第24話 サリカの森 前編

「――サリカの森だ」


 御者台からそう呟く声が聞こえた。


「待って、あと少しだけ」

「まーだやってんのか。そんなに楽しいのかねえ、チェスってやつは」

「もう少しで終わりますから」


 そう言って盤面を眺めながら、ミーシャは口を『へ』の字に曲げて唸っている。


 雨具のフードを外したトッドさんが、雨滴で前髪を濡らしながら諦めたように前を向き直す。


 布製の天幕の内側で折り畳み式のチェス盤を挟んで正面に座るバファは、ポーカーフェイスのようなにやけ顔を変えることなく、対戦相手の次手を待っていた。


 突発的に始まったトーナメント戦、バファとミーシャの決勝戦である。




 ……まさかこんなところでチェスの遊び方を知ることになるとは思ってなかった。


 そうなった経緯はもう忘れたが、ただ良い時間つぶしになりそうだと思ってバファにルールを教えてもらったことは覚えている。

 それで実際に遊びはじめ、気が付けば緋色とミーシャもにじり寄り、いつの間にか荷馬車内で流行っていた。


 現在繰り広げられているトーナメント戦の順位は、最下位が緋色、三位が俺。

 で、今二人が一位の座をかけて戦っているところである。


 最終局面に入ったバファとミーシャの打ち方を見ながら「俺だったらこう打つかな……」と素人ながら真面目に観戦していたが、いつの間にか現実のほうで目的地にたどりついていたらしい。


 サリカの森に着いたというトッドさんの言葉を耳にした俺は荷車内を四つん這いで移動し、暖簾のれんでもくぐるみたいに布製の天幕を広げて外を見やると……雨上がりの緑のにおいとともにきらきらとした森の景色が映りこんできた。


 降っていた雨もいつの間にか止んでいたらしい。

 新鮮な緑のにおいが湿り気を帯びたまま鼻孔をついてきて、縮まっていた背中を膨らませてくれるようだった。

 雨粒が天幕を打つ音を聞きながらチェスをやっているとまるで自分が洒落た知識人にでもなったようで面白かったが、その時間ももう終わりのようだ。


 穏やかな雨の中でもずっとカッパを着て荷馬を手繰っていたトッドさんに一言ねぎらいの言葉を入れると、彼は地面に下りて腰を伸ばしながら「俺も行商人の端くれだ。これくらいは余裕だぞ」と笑ってくれた。


