ歩き始めた




『立花‥おやすみ』




 たった一言聞こえただけなのに

 ひとつひとつが胸を締め付ける



 五年前は大好きで

 一番遠くからでもいいからと

 眺めていた素敵な先輩の存在



 自分から傷付けて離れたのに、

 こんな風にまた話したり、

 目の前で食事をする姿を見たり、

 同じ空間で生活までしている。



 本当にこんな日が

 突然やってくるなんて

 思っても見なかった‥‥‥



 でも

 私はここに仕事をしに来た。

 家賃も払わなくていいという

 誓約書にサインもされてしまった今、



 ここで

 瀬木さんの身の回りのことや

 サポートを全てやるんだ。




 それが私のやるべきこと。



 そうすることで、

 あの時のことを少しでも償いたい‥‥



 例え今後好きという気持ちが溢れても、

 私からは何も変えてはいけないって

 分かってる‥‥



 分かってはいるけれど

 今だけは彼を想って泣いてもいいですか?



 忘れたくても

 忘れられなかった人との再会が、

 今になって奇跡のように感じて

 私は声を殺して泣いた




 もう明日からは

 瀬木さんのアシスタント兼家政婦だ‥



 揺れそうだった心にしっかりと

 鍵をかけ直して、私は眠りについた。



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 瀬木 遥 side



『‥‥おやすみか‥』



 先月書いていた作品の内容に行き詰まって、

 和木に紹介された友達の立花 櫂さんに、

 仕事の合間に連絡をして会いに行った。


 

 その大学に話を聞きにいった帰りに

 偶然に再会したのが矢野 日和だった。



 教授室から出て来たときは、

 一瞬見間違えかと思ったけれど、

 あの後すぐに彼女のことを

 櫂さんに電話して聞いたら、

 両親が離婚して今は苗字が違うけど、

 やっぱりあの矢野だった。



 櫂さんの妹とは驚きだったけど、

 俺の中で、五年前の事は未だに続いてて、

 いつか会えると信じて今日まで

 過ごして来たようなものだ。



 矢野‥‥‥‥

 ずっと会いたかったと

 伝えていいのか‥‥



 君が自分から言うまでは、せめて

 知らないふりをしてあげたい‥‥



 瀬木 遥 side


 end

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