偶像

大塚

第1話

 週末金曜日19時半に初日を迎える舞台の主演が飛んだ。本日は水曜日。私たちスタッフは公演会場である劇場に乗り込み、本番に向けてステージを組み立ているところだった。これを仕込しこみという。主演が飛んだ、という情報を持って現れたのは彼女のマネージャーだ。飛んだ、というのは高いところから飛び降りたという意味ではない。逐電ちくでんしたのだ。逃げたのだ。仕込みに参加していた各部署のスタッフ、それに演出家、さらにはマネージャー本人も茫然とする中、私だけが平然としていた。知っていたからだ。


 私はこの座組の中で、というポジションを勤めている。読んで字の如く、演出家の助手という立ち位置だ。だが実際には演出家を含むすべての人間の手伝いをする何でも屋で、たとえば今日の仕込みのための荷物を運ぶための赤帽の手配とか、打ち上げで使う飲み屋探しとか、本当になんでもやる。


 で、私は知っていたのだ。今回の演目の主演である彼女の悪評が、大手SNSを中心に拡散しているということを。


 彼女はアイドルだ。グループに所属している。活動を開始して10年は経つと言っていた。ドラマや映画に出演した経験はあるが、舞台は初めて。私の上司であり相棒でもある演出家は、国民的アイドルグループの末っ子として人気を博す彼女の初舞台の演出を任されたということに終始興奮しっ放しだった。たぶん今日も「飛びました……」と真っ青になったマネージャーから報告を受けるまでは興奮していたと思う。共演の俳優たちや顔馴染みのスタッフも皆嬉しそうだったが、私は正直それどころではなかった。彼女の人使いの荒さは異常だった。私は『演出助手』だというのに、稽古場に入ると途端に彼女の奴隷になった。演出家も、音響・照明スタッフも、共演者も、誰も止めに入らなかった。舞台監督だけが「やりすぎじゃねえ?」と苦言を呈していたが、アイドルには届かなかった。彼女は女王様だ。各メディアに出演している時の「無邪気で可愛い末っ子」というパブリックイメージはあくまでイメージに過ぎない。彼女にコーヒーを出す、味が気に食わないと怒られる。淹れ直す。次は温度について叱責される。衣装合わせ。私の目付きが刺々しいとヒステリーを起こす。顔を逸らす。あのスタッフは自分を軽んじていると泣き出す。台詞。彼女は芝居がうまくない。台詞を覚えない。そもそも台本を読んでいないかもしれない。映像撮影の現場には行ったことがないのでなんともいえないが、ドラマや映画に出演している時にはいったいどう対処していたのだろう。大昔の大御所俳優がそうしていたように、カメラの向こうに大きな紙を持ったマネージャーを立たせ、そこに書かれた台詞を読み上げていたのだろうか──とはいえ大御所俳優のそのエピソードは所詮噂にすぎないし、書かれた文字を読み上げているだけだとしても演技は素晴らしかった。彼女の演技は、良くない。そこでまた私の出番だ。、といえば分かってもらえるだろうか。私の仕事のうちのひとつだ。稽古中に彼女の演技が止まった瞬間、小声で続きの台詞を教える。その繰り返し。だが彼女はプロンプとしての私のことをも嫌っていた。声がボソボソしていて分かりにくい。あんな教え方じゃ意味がない。云々。

 それでも私たちは稽古を続けた。演出家にとっては初めての大きな仕事だった。今まで私と演出家は客が100人も入ればいっぱいになってしまう、小さめの劇場での舞台公演を繰り返していた。だが今回は、キャパ600人以上の文字通りの大舞台での仕事となる。たとえ主演の性格が悪かろうが、台詞を覚えなかろうが、演出助手との相性が最悪だろうが──駆け抜けるしかなかった。チケットも完売していた。彼女はアイドルとして本当に人気があった。


 しかし、飛んだ。マネージャーを含むアイドルとしての彼女の関係者が総出で探し回っているそうなのだが、自宅マンションにはもちろん、水面下で熱愛が噂されている若手男性俳優の家にも、関西圏の実家にも、その姿はないのだという。


「まずいな……本当に……」


 演出家が、私の肩越しに私のスマホを覗き込みながら呻く。飛んだら。。それだけの情報が、いまSNSの中をものすごい勢いで流れている。


 某月某日初舞台に立つアイドルAは、10年前に同級生をいじめ殺している。


「いやぁ死なないんじゃない? 人を死なせた直後にアイドルデビューして10年元気に活動してたあの子が、今更こんなバッシングでこの世から逃げ出すとは思えないけどなぁ」


 。そう。


 稽古初日から幽霊はいた。私は別に、いわゆる見える人というわけではないのだが、主演の所属事務所のコネで使用許可が出たばかでかい稽古場に足を踏み入れた瞬間、壁一面に貼られた鏡にうつる人間がひとり多いことに気付いたのだ。生きてない人間だとなぜだかすぐに分かった。ひとり多い彼女は黒い喪服のようなワンピースを着用していたが、スリットが深く入っているため白く艶かしい脚が剥き出しになり、なんなら胸元も大きく広げていた。巨乳だった。年頃はアイドルと同じぐらいだろうか。幽霊の彼女のことが見えているのはどうやら私だけで、先方もすぐにそれに気付いたのだろう、何かと話しかけてくるようになった。アイドルからの罵倒や八つ当たりをしれっと受け流せたのも幽霊の彼女のお陰だ。「変わんないね」「相変わらずの女王陛下だね」「二面性、二面性」「この子にお金積んでるオタクかわいそ」「ねえ演助えんじょちゃん、あなたは死んじゃだめよー」。演助というのは演出助手の略称である。

 脚が綺麗で胸の大きな幽霊氏は、10年前、まだアイドルではなかったアイドルの彼女と同じ中学に通っていたのだという。


「それで、卒業式のちょっと前だったかなぁ。あ、私のこといじめてたやつはあの子以外にも何人かいたんだけど、そいつらにロッカーに閉じ込められて」


 休憩時間ともなると、幽霊氏は軽快な口調で昔話を始めた。


「でまあ私も子どもだったから、何も悪いことしてないのに泣いて謝って……なんでもするからって……」

「なんでも」

「そうそしたらあの子、『校舎の屋上から飛び降りたら許してあげる』って。それつまり死ねってことじゃないねえ」


 そうして幽霊氏は死んでしまった。


「ずっと取り憑いてるんですか?」

「ううん。なんか、この舞台の稽古が始まったら急に

「生まれた……」


 そういうこともあるのだろうか。私は幽霊に明るくない。ただ、幽霊氏が現れるようになった頃から、SNSにはアイドルの悪い噂が流れるようになっていた。もちろんいじめの話題が中心だ。中学の頃の同級生をいじめ殺した女の初舞台。腐った卵を持って初日に行くという意見や、稽古場を特定して待ち伏せするという者もいた。アイドルのことはマネージャーがクルマで送り迎えしているから何の意味もないのだけど。それに、彼女はSNSの噂を否定していた。「そんなことするわけない、ひどい」と稽古場で涙さえ見せた。こういう時だけ演技派だ。


 だが飛んだ。さてどうする。


鹿野かの、何ぼんやりしてんだ。ミーティングミーティング」


 演出家が私を呼ぶ。音響、照明それぞれの主任スタッフと、制作と舞台監督を兼業している男性、それにアイドルのマネージャーが中途半端に完成した舞台を前に難しい顔を突き合わせている。この話し合いに私が参加する意味ってないと思うんだけど。だって助手だし。アイドルには嫌われてたし。


「失踪……の件は、一旦伏せて」

「伏せてどうにかなりますか。遠方から来る客もいるんですよ。早めに事実を明らかにして払い戻しなどの処置を取るべきだ」


 演出家の言葉を舞台監督が一蹴する。もにょもにょとくちびるを動かした演出家が私の方をちらりと見る。そんな顔されてもな。


「払い戻ししたら大変なお金が動くねー。でも、あの子のアイドル生命もここで終わりになるね?」


 幽霊氏が笑っている。幽霊氏は、SNSの噂話には一切関与していないと言っていた。ただ、


が死んで10年経って、家族が……両親と兄がいるんだけど、その兄がなんかいい感じの弁護士と知り合ったらしいんだよね。で10年前のことだけど、ちょっと調べたりできないかってなんか動いてるみたい、っていうのは聞いた」

「いつ聞いたんですか?」

「えー知らなーい。だって私この作品の稽古場で生まれた幽霊だもん。気付いたら聞こえてたんだもん」

「はあ……」


 弁護士には守秘義務がある。いじめ殺された娘の遺族がわざわざSNSに書き込みをするとも思えない。だとしたら調査の過程で接触した以前の同級生だとか、関係者が面白がって噂を流した可能性が高いだろう。やれやれだ。


「鹿野を」


 演出家の声がした。


「鹿野を代打にするんじゃだめかな」


 だめだろ。

 何言ってるんだ。


「鹿野くんを? ……いやでも彼女演出助手……」

「だから! 台詞も全部入ってるし、なんなら演技だって……うまい……」


 演出家の意見に舞台監督が大きく顔を顰める。確かに台詞は全部覚えている。だけど演技に関しては、どうだろう。私は演劇は好きだが演技をしたくないという気持ちで演出助手という仕事を極めようとしているのだが。


「鹿野、どうかな。だめかな。俺、この舞台成功させたいんだよ」


 無理です、と言おうとした私の耳元で、幽霊氏が囁いた。


「いいじゃんいいじゃん、奪っちゃいなよあの子の居場所」


 何を勝手なことを言うんだ、と思って顔を俯ける。視線の先には白い脚。べっとりと血に濡れている。

 校舎の屋上から飛び降りた時に流れた血だろうか。

 痛かったですか。

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