「……あっ」


 突然ミーシャの声が上がり、荷車の中に視線を戻す。


 ちょうど、バファがにやにやしながら駒を進めるところだった。

 様子を見るに、詰まされてしまったらしい。


 盤面を見てフリーズしていたミーシャが、やがて諦めたように「降参します」と宣言。


 トーナメントはバファの優勝だった。


「いやあ、覚えたてでここまでできるとは、驚きましたねえ」


 突発的トーナメント優勝者の獣人が、毛むくじゃらの手を広げて笑う。


 惜しくも準優勝となったミーシャは、口惜しそうに盤面を眺めては「うう……なんで気付かなかったんだろう……」とつぶやいている。


 これは精霊王国でチェスが流行るのも時間の問題だろうなと思った。

 ミーシャを筆頭に偉い人たちが駒を進めている様子がありありと目に浮かぶ。


「ほら、起きろ緋色。

 いろいろ終わったから」

「……ぅん……?」


 あぐらをかいて眠っていた赤髪の少女を揺さぶり起こす。

 最下位が決まってからふてくされて寝ていた彼女だが、どうやらもう負けたことなど忘れたらしい。

 機嫌が悪そうにも見える寝ぼけ顔が覚醒しきったあとは、「到着したの? 待ちくたびれたわ!」と快活な声を上げて外に降りて行った。




 改めて、到着したのは「サリカの森」だ。


 ベルリーチェの南側に広がるこの森は魔物が少なく、徒歩でも安心して通れる環境らしい。

 ずっと前はここが主要道路として使われていたようだが、最近になってこことは別にもっと便利な道路が整備されて使われなくなったと聞いた。


 降ったばかりの雨で透き通る樹林が続いているのを視認しつつ、

 大人組二人に向き直る。


 バファとトッドさんは違う村に行くらしい。


 日の昇り具合から見て、夕暮れまでには余裕でベルリーチェにたどり着けるだろうとトッドさんが教えてくれた。


 いざ別れの時になるとトッドさんは「三人とも達者でなあ」と涙ながらに握手してきた。この人ちょっと涙もろ過ぎやしないか。号泣しているのを見てちょっと引きながら挨拶を済ませる。


「それじゃ、お別れですねえ」


 バファは相変わらずにやにやと笑っていて、別れを惜しんでいるのかどうかすら分からない。こんなに本心が読めない人もいるんだなあと、世界が広くなった気分だった。

 別れを実感すると、この飄々ひょうひょうとした獣人ともう少し話をしてみたかった気持ちが芽生えてくる。


「……『旅は一期一会』。

 ぼくはキミたちのこの言葉が好きですよ。

 またどっかで会うことになれば、そんときゃよろしく頼みます」

「ああ、それじゃ、元気で」


「いつかまたチェスの再戦をお願いしますね?」

「はは……お手柔らかに。お嬢さん」


「――バファ!」


 最後に声を出したのは緋色だ。

 俺とミーシャが握手しているのを離れた場所から見ていた彼女が、つかつかと獣人に近寄っていく。


「なんです、ヒイロくん」

「……機工武器」


 緋色は目も合わせないまま続けた。


「教えてくれて、助かったわ」


 おお、言ったぞ。


 今時こんな分かりやすいツンデレを発揮するなんて……などと考えながらバファの方を見ると、彼はにやにや笑いながらぺこりと自分の帽子をつまんで頭を下げていた。


「いいんですよ。

 ……ああ、そうだヒイロくん。

 君はお酒はほどほどにしておいたほうが良い。

 以前の夜に『しっぽを触らせてくれ』とせがんできたことを、こんな風に別れの瞬間まで擦られますからねえ」


 バファは、過去最高級ににやりとほくそ笑んだ。


 初めてだったかもしれない。

 彼がこんなに胸の内の分かりやすい表情をするのは。


 緋色ははじめ何を言っているのか分からないといった様子だったが、

 すぐに、俺を含めた他の反応を見て真実であることを察知。


「おやあ? 知らなかったんですかぁ?」と意地の悪い笑みを浮かべるバファの姿を見て、唖然としていた緋色の表情が、次第に憤怒の赤に染まってゆき……気が付けば機工斧をがしんと変形させる彼女の姿がそこにあった。


「あ、あいつ……あいつ……!」

「待て緋色、それはいけない……! マジで危ない……!」


 涙目で顔を赤くした緋色が斧を振りかざして飛びかかろうとしているのを必死で抑制。

 しかもバファはそれを鼻歌を歌って挑発しているもんだから、間に入るのがすごい怖かった。


「ああそうそう、それともう一つ。今度はまじめな話です。

 通らないとは思いますが、森の南側には行かないように。

 近ごろ盗賊が暴れてるって噂を聞きますんでね。変に近づくと痛い目を見るかもしれません」


 突然の真面目なトーンに面食らった緋色が、ほんのわずかの逡巡を経てから毒気を抜かれたようにおずおずと引き下がっていく。

 そんな緋色の後ろ姿を、バファがにやりと笑って一瞥していたのを俺は見逃さなかった。




 ――雨上がりの道の上を、馬車が遠ざかっていく。

 


 ごく短期間だけ行動をともにした旅仲間二人を乗せた荷馬車が、細かい水しぶきを左右に跳ねながら道の向こうへ消えていくのを見送り……


 そして俺たちはサリカの森に向き直った。


「んじゃ、行きますか。

 ベルリーチェに」


 湿った空気を大きく吸い込み、濡れた樹林に足を踏み出した。

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