恋人の遺した妹

彩羅木蒼

1

 「亜美、起きて、次移動教室でしょ。早く行かないと」

 うだる様な暑さの中、机に突っ伏していたあたしの頭上から、大好きな声が優しく降って来た。その声は耳からあたしの中に入り、隅々まで満たして行く。その多幸感に思わず頬が緩むのを感じた。

 その幸せな声を降らせて来た主を見ようと顔を上げる。そこには、窓から差し込む午前中の陽の光に照らされたあたしの恋人、三坂霞みさかかすみが微笑みながら佇んでいた。

 思わず指を通したくなるほどサラサラした艶のある黒髪のロングヘアー。くりっとした大きな目、その黒目は黒水晶の様に美しい。かわいいなと改めて思う。ほんとかわいい。

 一方のあたしは髪を明るい茶色に染めた、耳にはピアスが光るスカート丈の短いギャル。

 正反対の見た目をしているあたし達が2人で居ると色眼鏡で見てくる人間もいるが、もう気にしない事にしている。大好きな霞と居られるのならそんな事はどうでもいい。

「移動教室ってまじか。……あ、いい事思いついた。ねえ霞。あたし達だけ教室で自習にしようよ。移動すんのめんどくさいし、霞と2人だけで居たいし」

 いいでしょ、ね? と続けたあたしに対し、霞はあきれた表情を浮かべて言った。

「まーたそんな事言って。私は先生じゃないからそんなこと決められません。ほら、行くよ」

 そういった霞はあたしの手をとる。

 まあ、霞と一緒ならいいか。あたしはそう思い直し、教室の前の廊下に出た。

 ガラス窓から見える中庭には、夏の暑い日差しが降り注いでいた。開いている窓からはセミの鳴き声が聞こえて来る。——夏だ。霞の体調が良ければ一緒に夏らしい事をしたいな……。

 あたしは移動教室の事に意識を戻す。確か次の時間は理科だから……理科室に行けばいいのか。それならこの廊下を右に進めばいい。

 だが、なぜか霞は右ではなく、反対の左に向かって歩み始めた。まって、そっちは違う。

「霞? そっち違うでしょ。理科室はこっちだよ」

 あたしはそう言って右側を指さすが、霞はなぜかそのまま歩き続ける。

「ちょ、ちょっと霞。どうしたの?」

 なおも反応が無い霞はそのまま歩き続ける。あたしの方を振り返らずに。

 ——なんで振り返らないの?

 その時だった。霞が歩いている廊下の突き辺りの壁に、いきなり大きな穴が出現した。それは人1人なら余裕で入る事が出来るほど大きなものだった。その穴の向こうには、まるで宇宙空間の様な底知れぬ闇が広がっていた。だが、霞は構わずにそのまま進んでいく。

「霞! 危ない! 戻って来て!」

 あたしはそう叫ぶが、霞は全く反応しない。あたしの方を振り返りもしない。

 たまらずあたしは霞の方に向かって駆けだそうとした。この距離なら余裕で間に合う。穴に入ってしまう前に霞を止めないと、そうしないとなぜか霞と二度と会えなくなる様な気がした。

 地面を強く蹴り、霞の元へ駆け出した——はずだった。だが、あたしの体は全くその場から動いていなかった。

「——は? なんで? なんで走れないの?」 

 一向に動かないあたしの体は、まるであたしの意志と切り離された全く別の存在として、霞を失う事を望んでいるかの様に思えた。ダメだ、もうこうなったら叫ぶしかない。あたしは全身の力を声にのせて叫んだ。

