28
夕焼けが海の向こうに沈もうとしている。
今日はゴールデンウィーク初日なので、沙耶と釣り公園で一日楽しんだ。公園と言っても、真っ直ぐ海に突き出した堤防から気ままに釣るだけなのだが、連休初日ということもあり親子連れで賑わっていた。しかし、時間的にも皆そろそろ帰り支度をしている。
ちらりと手元を見ると、スマートフォンには不在着信が何十件もきていた。昨日の夜に確認した時よりも更に増えている。
恐らく、柿崎だろう。
「——パパ、電話?」
手元を睨んでいた自分に気づいたのだろうか、沙耶が心配そうにこちらを見ている。
「いや、何でもないよ」
「今日はお仕事行かなくて良かったの?」
「休みだから大丈夫。そろそろ終わりだから最後に何か釣っといで」
「分かった!」
沙耶はポイントを変えて、少し離れた場所で竿を下ろす。
——結局、報告書は『否認』として提出した。
あれが出回る助けをするくらいであれば、仕事など辞めても構わない。
そう心の中で呟くと、いそいそともう一人の自分が這い出てきた。待て待て、まだ取り返しがつくぞ、柿崎には間違えましたって言えば何とかなる、必死にそれは囁く。
「それで、どうするんだ」
初めて彼と対話する。
沙耶は釣りに熱中しているようで、こちらには気付いていない。
このまま仕事辞めたらどうやって娘を養うんだ、と彼は困ったように言った。ふと鈴木の台詞を思い出す。正しいことは分かっているはずだ、惑わされずに進めば良い、という言葉。
「養うためだったら転職すればいい、要するに色々めんどくさいだけだろう。職探しも沙耶と向き合うのも」
自分で呟いて驚いた。その通りだ。
色々理由を付けて逃げていたに過ぎない。
急に海から風が吹いて、潮の香りが全身を包み込む。
薄々気付いていた言葉を口から紡ぎ出し、自分の弱さと正面から向き合う。それと対峙すると案外大したことはなく、思ったよりちっぽけな存在だった。姿を直視するのが嫌で、知らず知らずのうちに肥大化させていただけだ。
風が止むと、彼は影も形も無くなっていた。
肩が軽くなった気がして、ふうと息を吐いた。
「パパ、凄いのが釣れてる!」
沙耶が堤防の先の方から呼んでいる。
見ると、借物の竿が大きくしなっていた。
「おお、引いてるな。でかい鯖かな」
彼女を手伝うべく、ゆっくりと歩き出す。
もっと暑くなったら、川遊びなんかもしようかな。
いや、川には亡者がいるから駄目か。
そう思った時、頭の隅に引っかかるものを感じた。
以前通勤途中に見たニュース、隅田川で釣りをしていた男性が亡くなったというもの。夜須川から降りてきた亡者が色々な川を行き来して、関東中に張り巡らせた農業用水に行くのではと危惧していた。
田圃に亡者が行き着くことの心配か、いや違う。
家の近くの用水路に来ることの心配、でもない。
荒川が、その流れが、最後に行き着く先はどこだ……?
沙耶の竿が限界までしなり、道糸がリールから出始めたのが見えた。
「これ何だろう、鯛かな」
無邪気な笑みを浮かべて、娘は興奮している。
その時、犬の鳴き声が響いた。
火が付いたように吠えている。
周りを見渡しても、ペットを連れている家族はいない。
聴覚だけが、その存在を捉えていた。
自分の耳元で、まるで警告のように吠え続けている。
その意味に気付いて、一気に血の気が引いた。
「沙耶、離しなさい!」
慌てて地を蹴って、娘の元まで走る。
山登りで酷使した筋肉が悲鳴を上げた。
足がもつれ、倒れ込むように彼女から竿を取り上げる。
すると蛍光イエローの釣竿は、もの凄い勢いで海に吸い込まれていった。
「あー、鯛が」
残念そうな顔で沙耶が呟く。
水面には波紋が立ち、何かが悔しがっているかのように、ぼこぼこと泡が湧いている。なぜか潮風ではなく、湿った土の匂いを鼻が捉えた。
「……もしかしたら鮫かもな。危なかったよ」
実際はもっと恐ろしいものだ。
朝比町の田圃から這い出して、河川を経由してこの東京湾まで出ていた。あの犬の鳴き声にまた助けられた。
「竿はいいの?」
「公園の人に謝っとくよ、今日はもう帰ろうか」
足元のバケツでは鯵が数匹、黒い背中を見せて泳いでいる。今日は楽しい思い出になったが、しばらく海には近寄らない方が良い。
その時、またスマートフォンが振動し始めた。しつこいなと思いつつ、画面を見ると鈴木という名前が表示されている。
「もしもし」
道具を片付けながら、右肩と耳に電話を挟んで通話する。
「おう元気か、俺だよ。俺。その後大丈夫か?」
詐欺みたいな口上だなと思いつつ、心のどこかで安堵した。亡者について相談するのに、これ以上の適任はいない。
「ぴんぴんしてると言いたいところですが、今ちょうど亡者に出くわしました」
「何だって!?」
