白球が巡る

そうざ

The White Ball Revives Again

 今年も苔生こけむした石段を上る季節がやって来た。

 柄杓ひしゃくを入れた水桶を片手に歩を進めると、程なく蝉時雨の下に墓石の群れが現れた。歴史あるこの寺院には、地元の村人が多く葬られていると聞く。

 ついさっき十三回忌法要が行われた筈だが、もう人影はない。

 通夜、告別式、一周忌、三回忌、七回忌と、償いの気持ちはあっても僕は見送り続けて来た。彼の親御さんは理解を示してくれているものの、周囲には今でも複雑な感情を持つ人達が居て、僕がいつまでも関わる事を寧ろ快く思わないらしい。

 それでも、あの灼けた夏の日の光景は、未だ僕を解き放とうとせずに巡って来るのだ。


              ◇


 僕は、中学時代から最速140キロの左投手として名を馳せていた。

 その能力を買われて進学した甲子園常連校では、春の県大会から行き成り無失点の好投を披露し、同野球部を優勝に導いた立役者と大々的に評されたものだ。

 当然、夏の甲子園でも先発投手として大いに期待される事になった。


 しかし、初回にして受けた失点が早くも僕の平常心を奪っていた。

 二回表にまた一点、三回には更に二点と、得点差は広がる一方だった。

 ――違うんだ、こんなのは本当の僕じゃないんだ――

 誰に訴えられるでもない言い訳と焦りとが僕を益々追い込んだ。

 シングルヒット、牽制球の暴投、フォアボール。四回の表には忽ち三人の打者を塁へ進ませてしまった。

 選りに選ってこの屈辱の瞬間、揺らめく視界の向こうに長身の打者が現れた。


 その選手の噂は勿論、耳にしていた。中学時代から天才の呼び名を与えられ、四番右打者の一年生として高校野球界に華々しく登場した男だった。

 大会が始まる前から、僕等の顔合わせを楽しみにしていた高校野球ファンは多かった。意識するなと言われれば言われる程、意識してしまう相手なのだった。


 同じグラウンドに天才が二人も要らない――僕は朦朧としながらもノーアウト、ランナー満塁の窮地に闘志を奮い立たせた。

 渾身の一球目――ボウル。

 全力のニ球目――ボウル。

 会心の三球目――ボウル。

 拭っても拭っても汗が眼球に染みて来る。陽炎が距離感を奪う。喉が貼り付く。身体に震えが来る。

 打者は飽くまでも真っ向勝負を挑みたいようだった。彼がバットで場外を指し示すと、怒涛のような歓声が観覧席から上がった。

 そして、決死の四球目――。


              ◇


 法要の後に手向けられた仏花が、早くも熱気にを上げようとしている。

 僕は、一度濡れて乾いた様子の墓石に再び水をやり、線香を上げて手を合わせた。僕が密かに墓参を続けている事は、親御さんも気付いているだろう。

 高齢者の享年が居並ぶ中で、僕の眼前にある墓石には『十六歳』と刻まれている。

 その数字は、未だに僕に罪の意識を突き付ける。それでも、僕は毎年ここへやって来るのだ。


              ◇


 最高潮に達した歓声が響動どよめきに変わっていた。

 審判が試合を中断させ、大人達がイレギュラーな動きを見せ始める。やがて担架がやって来た。

 僕は、全てを蚊帳の外で見詰めていた。一体何が起きたのか、正確に受け止める事が出来なかった。

 ボールが指を離れる瞬間、しまった、と思った事だけは憶えている。

 ――この暑さが悪いんだ――

 打者に対して悪意などあろう筈がない。あったのは不安と恐怖と重圧と、逃げ出したい気持ちだった。燃え上って来た筈の闘志は、夏空の果てに消え失せていた。

 監督が投手交代を宣言し、僕はそのまま病院へ向かった。そこからは記憶が断片的過ぎて、年月が経てば経つ程、時系列に沿った説明は不可能になっている。


              ◇


 墓石は黄昏に染まり、もう戒名の判別は難しい。

 蜩はどうしてこんなに、断末魔のように、歓声のように鳴くのだろう。

 しゃがんだ背後に気配を感じた。もう門が閉まる時刻なのだろう。

「済みません、もう帰りますので……」

 振り返ったそこに佇んでいたのは、ユニフォーム姿だった。薄暗がりの中でも、白い生地が土埃で汚れているのが判った。

「やぁ……」

 初めて聴く声。

 彼とは一度も言葉を交わした事がない。僕がどれだけ謝罪をしようが、彼は夢の中でも応えてはくれないのだった。

 彼が手にしたバットを肩に担いだ。僕は反射的に頭を抱えて退いた。

「勘違いするな、ノーゲームに決着を付けに来ただけだ」

無効試合ノーゲーム……?」

「お前は投手、俺は打者。やる事は決まってるだろ」

「……もうボールの投げ方なんて、憶えてない」

 視線を逸らした僕は、自分の右手にグローブが嵌っている事に気付いた。慌てて投げ捨てると、そこに握られていたボールが転がった。

「早くしないと日が暮れるよ」

「……許してくれっ」

 俺はその場に土下座した。

「グローブを拾いな」

「済みませんっ、済みませんっ」

「ボールを持って」

「ご免なさいっ、ご免なさいっ」

「決着が付いたら全て水に流そう。それで終わりにしよう」


 俺達は、墓地の真ん中を貫く石畳の両端にそれぞれ散った。正にピッチャーマウンドからバッターボックスまでの距離感だった。

 彼のバットが天を指し示すと、夕焼け空が青空へと塗り替えられ、地鳴りのような歓声が渦巻いた。

 既にノーアウト、ランナー満塁だった。

 不安も、恐怖も、重圧も、そして逃げ出したい気持ちも、不思議となかった。あるのは闘志だけだった。

 僕はゆっくりと振り被り、渾身の力であの日の白球を投じた。

 軌跡が音もなくくうを切る。それは、彼の頭部へは向かわず、ストライクゾーンへと吸い込まれて行った。

 ――これだ、これが本当の僕なんだ――

 闇に沈む墓地に金属音が響き渡った。


              ◇


「まだいらっしゃったのですか、もう門を閉めますよ」

「長居をして済みません……」

 丁寧に一礼する人影に、住職が会釈を返す。

 住職は、闇の向こうへと去る人物を見送りながら、こう思っているに違いない。

 ――どうして墓参にバットを?――


 僕の長い悪夢が終わった。

 病室のおぼろな記憶が蘇る。彼は、横になった僕を覗き込んでいた。その顔は涙に濡れていた。

 暴投球は咄嗟に反応した彼のバットに打ち返され、僕の眉間を直撃した。

 思えば、そこから記憶が怪しくなったのだ。僕は辻褄の合わない記憶を繋ぎ止めようと、今日まで必死に藻掻いていたのだ。

 僕はやっと肩の荷を下ろし、安住の地を見付けられた気がする。

 彼とはまた次の夏に、その先にある未来の夏にも再会出来るだろう。投手でも、打者でもない、あの異常に暑い夏の日に偶々まみえた者として邂逅するだろう。

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