「霞! お願い! それ以上進まないで! ねえ! それ以上進んだら危ない! お願いだから! 行かないで!」

 全身で叫んだあたしの声は、最後まで霞に届く事はなかった。まるで、霞が居なくなる事が最初から決まっているかの様な一連の流れに、あたしは強い絶望を感じた。

「やだ……お願い……行かないで。あたしを1人にしないでよ……」

 霞の姿が闇に飲まれて見えなくなるまで、あたしはその場で立ち尽くすことしか出来なかった。



「霞‼」

 鳴り響くアラーム音と共にあたしは飛び起きた。寝ていただけだというのに、部屋着は汗でぐっしょりと濡れていた。

 ——久し振りにみたな。

 さっきの夢は、霞を亡くしてからの数年の間は毎晩の様に見ていた夢だった。

 あたしは今年で28歳になるが、いまだに霞が居ないこの世界を受け入れる事が出来ていない。そう自分では思っているのに、さっきの夢を見る頻度が減っている事が、無意識のうちに霞のいない世界を受け入れている事の象徴のような気がして、嫌だったし寂しかった。

 最後にあの夢を見たのはいつだっただろう。ベッド脇のスマホを手にとり日記アプリを起動する。——あった。3年前の日記にあの夢を見た事が書かれていた。そうか、3年も見ていなかったのか。

 3年振りに霞を見た。逆に言えば、3年間霞を見なくても生きていけたという事になる。

 年月によるものなのか、人間の適応力によるものなのか。あたしは気持ちでは霞の死を受け入れる事が出来ていないと思っているが、あたしの無意識はもう霞のいない世界を受け入れ始めているのかもしれない。その無意識が徐々にあたしの意識に侵食し、霞の不在を当たり前として生きていく様になる事を想像して怖くなった。

 あたしと霞は高校1年生の時に出会った。高校生の時のあたしはまあ、反抗的だったから校則というものを守った事がほとんどなかった。入学時から髪を明るい茶色に染め、スカートの丈は校則で決められた長さから大幅に短くしていた。

 そんなあたしはしょっちゅう風紀委員に注意され、先生にも怒られていた。でも、そんな風紀委員の中で霞だけは違った。ほかの風紀委員や先生方があたしを煙たがる中、霞はあたしがしていたアクセサリーのブランドを聞いてきたり、使っている香水を『いい香りだね』と褒めてくれたりした。あたしのファッションはあの子の雰囲気とは合わないと思ったが、アクセや香水のブランドを教えた時に見せる笑顔がとても印象的だった。

 そんなやり取りから始まったあたし達の交流は、その後徐々に深まっていき、付き合い始めるまでに時間はかからなかった。

 それからの3年間は人生の中で最も満たされた3年間だった。本当に幸せだった。目に入る物全てが鮮やかな色を放ち、あたしの人生、あたしと霞の関係を歓迎してくれている様にすら感じていた。

 あたしは当時やっていたバンド活動にもより精を出した。あたしが作詞作曲をメインで担当していたから、他のバンドメンバーは、霞と付き合いだしてから一気に創作ぺースが上がったあたしに驚いていた。

 霞が見に来てくれたライブはいつもより何倍も良い演奏が出来たのを良く覚えている。

 でも、そんな幸せも長くは続かなかった。1年生の終わり頃から体調を崩す様になった霞は、学校を休みがちになった。そして高校卒業が迫る3年生の2月後半に霞は入院した。

 そこからはあっという間だった。坂道を転げ落ちる様に霞の容体は悪化し、3月1日の朝、透き通る様な快晴の元、霞は18年でその人生を終えた。

 その後のあたしの人生は今日まで色を失ったままだ。仕事をしている時間以外は。

「行かないと」

 今日はこれから仕事だ。色を失ったあたしの人生に、色が戻る唯一の時間。

 あたしはベッドから立ち上がった。



「おはようございます」

 店についたあたしは、裏口から早朝の店内に入って行く。今日は花の入荷日だからいつもより早く出勤した。荷物をロッカーに入れたあたしは、上着は着たままで早速入荷した花の水揚げ作業に取りかかる。

