金星で硫酸が降る夜

衣純糖度

金星で硫酸が降る夜

金星では硫酸の雨が降ると初めて聞いた時、俺はなんて綺麗な光景なんだろうと思った。

酸性の液体が金色の地面に降り注ぐ。液体が地面に落ちた瞬間に金色の地面が抉られて欠片が弾け飛び、キラキラと輝く。それは硫酸が地面に触れるたびに幾度となく起こり、見渡す限りの地面が煌々と輝く。俺は頭にそんな光景を思い浮かべた。

けどそれは想像の話で実際は、硫酸が地面につく前に蒸発して無くなってしまうそうだ。

事実を知ってもなお、俺は煌めく地面を想像する。


⭐︎


別れの辛いところは起きうるはずだった幸せな未来を想像してしまうことだと思う。

大学時代から付き合っていた俺と渉は、就職して1年後に同棲。2年ほど同棲生活を満喫した後、結婚をする。養子として女の子と男の子二人を引き取って育てあげて、成長した二人はそれぞれ巣立っていく。俺と渉はそんな二人を見守りながら一緒に老後を過ごす。

それは勝手に俺が思い描いていた理想だった。別にこの通りじゃなくてもいい。どこかで綻びがあって上手くいかなくてもよかった。結婚できなくても、子供がいなくても、どんな綻びがあっても、俺の隣に彼がいれば、それでよかった。


⭐︎



渉が亡くなったと聞いたのに、俺は笑みを浮かべてしまった。

大学の授業が終わって、スマホにかかってきていた渉からの着信に折り返せば、渉のお母さんが出た。息子が亡くなったことを渉のお母さんは暗く沈んだ地を這う声で言ったのに俺は冗談だと思ってしまった。冗談ですかと言って無意識に笑えば、渉のお母さんは泣き出してしまって渉の死が事実だと分かった。

それから俺は渉の家に行く。布団に寝かされて横たわった渉は確かに亡くなっていた。

死因は事故でも事件でもなかった。渉の心臓が突然止まってしまったというものだった。昨日まで元気に笑っていたのに、彼の肉体は動きを止めてしまった。

死は突然現れる。死が渉を訪ねて、彼はドアを開けてしまった。

まさか自分の肉体が動くのを止めて魂が追い出されてしまうなんて、渉は一ミリも想像してなかったと思う。肉体から離れてしまった魂は二度と肉体を通して可視化することができない。たとえ俺の周りでいくら魂の彼が騒いで暴れて喚いても俺には見えない。

ドライアイスで冷たくなった渉を見て、俺は一つの結論を得る。肉体はあくまで肉体で、航じゃない。冷たくなった目の前の渉はただの彼の肉体であり、渉自身じゃない。

俺は目の前にある渉の肉体を憎悪した。渉の肉体が、渉を、俺から奪ったのだ!

俺は渉の上にまたがって、掌を彼の首に沿わせる。強く力を込めて彼の体温のない首を締める。手に全身全霊の力を込めて彼の肉体への憎悪を示せば、周りにいた渉が死んだと思っている人が俺を押さえつけた。

渉は死んでいない!魂はここにあって、肉体が航を見えなくしてしまった!なんで渉を殺した肉体をこんな大事にしてるんだ!?

俺の主張は掻き消され、狂人扱いされる。

彼の葬儀も火葬も俺は立ち会うことを許されず、渉の肉体は骨になった。俺はそれでよかった、渉の魂を追い出した憎むべき肉体を丁寧に扱って渉の死を認めるなんて、俺は許さない。


じゃあ、どこに渉は居るのだろう。


⭐︎


俺は渉の魂と交信を試みた。

大学に行かないでネットで調べた幽霊と話す方法を試す。

スピリットボックス、降霊呪文、降霊術、イタコ、こっくりさん、ひとりかくれんぼ。思いつく限りの方法を試して、俺は渉を求める。

雑音ばかりのスピリットボックス、何も降りてこない降霊呪文と降霊術、金ばかりのイタコ、動かない五円玉のこっくりさん、暗闇で馬鹿らしくなってくるひとりかくれんぼ。

どれをやっても渉の魂は俺の前に現れてくれない。

渉の魂を欲する欲望は日に日に肥大化して、俺の部屋は魂を呼ぶために買った道具で埋め尽くされる。けど、どれも、どれも、どれも、ダメだった。


渉の肉体が死んでから、時間は半年も経ってしまった。俺は中国の霊媒師から買った飲めば魂が幽体離脱するというお茶を飲んで、失敗したところだった。ただ良く眠れただけのそのお茶は渉と俺を会わせてくれることはなかった。

異様にスッキリとした頭で、暗い部屋の中で一人ぐるぐると悩むことを続けていれば、足の踏み場がない意味のない道具に囲まれた部屋で気づいてしまう。

俺が肉体を持っている限り、渉には会えない。俺の魂も肉体から切り離さなければならない。

考えれば簡単なことだった。魂だけになれば、渉と会える。

俺はすぐに家を出る。向かった先は海だった。


明け方近くの街は静かで、誰も歩いていなかった。小走りで、息を切らして向かう。早く、会いたい。道路から階段を降りて、砂浜を歩く。

そのまま浜辺に立ち、海を眺める。水平線に沿った橙色が群青の空とグラデーションになり、言い表せない程、明け方の海は美しかった。その景色のように俺の心は晴れやかだった。

「渉、もうすぐ会えるよ」

近くにいるはずの渉の魂に呼びかける。これで渉に会える。渉ともう一度、会える。

波打ち際に足を踏み入れ、その冷たさは心地よく、渉に会える喜びと共鳴した。波に抗って太腿まで海に入り込む。

「渉」

そう名前を呼んで、俺は水平線に吸い込まれるように進もうとした。けど、視界に俺はいつか、渉と見た光を見つけてしまった。

夜明けに輝く星、明けの明星を見つける。それは、金星だった。




⭐︎


裸のまま、俺と渉は話をする。

窓際に置いてあるベッドに横たわる二人。明け方の薄闇の中で体温と声だけが互いを理解する標だった。心地よい疲労を纏って、俺はふわふわした気分のまま、渉の声を聞く。

「月と金星だ」

渉は突然起き上がり、レースカーテンを少し開けて窓から見える月を眺めてそう呟いた。高台にある俺のアパートの窓は眺めがよく、空が良く見えた。渉はそれが気に入っていたようで、暇があれば眺めていた。

俺は起き上がり渉の横から、窓を覗く。確かに、月の近くに一番輝く光が見えた。

「金星では硫酸が降るらしいよ」

渉は得意げに知識を披露する。

「硫酸?」

「そう、硫酸」

「へ〜、知らなかった」

「僕も知らなかった、最近本で読んだんだ」

俺はその知識を持ってまた金星を見つめる。

「…金星で硫酸が降ってる光景って綺麗だな、地面が煌めくように硫酸が降りそう」

俺はそう言いながら、再びベッドに横になる。そして、想像した煌めく金色の地面の話をする。

「えーっと…読んだ本だと、硫酸は地面に落ちる前に蒸発するみたい」

彼は言いぬくそうに事実を教えてくれた。

「なんだ、残念」

俺がわざとらしくため息をつけば、彼はしばらく考えたのちに短歌を一つくれた。

「金星で硫酸が降る夜でした 二人で見ればいつも煌めく」

「どういうこと?」

「今、僕らは広樹の考えた光景を共有したから、金星を見るたび、金星で硫酸が降って地面が煌めくよ。見た時に硫酸が降っていようがいまいが、硫酸が蒸発しようが、僕らが降っていると思えば降ってし、綺麗なんだ。金星を見るたび僕らは幸せになれる」

「意味わからん」

「あはは、いいよわかんなくて」

「なんでそんなことおもいつくんだ」

「俺のこれまでの経験が全部混ざり合って、俺だけの思想になるんだ。いじめられたことも、読んだ本のことも、広樹とこうしてるのも全部全部合わさって…」

「わからん…」

俺は眠くて冷たく返事をして目を閉じた。

「…眠いの?」

彼はそう言って、俺の閉じていた瞼の上に自身の掌を優しく重ねた。



⭐︎



目の前に現れた金星を見ながら、俺は渉を思い出す。

渉は背が高くて眼鏡をしていた。眠そうな目をしていて動きも鈍臭い。本ばかり読んで、よく意味が分からない短歌を俺にくれた。けど、一緒にいてこれほど心地よくて苦しくない相手は渉だけだった。

渉は、死んだ。

魂なんてない。肉体を伴って思想が生まれて渉の人格を形成していて、肉体が消えれば渉も消える。

目を逸らしていた事実を本当はずっと理解していた。

渉は死んでなんかないと俺は思い込もうとした。俺が死んでないと思えば、死んでない。

けれど、金星が俺を正気に戻してしまった。

俺は金星で硫酸が降る光景の話をした際の渉の相槌を思い出す。俺の言葉を否定しないで受け入れるあの優しい声音が俺は大好きだった。

俺が眠りにつく時、よく眠れるようになんて言って渉はよく、閉じた瞼を掌で包みこんだ。享受していたその行為を、渉はどんな表情でしていたのか、見ておけばよかった。

目の裏が痛くなる。涙が数適落ちれば、俺は渉が亡くなってから初めて泣いた事に気がついた。

渉が今、目の前に現れたらどうしてくれるのだろうと、考える。

きっとおろおろして、俺の手を引いてとりあえず海から引っ張り出す。そのあと、俺を抱きしめるだろうか、それとも怒るだろうか。

…たぶん、彼は怒ると思う。「やめてよ」と言って、俺の手を強く握って、悲しみを俺に伝えるだろう。

俺がここで死んだら渉が悲しむなんて分かりきったことだった。それぐらい、渉は俺を好きだったし、俺は渉が好きだった。

けどここに渉はいない、俺は自分で海から出ないといけない。

そう思えば急に怖くなる。俺は太腿を包む海水の冷たさに畏怖しながら急いで浜辺に戻る。急に体の力が入らなくなってしまい、倒れてしまう。砂浜に大の字になり仰向けに寝転がった。

空を見上げれば、俺を止めた金星が視界に入り、それをじっと見つめる。

空に小さく輝く星では、今、きっと硫酸の雨が降っている。

そして俺は渉のくれた短歌への返事を思いつく。

「金星で硫酸が降る夜でした 一人で見てもいつも煌めく」

二人で金星を眺めれば、どんな時だって金星で硫酸が降り地面は煌めく。渉はそう言ってくれた。今は一人になってしまったけど、俺には金星の煌めきを共有してくれた大切な人がいたという事実がある。その記憶があれば一人で金星を見ても、その幸福は消えない。

俺はここでこんな事をしていちゃいけない。けど、どうしていけばいいか、自分じゃもう考えられなかった。その時、渉の顔が頭に浮かぶ。

俺は渉を想像する。渉はなんて言うだろうと考えればいい。きっと渉はこう言う。

「ちゃんと生きて」




⭐︎



空を見上げれば金星があった。今日は月と金星が綺麗に見れるという情報を聞いてから、俺は早く夜にならないかなと、一人、浮ついていた。

渉が亡くなって、ニ年が経とうとしていた。留年した大学は無事に卒業できそうで、就職先も決まった。ちゃんと生きようとしていた。

隣に渉がいない寂しさが襲ってくる時もある。けどそんな時は、必ずこの言葉を唱える。

「一方その頃、金星では硫酸の雨が降っていた」

俺がテスト勉強で死にそうになっても、内定が貰えなくて辛い時も、そう呟く。そうすれば、

渉が俺にくれた幸福をいつでも思い出すことができる。

その幸福で、俺は生きていこうと思えた。

俺が生きることをやめなければ、渉は俺の頭の中で生きている。俺の想像で渉は生きていることができる。俺の側で漂って今の俺を見て喜んでいるかもしれないし、天国で俺を待ってるかもしれない。その様子を思い浮かべれば、俺は満たされた気持ちになった。

その中でも俺が一番好きなものは渉が金星にいる想像だった。

渉は金星にいる。

渉は金星にいて、暮らしている。散歩して、眠って、短歌を詠んで、地球を眺めて俺の事を考える。そして時々、硫酸の雨が降れば、その中を踊る。煌めく地面で彼の好きだったあの映画のように。




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金星で硫酸が降る夜 衣純糖度 @yurenai77

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