27
急いで部屋を出ていく安川を見たのか、柿崎に呼び付けられた。
「谷原くん、報告書大丈夫なのか?」
「はい、後は自分だけです」
「そうか、必ず今日中に回してくれよ」
焦るような声で懇願された。
相当局長に言われているのであろう、板挟みになっていることは同情した。しかし、アサヒカリの背景を知っているため許可は出したくない。苦悩が伝わったのか、慰めるように柿崎は言う。
「よほどの問題があっても大丈夫だ、多少のことだったら何とかなる」
上司は何か勘違いをしているようだ。
不祥事があった際の責任でも心配しているのだと思うが、その類ではない。いや、あながち間違いでもなく、よほどの問題がこの案件には存在する。それは自分が目を瞑れば、何事もなかったように通り過ぎていくだけだ。
心が揺らいでいる。一旦承認して、日置と共に原因を調べるのが最良の策ではないか。自然と口から「分かりました」という台詞が漏れていた。鷹揚に微笑む柿崎へ一礼してデスクに戻る。
上司は安心してニュース記事を見始めたのか、残業中の職員に話しかける。
「また子供が溺れたらしいよ、世も末だねえ」
背後から聞こえてきたその言葉に、どくりと心臓が波打ち思わず立ち止まった。
沙耶には水場へ近づかないよう言っているので、娘の話ではないはずだ、そう分かっているのに動悸が止まらない。この恐怖は同じようなニュースが流れる度に続く、だがその時自分に動揺する資格はあるのか。
屋敷にいた小春ちゃんを思い出した。全身から血を流し、死しても苦しみから逃れられない。心がかきむしられるような痛みを覚えた。
無我夢中で報告書を作成して、メールに添付して柿崎へと送った。本来なら送った旨を口頭で報告するのが望ましいが、それをせず荷物を手に取る。パソコンの電源を落とすと、上司に見つからないよう脱兎のごとく職場を飛び出した。
「やった、やっちまった」
階段を駆け下りながら、思わず声が漏れる。深く考えると後悔しそうで、わざと頭の中をぐちゃぐちゃにする。今日のご飯は何だ、今帰ったら何時に着く、そこまで考え思い出した。
日置との約束を忘れていた。危うく自宅に帰りかけていた足を切り替える。向かう先は、以前も訪れた喫茶店だ。電車に飛び乗ると数駅離れた駅で下車して、足早にあの店に向かう。
扉を開けると、カラン、と入店を告げる鐘が鳴った。昭和の香りが漂う店内、精神科の帰りに日置と寄った喫茶店。少し息を切らしながら店内を見渡すと、窓際に座る女性が手を挙げているのに気付いた。
「ごめん、お待たせ」
「いえ、大丈夫です」
おそらく嘘だろう。空になったカップが日置の前に置かれていた。申し訳なく思いつつ、店員にコーヒーとホットサンドを注文する。怒っているかな、とちらりと彼女を盗み見ると、無表情というよりも能面に近い顔だった。
「谷原さん、早速なのですが」
「う、うん?」
心なしか声が低いように思える。そう言えば、安川と報告書のドタバタで日置に連絡を入れていなかった。
彼女は咳払いをして続ける。
「下山の時に渡されたっていう……」
「ああ、あれね」
ポケットから鈴木に譲られた木仏を取り出した。艶々と滑らかで、穏やかな微笑みをたたえている。それを日置に手渡すと、真贋を鑑定する専門家のように上下左右から観察し始めた。
「どこかの御神木とかそういった類のものですかね、一旦預からせて下さい。それと、これを持ってから体調が悪くなるとかはないですか?」
まだ鈴木の事を疑っているようで、一瞬木仏から視線を外してこちらを見る。
慌てて首を振るが、そう言われると呪いの道具に見えないこともない。彼の行動は一貫して誠実そのものだったが、いささか行き過ぎた親切にも感じる。社でのお祓いや鍾乳洞で引き戻してくれたことまでは、何とか分かる。だが、この木仏は明らかに大切なもののはずだ。もしこれがお守りの類であればの話だが……。
「谷原さんと別れた後に調べたことで、何点か報告があります。まずこれを」
日置はそう切り出すと、例のごとく写真を見せてくれた。
「旧田牧家にあった小さな神社です」
「……綺麗になってるね」
あまりの違いに、声が漏れた。
点々と苔むした屋根は、元の綺麗な板葺きに。砂利の間から顔を出していた雑草も全て摘み取られている。あまつさえ、祠には花まで添えてあった。
「田牧町長の母親が手入れしていました。認知症を患っていたようで、施設の方が迎えに来られるまで付き添って、色々お話を聞きました」
車の中での田牧との会話を思い出した。
親切な女性が介抱してくれて何とかなりました、と言っていた。
「それで?」
「……ここは麻生山におられる神様を祀っている。ってそうおっしゃってました」
あり得ない話だ。そもそも、田牧家は山頂の社の建立には携わっていないはずではなかったか。
「何か変だな、町長のお母さんは認知症が進んでたんじゃないかな?」
「施設の方によると軽度の認知症のようでした。軽い場合は近い記憶から失われていくので、幼少期だったり昔の話を覚えていることが多いそうなんです」
「例え記憶が合っていたとしても、辻褄の方が合わない」
それに、『旧田牧家の神社』に関する違和感はこれだけではなかった。
