引っかかりと非論理
和琴 競
引っかかりと非論理
ヒロカちゃんの涙は世界一きたない。
キラキラの、まんまるおめめをしてるのに、涙は真っ黒。
一回泣いちゃうと、ふっくらほっぺたに、お醤油垂らしたみたいになるの。
なんでかなあ?
お医者さんにも、わかんないんだって。しょーに科のセンセも、ひふ科のセンセも、がん科のセンセも、みーんな。「見た目が悪いだけで、それ以外の症状は無いのなら、放っておいてもいいでしょう。一応、学会で検証させてください」とか言って、ヒロカちゃんが泣いてるお写真撮って、お醤油涙をスポイトで吸ったら、おしまい。治してくれないどころか、心配もしてくれないんだって。……まあ、ちょっとだけ安心だよね。こどもの病気でも、ひふの病気でも、がんでもないってことだから。
ただ、痛いとこなくても、汚いのは変わんない。
ヒロカちゃんが泣くとね、おとなの人はひどいんだよ。逃げたり、怒鳴ったりするの。
クラスの男の子も、ひどいの。「むらさきババア!」とか、「オマエみたいの醤油顔って言うんだろ!」とかいじめるんだよ。
女の子たちも、「顔だけ黒くない? 日焼け止め忘れた?」とかクスクスしてる。
ひどい人ばっかり!
ヒロカちゃんはかわいくて、優しくて、なんにも悪いことしてないのに!
だからあたしが守ってあげるの。
汚くても大好きだから。
一生泣かないくらい、ヒロカちゃんを幸せにする!
……と、ずっと昔のあたしが、スマホの中で宣言していた。
「どう? かわいいでしょ」
お母さんはそう言って、自分のスマホを手許にもどす。
「オンラインストレージ漁ってたら、見つけちゃって。眼科のことを、ガンの専門医だと勘違いしてるところなんて、最高!」
言いながら思い出したみたいで、お母さんは愉快そうににやける。
でもあたしは、あんまりいい気はしなかった。
「消してよ、その動画。恥ずかしいから」
「いいじゃない、思い出だもの」
あたしの抗議なんか取りあわないで、お母さんは別の動画を漁り出す。
正直、けっこうムっとした。いくら小さいときだからって、過去の失敗を掘り返されるのは嫌だ。その証拠を残しておくのも、プライバシーの侵害だと思う。
――けど。
批判は後回しにした。
それ以上に強い違和感に、気づいちゃったから。
「お母さん。さっきの動画、いつの?」
「えっ?」
お母さんはきょとんとした声をあげてから、バックスクロールする。
「んー……九年前の五月。小学校入学してすぐじゃない?」
「入学して、すぐ……」
思わず繰り返した。
小一の春ってことは、ヒロカと出会ってすぐってことだ。
考えを整理したくなって、あたしは自分の部屋に戻ることにする。
「ちょっと、ヒカリー?」とお母さんが声をかけてきたけど、無視。
っていうか、自分でもわかんないから、なにも答えられない。
「なんだろ、この引っかかり」
部屋にある勉強机の椅子に、どかっと座る。腕を組んで考える。
ヒロカの涙が黒いこと? ううん、それは相変わらず。分析の進展もないけど、色以外の異常もないって聞いてる。
周囲の人の反応……でもない。道徳観はさておき、九年前と今とで大差ない。男子が面と向かってヤジを飛ばすことは減ったぶん、大人たちと同じ反応をされることが増えたくらい。
と、そこまで考えてようやく、違和感の正体に気付いた。
「ヒロカを守ろうとか、いつのまに考えなくなってたんだろう」
あたしとヒロカは、小学校で出会ってからずっと、一番の仲良しでいる。この春、めでたく同じ高校に受かったから、これから三年間も一緒。
大親友といえば大親友。
それ以上といえば、それ以上かも。
たとえば、他の友達とあたしの歯ブラシを交換するってなったら、気持ち悪いから嫌。でも、ヒロカとだったら、まあ気にしない。
たとえば、他の友達に彼氏ができたら、羨ましいなって思うけど、それだけ。でもヒロカに彼氏ができたら、その男にグーパンする。絶対する。
それにヒロカはかわいい。見た目は最近キレイに寄ってきたけど、それでもかわいい。白目はわりとくすんでるけど、瞳も黒いから、いつでもカラコンつけてるみたいに目が大きく見える。もしかして瞳孔開いてんじゃないのって思う日まである。ほっそりした眉と赤みの少ない頬のせいもあって、死に寄ってるみたいにキレイ。
あと優しい。中学生くらいからちょっと悪いこともしだしたけど、人を傷つけるようなことはしない。幸せになってほしいと思うし、そのためにあたしができることあるなら、なんであっても、やぶさかじゃない。おまけに汚くても大好き。
要するに、あの九年前の宣言は、今でもほとんどおんなじだ。
ただし。
一点、「あたしがヒロカを守る」という部分だけ、マジでない。ありえない。
ありえない……のに、小一のあたしは逆のことを言い張っていた。
なんでだろう?
