飛行

夏眠

第1話

ーーー部屋のドアを開けることが怖い。ここ数ヶ月、私は部屋から出ることがなくなっていた。今はネットショッピングが発達していて、誰とも顔を合わせなくても案外、暮らしていける。必要最低限のお金は、マッチングアプリのサクラや、幼い頃父の仕事の都合で住んでいた東欧の国の言葉の翻訳の仕事で稼いだ。通っていた大学のことを考えるのはやめた。きっとあの場で私のことを覚えている人は誰もいないだろう。それは悲しいことなのかもしれないけれど、私にとってはそれが、私という存在が軽くなったように感じられて安心できる材料になったのだ。勿論、将来の選択肢が狭まり、上手く生きていくためのコースから外れたことに変わりはない。が、もうここまで生活も精神も身体も壊れた状態では全てがどうでも良かった。もういっそ、空気と同化出来ればいいのだ。それこそ、この世で私のことを覚えている人がいなくなった段階とかで。

部屋から出られなくなった理由は大したことじゃなかった。天気が数週間あまり良くなくて、洗濯物が干せなかったこと。アルバイト先で自分が呼ばれていない飲み会が頻繁に開かれていること。大学で一緒に食事をできる友人がいないこと。そういったことがいくつか重なった上、唯一落ち着ける場所だと思っていた図書館が改修のため一ヶ月休業になってしまった。他者からみたら些細なことでしかないと思うが、それは私にとって大きな絶望だった。そのときに私の心の中の火は消えきってしまったのだと思う。その後もCDショップやリサイクル店などを訪れてみたけれども、雨の中で燻った燃え滓は何も出来ずに冷えて固まっただけだった。


引きこもり始めて二ヶ月が経った頃だと思う。私は部屋の姿見を隠すようになった。脚の筋肉はすっかり衰えてしまって、目元には常にクマがあるようになったし、髪は艶なんてものが全く無くて、同じ服を三、四日続けて着ることがザラにあった。もうそんな自分の姿を見ることが苦痛で、鏡にスカーフをかけた。家の中にいると気づくことがいくつもある。家から出ないとスカーフを使わない、というのはそれらの気付きのなかの一つだった。あまりにも着る服が偏ってしまっている。もうどうせ外に出ることなんてないだろうし。好きだったものを捨てることで、自分の今の生活と心のバランスが取れる気がした。キラキラした服も、アクセサリーも、今の私の心を乱すものでしかない。部屋の外の住人たちに相応しいものを目にすることは酷く居心地が悪かった。クローゼットをあけて、大半を捨ててしまおうか、と思った。

そのなかに、鈍い光があった。それはどうやら眼鏡のようだった。縁の金のメッキが錆びたり剥がれたりしている、色の付いたグラスの入った丸眼鏡。恐らく祖父の使っていたものだろう。祖父が死んでから十年ほど経ったのだろうか。ここ最近は時間が狂ったまま流れていて、それが正しいのかは分からなかった。眼鏡が古びていたものの上質なものであることがひと目でわかるものであり、少し興味が出た私はそれをかけてみてしまった。


カラーグラスをかけてみると、世界は驚くほど彩度を失った。締め切ったカーテンから漏れる光も、日にあたらないせいで生っ白い肌も、慣れ親しんだ壁紙もすべて同じように見えた。これなら大丈夫かもしれない。思い切ってカーテンを少し開けてみた。たった。10cm ほどの隙間だったが、それは私と世界とのつながりになった。すぐに怖くなって閉めてしまったが、それは衝撃だった。初めてピアスを開けた日のことを思い出す。その日は痛くて二度とやらないと思ったが、数日経ってしまうと痛みを自分の中で消化し、飲み込むことができる。カーテンの間からもれだす光はレンズのせいで弱体化し、私の中で倒せる怪物へと成り下がってくれたのだ。