大きな声量にスピーカーがびりびりと震え、鼓膜が破れそうになった。顔をしかめ、沙耶に聞こえないよう背を向けて続ける。
「東京湾の釣り公園に来ているんですが、どうやら彼らは海にまで達したようです」
「それで無事なのか!」
「はい、沙耶が、娘が襲われかけたんですけど、大丈夫でした」
「……何てことだ」
鈴木は絶句する。
夜須川から太平洋まで出ているとなると、被害の範囲は相当広がる。これから海難事故も増えるに違いない。
「ちょっとこの前の犬の件で、聞きたいことあるんですが」
「何とかしなければいかん……、何とか……」
鈴木はぶつぶつと独り言を言って、その内通話が切れてしまった。心ここにあらず、といった感じであった。別に彼のせいでもないと言うのに、発生地としての責任を負っているのだろうか。
氷の入ったクーラーボックスに鯵を移して、一旦公園の管理事務所に向かう。途中でまたポケットがぶるぶると震えた。
「パパ、本当にお仕事大丈夫なの?」
隣を歩く沙耶が、眉根を寄せて見上げてくる。
以前は祝日も関係なしに出勤していたので無理もない。
本当に仕事じゃないよ、と言って通話ボタンを押した。
「谷原さん、やっと出た!」
想像よりも若い声が聞こえた。
「あれ、なんだ安川か」
「色々話したくて、昨日から何回も電話したんですけど出ないんですもん」
柿崎という文字を見るのも嫌で、不在着信の明細を確認していなかった。いくつか安川のも混じっていたらしい。
「今、日置さんと一緒にいるんですけど、明日島根に行くことになりました!」
「えっ、どういうことだ?」
ごそごそと雑音がした後に、落ち着いた女性の声に変わる。
「——谷原さん、日置です。今時間大丈夫ですか? 色々と分かりました」
喫茶店かどこかにいるのか、音楽と雑談の声が微かに聞こえた。
「まず安川さんのご先祖の件、『安川求道』という方で、あの社を建てた人物らしいんです。下の名前で伝わるうちに誤った漢字を宛てたみたいで、本当は工藤ではなく求道でした」
それを調べるために昨日帰ったんです、と彼女の後ろから安川の声が割り込む。
「そしてもう一つ、いただいた木仏のサンプルを遺伝子検査に回したんですが、その結果あれは『桃の木』だと分かりました。それも普通のものではなく、今は出回っていない古代種の桃のようでした」
「それと島根が繋がるってこと?」
「ええ、それどころか安川求道も繋がります」
息も付かずに早口で日置は話し続ける。
「正確には安川求道という人間はいないんです。そもそも求道なんて自分で名乗ったものでしょうし、安川も彼が名乗り始めた苗字のようなんです」
「どうしてそれが?」
「安川さんの見た夢と史実を合わせて調べました、あぁ、夢については後で説明しますね。とにかく彼の本当の名前は『岩崎伊右衛門』といって、武蔵国の一代官でした。管轄する朝比町の飢饉に心を痛めて、麻生山の神を持っていったんです、あの木仏に入れて」
びくりと身体が反応した。
黒く肌触りの良い木仏を思い出す。
「そして、古代種の桃。全国の桃農家を調べたところ、唯一古代種を扱っている方が島根にいたんです。先祖代々続けているようで、その苗字が『岩崎』でした」
「つまり安川のご先祖がその桃農家出身だってこと?」
「ええ、江戸時代の岩崎家は有名な武家だったらしくて、何人も奉行や代官を出している家柄でした。明治になってから、それまで片手間にやっていた桃農家に転身したそうです」
「だから島根に行くってことか」
「そうです、恐らく麻生山の神はそこから来たんです」
島根県は神話が多い土地だ。
出雲大社を始めとした古い神社も多いし、黄泉の国まであると言われている。
「明日の朝に出発するのですが、谷原さんも来ますよね?」
……当然行きたい。
修験者の謎が解けかけているし、そのきっかけとなった安川の夢の詳細も聞きたい。
だが、このところ休みはほとんど朝比町で過ごしていた。今日のように、娘と一日中一緒にいるなんて最近なかった気がする。
「ちょっと明日は都合が悪いんだ。申し訳ない」
沙耶の方に向き直って、断りの返事を入れる。
「でしたら仕方ないですね。何か進展あったらすぐ連絡します」
日置からの電話は切れた。
通話後も反芻するように、会話を思い出す。
桃の木、木仏、安川求道、島根、岩崎家、様々な単語が纏まりなく頭を巡る。
ふと隣でにやついている沙耶に気付いた。
「何で笑ってるんだ?」
「女の人だったなー、と思って。デート断っちゃったんだ」
何か勘違いしているようで、大人びたことを言う。
断ったことが嬉しいのか、それともからかっているだけなのか。
妙に機嫌の良い娘を横に、竿の紛失を謝るため足を速めた。
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