単に、あたしが幼かったからなのか。
それとも、あたしが気づかなかっただけで、いつのまにか何かが変わっていた?
「…………わからん」
気にはなったけど、大したことでもないから。
あたしは疑問を頭の隅にしまって、ベッドに身体を投げる。
ちょうどそのとき、ヒロカからアプリ通話がかかってきた。
同じクラスの子がハマっていたネトフリのドラマを観よう、というので、通話したまま、おのおの同時に観ることにする。
これが面白くて、零時過ぎまでぶっ通しで観ちゃう。
そんなわけで、頭にしまいこんだ疑問は、なあなあになった。明日へ持ち越し決定。
翌朝。
あたしは駅前で、ヒロカが来るのを待っていた。
頭がすこしぼーっとする。ゆうべは、ドラマの興奮の余韻が続いて、なかなか寝つけなかった。まあこれくらい、いつものこと。
ヒロカが来たのは、あたしより二、三分後のことだった。いつものように不織布のマスクをつけて、早足でズンズン来る。
あたしのほうに一直線。
声が聞こえるところまで来てもまだ踏みこんでくる。
マスクから漏れた息がかかりそうなところまで迫る。
ちょっとだけ背伸びして、あたしと目線を合わせる。
白目と黒目があいまいになった大きな瞳が詰め寄る。
どこからか出した下敷きを、喉元に突きつけてくる。
そして。
「おまえには、やらせない――」
ヒロカは気迫をこめて、そう言った。
あたしは、真顔でうなずく。
「あのシーンまじ最の高」
「それ」
ヒロカは満足そうに、額で額に触れてきた。
この女は、あまり感情を顔に出さない。だから同級生からは、クールなものとして扱われがち。
でも本当は、見たもの聞いたものにすぐ影響されるところがある。面白いドラマを見たあとなんかは、今みたいに、ハイライト丸パクリの絡みをしてくる。
こんな姿を見せてくるのは、たぶん家族とあたしにだけ。かわいいやつだ。
ただ、言い換えれば、かわいい部分もあるけど基本は仏頂面、ということでもある。
小動物的、とか、庇護欲をそそられる、とか、そういう特徴とヒロカは縁がない。いわゆる「守りたい、この笑顔」みたいな感じもしない。ヒロカの笑いかたはもっと静かだ。例えるなら、モナリザの笑顔に対して「守りたい」とはあんまり思わない……みたいな。
ほんと、ヒロカを守ってあげる、なんて、どの口が言ったんだろう?
あの宣言はしょせん、子どもの戯言だったのかな。
駅前寸劇を終わらせたあと、電車内で改めてドラマの話をする。主演よりライバル役のほうが顔がいいとか、主題歌の使い方神とか、シーズン2はよとか、なんでもない話題が続く。
学校の最寄り駅まであと二分というところで、ふと会話が途切れる。
同時にあたしの口から、あくびが漏れた。とっさに口をおさえる。
「くぁ……」
あくびが伝染ったのか、ヒロカが情けない声を出す。
あたしと違って、手で目を隠す。口はマスクで覆われているぶん、黒い涙が見えないことに注意している。その仕草は手慣れたもので、ヒロカをじっと見ていても、目から醤油みたいな汁が出ていることなんてまったくわからない。
そのとき不意に、昨夜の疑問が口をついた。
「ヒロカって、誰かに守られたいとか思う?」
「ふぁにそれ」ふにゃふにゃと答える。
「や、なんとなく」
「オールマイトとかなら」
「あたしからは?」
そう言うとヒロカは、いつもと変わらない――けど少しだけ退屈そうな――大きな目で、あたしをじっと見た。
「逆だったらどう、それ」
え、というあたしの声に、ブレーキ音が重なる。
電車が止まる。扉が開く。あたしは出遅れた。乗客の降車に流される。
この疑問は、曖昧にしておいたほうがいいのかなあ、という気がしてくる。
どのみち些細な問題なんだ。あたしが違和感持っていて、ヒロカが乗り気じゃないのなら、詰める価値はない。
改札を出たところで待っていたヒロカの、退屈さが拭われた顔を見て、そういうことにした。
それから学校までの数分は、とりとめもない話をしてた。
けれど学校に着いてしまえば、あたしたちにも歳相応の社会性ってものが求められる。
まだ入学して数日だから、特にそう。ヒロカを気味悪がる昔馴染みもほとんどいないぶん、高校デビューに乗っかって交友関係を広げる、またとないチャンスだ。
いくらあたしだって、四六時中ヒロカとふたりきりでいるつもりはない。あたしはそんな重い女になる予定はない。ヒロカのほうも、そういうのは求めてない。たぶん。
万が一求められたら……、それはそのとき考えるけど。
どのみち、スクールカースト前哨戦で手を抜くリスクは、あまりに高い。手を抜いて得られるリターンはほとんどない。
そんなこんなで、教室に着いたらヒロカとは互いに一定の距離をおく、というのが暗黙のルールになっている。
始業前は互いに別の子と話す。授業の合間もそう。
今のところは、クラス全体のグループ分けが完成してないから、昼休みだけ一緒に食べる流れになってる。けどそれも、ゴールデンウィークが終わったときどうなってるか、わかんない。
放課後はどうせいっしょに管を巻くんだから、日中に別行動するくらいでちょうどいい。
そんなわけで、体育の選択科目も別々だった。
あたしがバレーで、ヒロカはバスケ。
体育館の隣どうしを使う競技ではあるけど、お互い声をかけることもない。
……はずだった。
この日、事故が起きる。
四時限目、二クラス合同での体育。
屋外競技のほうが人気なので、体育館の中にいるのは教師ひとりと生徒が二十人くらい。
バスケとバレーそれぞれのスペースは、天井から垂らされた大きなネットで仕切られている。
授業開始から十五分か二十分経って、人によってはちょっとボルテージが上がりだしたころ。
はじめにヒロカが、派手にくしゃみをした。
それ自体はなにも不思議じゃない。時期的に花粉がよく飛んでいるから、男女問わずあちこちでくしゃみが起きていた。
それでもあたしは、ちょっと冷やかすつもりで、ネット越しにヒロカのほうを見る。
ヒロカは両手で顔全体を覆っていた。そうしないと黒い涙が見えてしまうから。科目が科目なだけに、マスクはしていなかった。
そのとき。
味方のパスボールがノーバウンドで、ヒロカの腹部に直撃した。
うずくまるヒロカ。
顔全体を覆っていたのが災いして、気構えすらできていなかったに違いない。
「大丈夫!?」と、バスケの女子たちがヒロカへと足を向ける。ほかの生徒も、バレーの子でさえ、ヒロカのほうに目を向けている。
――ヤバい。
あたしはヒロカがいま受けているダメージよりも、その後のことを悟って戦慄した。
このままじゃ、この場にいる全員に、黒い涙を見られる。
それに気づいたとき。
あたしはいつのまにか、ネットのほうへと駆けていた。
「っし、ショートコント、やります!」
自分でも意味がわからないまま、大声を出していた。
体育館にいる全員がこっちに目を移す。
「えっと……江戸……時代にタイムスリップした、野田クリスタル!」
誰からも反応がない。
自分の顔が真っ赤になっているのが、鏡がなくてもわかる。
けれどここで止めるわけにもいかない。
言いだしておいて途中でやめるのは、やりきってスベるより恥ずかしい。
「……大名行列を……横切りたいよ〜!」
「きみ、授業中だよ」
見かねたらしい体育教師が、良く通る声で言った。
「鐘が鳴ってからにしなさい」
「はい。すみません」
……正直、助かった。ネタの中身なんか一切考えてなかった。
わざとらしく肩を落としつつ、周囲の様子を見る。
生徒のほぼ全員が、あたしか先生を見て戸惑っている。ひとりだけ、笑いのツボの浅そうな子が、下唇を噛みながら露骨に笑いをこらえている。
「そっちのきみ、大丈夫?」と、体育教師がヒロカに言う。
はい、とヒロカは答えた。とっくに涙を拭きおえている。そう答えるあいだも、体育教師ではなく、あたしのほうをじっと見ている。
視線の意図は読み取れない。
ただ、自分がした行為の意味だけは、はっきりとわかった。
――なんだかんだあたし、ヒロカのこと守っちゃった。
それから、ヒロカに大事はなかったということで授業は再開。
規定時間の五分前に、着替えの時間を加味して体育は終了。
「ちょっと、来て……!」
それと同時に、ヒロカはあたしを体育館の外へと引っ張りだした。
あたしはただ、されるがままになる。
誰もこっちを気にする様子はなかった。あんな大立ち回りの後だからかもしれない。
校舎へつながる渡り廊下から目一杯遠い廊下の隅まで来ると、ヒロカは珍しく慌てた様子を見せた。
「何してんの!?」
「や、あたしにもわかんないや」
「ふざけないで」
「ホントだって。気づいたら身体が動いてた」
嘘も隠し事もない。ヒロカの黒い涙を見られたらいけないと思っていたら、自然と、存在する芸人の存在しないモノマネを披露していた。そうとしか言いようがない。
「あれじゃヒカリのほうが、変な人だよ。孤立したいの? 三年間ずっと」
「そんなことないけどさ」
ちょっとムカついてきた。
身体張ったのに、なんで責められなきゃならないの?
「いいじゃん。結果的に、ヒロカの涙は見られずに――」
「私はそんなに頼りない!?」
予想外の大声に、あたしはひるんだ。
ヒロカは、黒い涙をにじませている。
「わかってるよ。ヒカリがああしてくれなかったら、私は涙を見られてた。でも元はといえば、私のせいじゃん。私がちゃんと花粉対策してれば、何も起きなかった。してなかったせいで、ヒカリがバカを見るのは、やだよ! 私の責任なのに!」
あたしは、うん、としか言えない。
「昔は、この涙のせいで皆にいじめられた。ヒカリだけが私と仲良くしてくれた。助けてもくれた。嬉しかったよ。けど……ヒカリが好きになるほど、負担になりたくないとも思った」
ヒロカは涙をぬぐう。
「対等でいたい。私のためにヒカリが犠牲になるのは、つらい」
「……そうだったんだ」
あたしはつい、頭をかく。
身体を張ったから褒められたい、というのは、独り善がりなヒロイズムだったのかもしれない。
「あたしさ、ヒロカのためならなんでもできる。それってどんなときでも良いことだと思いこんでた。けど……そうでもないね」
「うん。ヒカリ自身を大事にしなきゃ、やだよ」
ヒロカがあたしの頭を撫でてくる。「汗がつくよ」と言っても構わず撫で続けるので、対抗するつもりでその手をとって、指を絡める。そのときちょうどチャイムが鳴ったのが、なんだかおかしくて、ふたりで軽く笑う。
ふと、ヒロカを守りたいと思わなくなっていた理由が、わかった気がした。
小さいころから、この子を守りたいという欲求があった。でも、ヒロカがあたしを大事に思っているのを感じだしてから、その欲求は徐々に萎んでいったんだと思う。
「着替えなきゃ」言ってから、繋いだまま手を下ろす。
「どうすればヒカリが挽回できるかも、考えなきゃ」
「あれだけやらかしたんだから、もう無理でしょ」
「ダメ。大名行列を横切るネタ、ちゃんと作ったらどうかな」
「それかあ?」
本気かどうかもわからない、ヒロカの企画を聞きながら。
あたしたちは手を繋いだまま、更衣室へと向かった。
ちなみに。
教室に戻ったら、「野田クリスタルの本名はヒカルだから、狙ってる感じして面白かった」と言うお笑いファンの子と仲良くなったり。
男子にイジられたので、ヒロカが考案したネタを披露したら、ややウケしたり。
なんだかんだで丸く収まった……のは、別の話。
引っかかりと非論理 和琴 競 @awsomesalebin
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