あの狛犬。目が空洞となっていたが、今思えばあれはわざとではないか。普通に考えれば、狛犬は模様の一部として目を掘られるはずであり、時間経過であの部分ががらんどうになる訳がない。
もしかしたら、『盲目』を表す意図で作られた可能性もある。この仮説は核心に近い、根拠はないがそう思った。
「それに——」
日置が何かを言いかけた時に、注文していたホットサンドとコーヒーが届いた。熱々のチーズが良い香りを放ちながら、皿の上でとろりと溶ける。そちらに意識を奪われながら、彼女に聞き返す。
「それに?」
「……いえ、これは関係ないことなので大丈夫です」
言いにくそうに頭を振る。
珍しく歯切れの悪い返事である。
つい聞き返したくなったが、機先を制すように日置は再度口を開いた。
「——それよりも、解決済みだとは聞いていますが、例の犬の件の裏をとってきました。鈴木さんの言っていた一昨年に捧げられた犬です」
「例の盲目犬か」
ちょうど聞きたかった情報に、心の中で躍り上がる。
「恐らくこのわんちゃんだと思います。思ったより可愛いですね」
新しく開かれた写真には、小さなマルチーズがぺろりと舌を出していた。
飼主のアルバムを直接撮影したようで、表面が一部反射している。よく見ると、毛並みが少しくたびれて、目は白く濁っていた、かなり老犬のようだ。
「寝ている時に足元に潜り込むのが好きな子らしくて、飼い主さんは懐かしんでいました」
……この犬は違う。
あれは、もっと大きく堂々としていた。唯一同じなのは、目が白濁しているところくらいだ。そう、あの犬は盲目だった。
疑問が確信に変わっていく。
あの犬は、かのしではなかったのだ。
もっと神聖なもの、恐らく本来の麻生山の主。
そう考えれば、町長母の言動と辻褄が合う。
何かが繋がりかけているが、重要な欠片が足りないように感じた。
やはり、一番の鍵は例の修験者だろう。
「あとこれで最後なんですが、私達が宿泊した旅館についてです」
日置の声に力が入った。
「あそこで谷原さんが落雷を目撃しているので、同じ人がいると思ったんです。旅館側には捜査の一環と伝えて、宿泊履歴からその後を追いました」
「確かに言われてみればそうだ」
「以前話題になった就寝中に失踪した女性のニュースありましたよね? 知っていますか?」
一番最初に朝比町へ行く特急列車の中で見た覚えがある。小春ちゃんのニュースの前に、記事の見出しだけを読み飛ばしていた。
「あの女性が谷原さんと同じ部屋に泊まっていたんです。それだけではありません。麻生山が見える部屋に泊まっている人達、主に高齢者ですが、失踪している人が多いという事実が分かりました」
泊まっていた人達は皆あの落雷を見たのだ。
窓枠には『雷に注意』とシールが貼ってあったが、見るなと言われると見たくなるのが人間というものである。
その背景も知らずに。
「狭い村だから失踪したら話題になる」と鈴木は言っていた。
確かに地元の人間に失踪者はいないのだろう。
落雷を目撃したのは因習を知らない余所の人間、登山やハイキングであの旅館に泊まった人たちだ。遠吠えに引き戻されなかったら、自分もその一員になりかけていた。
「失踪ってどうなっちゃうんだ」
「恐らく夢を見るんでしょう、谷原さんが言っていた屋敷の夢です」
「あの襖を開いたら帰れなかったっていうことか」
「いえ、帰ってはこれます。……恐らく雷に乗って」
うっ、と噎せた。
胸を叩きながら慌ててコーヒーを流し込み、聞き返す。
「あちち。それって、失踪した人達が亡者になっているっていうこと?」
日置は「はい」と肯定した。
確かに理屈は合っている。生贄本人が降ってくるという本来の仕組みからすると、亡者も元は人間だったという見方は筋が通っていた。
「問題はなぜそうなるかなんです。本来は死人を、言い方が悪いですが、リサイクルするシステムだったはずです。無害な死人が降ってきて田圃の栄養となる。ただ今回は亡者に変質して降りてきている」
「昔と何かが変わっているんだ、その何かが分からない」
「ええ、ただヒントは残っています。鈴木さんは一年前から『例の雷』が落ちてきていると言っていました。鍵はそこです」
一年前、昨年の四月に何かが起きたのだ。
少し手掛かりが見えてきた。
「なのでその前後で起きたことを調べるのですが、平行して現地調査もしてみたいです。私をその鍾乳洞に連れて行ってもらえないでしょうか?」
彼女は真っ直ぐこちらを見つめていた。
その視線を受け止めきれずに、思わず目を反らす。止めた方がいい、という言葉が喉まで出かかったが、ぐっと飲み込んだ。情報共有のために全て彼女に伝えていたが、唯一『屋敷の中に小春ちゃんがいた』ということは話せていない。
もし、あの近くに行った拍子に何かが起こり、彼女が知ってしまったらどうなるか。恐らく小春ちゃんを助けるために、鍾乳洞の扉でも何でも開けるだろう。
「あそこは鈴木さんの承諾がいるから、とりあえず確認してみるよ」
我ながら官僚らしい歯切れの悪い台詞だ。
どこかのタイミングでは真実を告げなければいけない、と思いつつコ―ヒーを口に運んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます