デンオとテツオ

入江弥彦

デンオとテツオ

 僕は電車オタクだ。


 自分でそう言っているわけではないし、本当はみんながいうほど電車が好きなわけじゃない。

 けれどもそれが僕のイメージであり、まわりからの評価なのだからそう呼ばれているのも仕方がないことだ。電車オタクでは長いからと、略してデンオと呼ばれている。


 クラスメイトが僕のためにとランドセルがパンパンになるほど詰め込んでくれた紙くずを捨ててから、いつもの場所に向かった。紙屑の中には誰かの宿題のようなものもあったけれど、そこで遠慮する優しさは持ち合わせていない。

 僕のランドセルは彼らにとってゴミ箱に通じる不思議な鞄なのだから、きっとこれもいらないものだったのだろう。


 背の高い草に埋もれかけた立ち入り禁止の看板を無視してロープをまたぐ。

 地下への階段も同じように草に覆われているので、僕は一年中長ズボンをはいていた。決して、誰かからの暴行の痕を隠すためではない。

 ツタに絡まれた手すりを使って、階段を降りた。ライトで照らしながら、昔は使われていたという自動改札機をくぐる。誰かが見ているわけではないけれど、お金を払って入っていたという空間に無断で侵入するのは毎回ドキドキした。

 ホームに出れば、圧倒的な存在感を持った主がそこにいた。


 地下鉄だ。


 昔の人は、どうして地下にこんな鉄の塊を走らせようとしたのだろう。人間はどんどん空に向かって進んでいって、いまでは宇宙だってお金を払えば行けるようになった。けれども僕は、空には興味がない。

 ほったらかしにされた地下の世界は、僕に言いようのない興奮を教えてくれたのだ。


 開いたままのドアから電車の中に入り、いつものように朽ちかけたシートに座ろうとしたとき、心臓が止まりかけた。もしかすると、ちょっとの間だけ止まってしまったかもしれない。


「だあれ?」


 僕よりいくらか身長の大きい、制服姿の女の人がこちらを見て不思議そうな顔をしていたのだ。


 怒られる。


「待って!」


 逃げ出そうと咄嗟に背を向けると、女性らしい優しくて高い声が僕を呼び止めた。

 反射的に立ち止まって何も言わずに彼女を見る。安心したように胸を撫で下ろして、彼女は口を開いた。


「きみ、ここにはよく来るの?」

「うん、お姉さんは誰?」

「私はテツオ」


 彼女は肩まである黒髪を耳にかけ、そう名乗った。


「テツオ? 女の人なのに」

「鉄オタク。だからそう呼ばれているの」

「そういうことなら僕はデンオだ」


 僕らは互いの自己紹介もそこそこに、ところどころ穴の開いてしまったシートに座った。砂煙のようなものが舞うのはいつもなら気にならなかったのに、テツオと一緒にいるというだけですごく神経質になってしまう。

 彼女は何も気にすることなく、やたらと長い足を組んだ。


 僕らはどちらともなく学校の話、家の話、それからお互いの好きな物の話をして笑いあう。

 僕は彼女につり革の魅力について語ったし、彼女は僕に持っていたボルトを見せて楽しそうに専門用語を並べた。


「私ね、テツオって呼ばれてるけど、本当はそこまで鉄が好きなわけじゃないの」


 その一言を聞いて、僕は勝手に彼女と分かり合えた気がした。




 僕が行けば、当たり前のようにテツオは待っていた。

 いつの間にかテツオのことを好きになっていたようで、彼女に会えない日は鉄を見ては顔を赤くして思いを馳せていた。

 その日は確か、いつもは立ち入らない運転席に入ったのだ。彼女の前で格好つけたかったのかもしれない。


「このまま、走っていけたらいいのにね」


 資料でみた通りに地下鉄の仕組みを説明していると、テツオがぽつりとそう漏らした。


「どこまで?」

「どこまででも」

「どこまででも、かあ」


 ライトを前方に向けてみても、ただただ闇が広がっているだけだ。線路はずっと先まで続いているはずなのに、この大きな鉄の塊は一ミリだって進むことができない。どこまでも行こうなんて言っても、どこにも行けないことくらい、小学生の僕にでもわかっていた。

 僕はこの時どうしてか彼女に触れたくなって、油断している横顔に唇を押し付けた。

 キスなんて綺麗な物じゃない。


「ませてるのね」


 今度はテツオが細くて柔らかい手で僕の頬を包んで、ゆっくりと唇を重ねてきた。キスという言葉では表せないほど、繊細で美しかった。

 柔らかい唇が小さな音を立てて離れる。


 天にも昇る嬉しさが全身を駆け巡る。それと同時に、心の一番深い部分が冷えていくのが分かった。

 運転席をとびだして、地下鉄から降りる。


「デンオくん!」


 後ろから彼女が僕を呼ぶ声がしたが構っていられない。

 自動改札機をくぐって階段を駆け上がる。

 外の光が眩しくて目を細める。必要なくなったライトを消すこともなく投げ捨てた。

 電車は、いつから彼女と会うための空間に変わってしまったのだろう。


 もしかすると僕は、本当はみんなが言うよりももっと電車が好きだったのかもしれない。



 心の変化がただただ悲しくて、もう二度と地下鉄に乗ることはなかった。


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デンオとテツオ 入江弥彦 @ir__yahiko_

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