朱夏

Iruka

二宮羊1

「春だからだよ。」

 二宮羊にのみやようは、居酒屋のカウンター席に脚を組んで座り、頬杖をついてそう答えた。

「は?」

 二宮の左隣り、脚を組まず、行儀よく座っていた仁川青にかわあおが焼き鳥を口に運ぶ手を静止させる。居酒屋の店内は混雑しており、かなり騒々しく、それに加えて、壁に取り付けられたテレビに映し出されている野球中継の音量が異常に大きいため、二宮の声は相当聞きづらかったが、仁川が聞き返したのは二宮の声が聞き取れなかったからではない。「意味わかんねえよ。」

「意味とか、そんなのは俺も知らねえ。春ってのは、いつだって新芽が萌えるもんだろ。」

 二宮は、厨房の奥で忙しなく皿を洗う若いアルバイトをぼうっと眺めながらそう言う。

「そっちの、萌える、じゃねえよ。お前、昨日マンション燃やしてたじゃねえか。」

 仁川が語調を強めてそう言うと、二宮は、「ああ、そっちか。」と左右を間違えただけであるかのような雰囲気で笑った。放火を行った張本人だとはまるで思えない。

 後ろのテーブル席から、「これ頼んでないんですけど。」と申し訳なさそうに申し出る声が聞こえた。続いて店員の、「あっ、申し訳ありませんでした。」という声が聞こえる。大音量の野球中継の実況は、「満塁のピンチをエース日比野が三振に抑えました。申し分ない活躍です。」と、上ずったかすれ声で喚いている。


「なんでマンションを燃やしたんだよ。」

 仁川が再び訊いた。今度は何が燃えたのか明確にわかる。芽ではなく、マンションだ。

「マンション燃やしちゃいけねえのかよ。」

 二宮は、空になったビール瓶を人差し指の爪でかつかつ叩きながら言った。

「いけねえだろ。」

 仁川はすかさず言う。「マンション燃やしちゃまずいだろ。さすがに。」

 後ろのテーブル席から、「ここの焼き鳥まずくない?」とこそこそ話す声が聞こえる。店内のトイレの前では、おそらく三十代前半のサラリーマンが電話をしながら、「会社の車盗まれたのはまずくないっすか?」と驚きを隠せないでいる。大音量の野球中継は、コマーシャルへと切り替わっており、わずらわしさが更に増した。


「お前さあ、」

 二宮が仁川にあわれみの視線を送る。見逃し三振をした野球選手に送る視線と同じだ。

「ノーアウト満塁のピンチを迎えた投手にも同じことが言えるのかよ。」

 仁川は再び焼き鳥を口に運ぶ手を止める。「どういうことだよ。」

「大ピンチの投手に向かって、燃やしちゃまずいだろ、なんて言うのかよ、お前は。」

 二宮は、困惑する仁川をよそに、グラスに残ったビールを飲み干す。傾けたグラスから水滴が二滴、落ちる。

「何言ってんだ、お前。投手がマンション燃やすってか?」

 仁川はいらつきを隠さず、二宮を挑発するように訊いた。しかし、二宮は、仁川の挑発などはまったく意に返さず、焼き鳥の最後の一切れを口に運ぶ。

「おまへこほなにひってんは。」

 二宮は、口に入れた焼き鳥を咀嚼そしゃくしながらそう言った。焼き鳥を呑み込むと今度は、曖気あいきの後で、脚を組み替え、人差し指を立てる。

「いいか、大ピンチの投手が燃やすのは、マンションじゃなくて、闘志、だろ。」


 騒がしい居酒屋の店内が静まり返った。ような錯覚に仁川はおちいる。

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