次の日の夕方、カーテンの隙間からみえた外の世界はどんよりと曇っていて、美しいオレンジは見えなかった。なんだか私はそれが気にいってしまって、眼鏡をかけていれば、外に出られるのではないかと思った。久しぶりにスカートに足を通し、適当なトップスを着て、眼鏡をかける。欧米のセレブリティのお忍びのような格好であることが可笑しかった。


眼鏡がバリアの役割をしてくれたお陰で、街を比較的安全なところだと思うことができた。認識は大事だ。私が恐いと思えば恐い場所になってしまうし、安全だと思えば安全な場所にすることができる。


2、3km歩いたあたりだと思う。大した距離ではないが、暫らく外に出ていなかった私にとっては長すぎる紀行で、そろそろ引き返そう、と思った。引き返す前にどこかで休もう、と思い、人のいなさそうな公園か何かを探して歩いた。


ここらは、大きな公園が一つあるばかりで、そこには小学生くらいの子がたくさん遊んでおり、どうやら私の居場所は無さそうだった。諦めてこのまま帰ろうか、と思ったとき、廃屋のような建物を見つけた。どうやらそれは喫茶店のようだった。人のいなさそうなこと、あまりにも疲れていたこと、眼鏡があること、外に出ることができたこと。たくさんの要素が私を動かし、調子に乗った私はドアを開けてしまったのだ。


そこには店主らしき人が1人。薄暗く、近づかないとお互いの顔が見えない店内。コーヒーの香りと低めの音量でかけられたクラシック音楽。外観とは裏腹に格式高い空間が広がっていた。私は小さな声でメニューの一番上にあったブレンドコーヒーを注文し、外を眺めていた。


ブレンドコーヒーは多分美味しかったのだと思う。カウンターの向こうと、そこから一番離れた席ではあったが、他人と同じ空間に居た経験を私は長い間していなかった。緊張して味を感じることができなかった。会計をしようと思って、席を立つ。店主と顔を合せないようにしようと思った。思ったけれども、店主の目から涙がこぼれたような気がして、どうしても目が向いてしまった。それはピアスだった。瞼に空いたピアス。普通だったら怖い、と思うのだろうが、外に出られたことに達成感を覚えた私は、欲張ってしまった。そのピアスを涙の模造品と捉えて、勝手に世界に馴染めなくて悲しんでいる人だと解釈したのだ。私は彼を心のなかで勝手に友人にしてしまった。


 それから私は眼鏡をかけて定期的にその喫茶店を訪れるようになった。二、三週間に一回だったのが週一回にふえ、週に数度訪れる日までできた。私はフードメニューをほとんど制覇してしまった。この店はフードメニューが提供されるまでに恐ろしく時間がかかる。入口のところに本棚があって、数冊の週刊誌と、十数冊の文庫本が置いてあり、それを読みながら時間を過ごした。本棚は中身が定期的に入れ替えられていて、私の持っている本が置いてあるときは嬉しかった。全く別の人間ではあるが繋がれたような気がしたからだ。


全メニューをひと通り食べ尽くした頃になると、その喫茶店だけでなく外出できるようになった。公営の図書館や平日の郊外の寂れたショッピングモールなど、動ける場所は限られていたが。


私はきっと調子に乗っていたのだと思う。曜日感覚をすっかり忘れ、ショッピングモールへと向かった時、私はようやくその日が祝日だということに気が付いた。外の世界に慣れてきたとはいえ、流石に大きすぎるひとの塊を目にした私は、すぐに引き返そう、と思った。

そのとき、私は、わたしによく似た人が、こどもと、漢字のよさそうな男性を連れて歩いているところを目にしてしまった。瞬間、とてつもない脱力感と羞恥に襲われた。私は、ただほかの人が当たり前にしている生活の一歩目を再度踏み出せただけであって、人並みの生活がこれから手に入れられるわけではないのだ。それなのに。


 すぐにその場を私は後にした。もう誰とも関わりたくはないなと思った。けれど、矛盾した感情を持ってしまっていた私は、なぜかどうしても人と話したくなってしまって、私はあの喫茶店に向かってしまった。歩いているうちに涙が出てきて、顔がぐちゃぐちゃになってしまっていた。眼鏡があるから大丈夫だ、と自分に言い聞かせているけれどもきっとそんなことはなかった。わたしはとにかく大丈夫になりたかったのだと思う。

涙は止まったが、依然としてひどい顔のまま喫茶店に着いた。

ピアスの店主は、私の顔について何も言わずにいつもどおりにコーヒーを淹れてくれた。それがひどく心地よかった。誰にも干渉されない、私が私をチューニングする時間だ。

ある程度落ち着いたところで、会計をしようと席を立った。あまりにひどい顔をしていた私のことを、彼を気遣ってか、大丈夫ですか、と書かれた領収書を一枚、渡してくれた。誰もいない店内をいいことに、私は今までの、顛末を彼に話してしまった。

彼は、



「じゃあ、今度は僕と一緒に外に出ませんか。一人でいると、気になる視線も二人なら気にならないこともありますし。」


と、有機的な鉱物のような笑みを浮かべ、良ければですけど、と付け加えた。

わたしはあっけにとられながらも、首肯した。彼は、契約成立ですね、とさっきよりも有機的な、いたずらっ子のような笑顔をした。

 

それから、私たちは、少しずつだけれど着実に、ぐんと行動範囲が広げていった。水族館や常に人が満杯のハンバーガーショップ、果ては、ネズミが幅を利かせているテーマパークや、私がかつて通っていた大学の学食にまでいった。はじめはものすごく戸惑っていたし、何より怖がっていた。一度壊れてしまったものを再建させることはこの上なく難しい。パズルを一ピース一ピースはめていくように私は心を回復させていった。


それでも、私は私の幸せを信じられなくて、だんだん彼と行動を共にすることに後ろめたさを感じるようになった。三度目の遊園地、もう慣れたはずのそこで、私はまた泣き出してしまった。

「やっぱり、私が人並みにうまく生きて、幸せになって、そういうことって難しいと思うんです。こうやって私はあなたに負担をかけてしまっています。きっと世界は、世の中は、きっとこんなこと望んでいないんですよ。」

彼は、私の話を聞いて、黙ったまま観覧車の列へと並び始めた。順番が来て、ゴンドラに乗り込んで、こういった。

「個人間で結ばれた契約は、国ですら干渉できないんです。あなたのことを縛りつけられる人なんてどこにもいないし、縛りつけられるものなんてきっと存在しないんです。あなたがあなたの幸せを信じられないのはわかります。僕だってそうです。幸せになったらそれを失うのが怖いし、今までの舞い上がっていた自分を振り返ると恥ずかしいです。でもそうやって生きてきました。意外と生きていけるんです。自分が今いる場所から墜ちてしまうことは怖いです。でも、僕はあなたはそこから一歩ずつ登っていくことができると信じています。僕と一緒にでこぼこした人生を歩んでみませんか。そんな人生を愛してみませんか。」


泣きそうになった。でも必死に耐えた。私がここで手を伸ばしてしまったら、縋ってしまったら、私は私のことを全部否定してしまうことになる。幸せになることより、私は私を守ることが大事だ。でも。


「手を取って、くれませんか。」


彼が私よりもずっと泣きそうな顔をしていた。私達はきっとおたがいに独りで、まだまだ未熟で、どうにもならない私で、どうにもならない彼だ。ここで手を取らなかったらきっと、私たちは変わることができない。

私は再び彼の手を取った。観覧車の外から見えた薄曇りの中の夕日は、私たちが希望の中で生きていってもいいのかも知れないという気にさせてくれた。暖かい光の中で、私は彼のことを信じてみよう、と思いながら目を閉じた。



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飛行 夏眠 @sakura_nemuri

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