「亜美おはよう! 花、沢山入荷してるからどんどん水揚げしてっちゃって!」

 店長の花菜かなさんの元気の良い声が飛んでくる。

「おはようございます花菜さん。頑張りますよ」

 私が今働いているのは個人営業の小さな生花店だ。バイトの子を含めて六人で営業している。毎日忙しいけど、とても好きな職場だ。

 その後、水揚げ作業と開店準備を終えた所で開店時間を迎えた。

 開店後、あたしは店頭に陳列するためのミニブーケ作りをしていた。小さくてかわいいブーケを作るのは楽しい。アレンジメントを作る時とは違った面白さがある。

 今日1人目のお客様はミニブーケを3つ作り終えた頃にやって来た。来店を知らせる鈴が鳴るのとほぼ同時に「あいたっつ!」という大きな声が聞こえて来た。びっくりして反射的に顔を入り口に向けたが、丁度死角になっていて見えない。大丈夫かな? 様子見に行った方が良いかな? どうするか迷っていると、近くにいた店長が向かった。

「お客様⁉ 大丈夫ですか? お怪我はありませんか?」

「へへ、うっかりしててドアにぶつけちゃいました。もう大丈夫です。ありがとうございます」

 声からして若い女性の様だ。結構痛そうだったけど大丈夫だろうか。まあ、大丈夫だと思おう。ブーケ作りを再会させようとしたその時だった。「わあ、綺麗」というさっきのお客さんの声が店の奥から聞こえた。その「綺麗」には気持ちがこもっていた。そんな「綺麗」があたしが働く店の中で聞けた事に嬉しくなる。本当に花が好きなお客さんなんだな。

 その後、ブーケ作りを終えたあたしは、それを店頭に並べるために、レジカウンター横の作業スペースから店内に出ようとした。今回のはいつもよりも淡い色の花を多めにし、可愛らしい感じに作ってみた。うん、我ながら良く出来てる。

 その時、レジカウンターの方から声が聞こえて来た。

「すみませーん会計お願いします」

 あのお客さんだ。

「今行きます」

 あたしはそう言い、一旦ブーケの陳列は後回しにしてレジに向かった。レジカウンタ―の上にはあたしが以前作ったブーケが置かれていた。

「ありがとうございます。こちらラッピング等はされますか?」

 あたしはそう言い、お客さんの顔を見やる。

「いえ、自分用なので大丈夫です」

 そういって顔を上げたお客さんと目が合った。そのお客さんの顔を正面から見たあたしは、まだ今朝の夢の続きを見ているのかと思った。

「……霞?」

 信じられない。信じられないけど、目の前のお客さんは高校3年で死んだ霞にそっくりだった。


 心臓がキューっとなる。この感覚を現実で味わったのはいつ振りだろう。あたしはその顔から目が離せなくなっていた。サラサラのロングヘアー、印象的な黒目、この子は眼鏡こそ掛けているものの、それ以外は高校時代の霞だった。本当に似ていた。

 いや……待てよ、まさか……。

「あの……店員さん?」

 その声でハッと我に返る。

「あ、ああ。すみません。こちら500円になります」

 会計中もあたしはどこか夢見心地だった。そして袋に入れたブーケを渡し、その子が店の出口に体を向けたその時、左耳に光る1つのピアスが見えた。

 帰っていくその子の背中をレジから見送りながら、あたしは霞が亡くなる直前に漏らした心残りについて思い出していた。


 ——あれは、霞が亡くなる1週間前、病床に伏す霞が、学校帰りに飛んできたあたしに弱く震える声で教えてくれた唯一の心残り。

『ねえ、亜美。本当に私の人生は幸せだった。……あなたが居てくれたから。……けど、ね……1つだけ心残りがあるの。それはね、妹に……小学生の頃に離れ離れになった妹に……最期まで会えなかった事。あの子今頃どうしてるのかなぁ……。あのね……妹と私は、一卵性の双子だから……とても……似てるのよ……』


 ——ねえ、霞。さっきの子。あなたの妹だよね。

 名前は……美織。そう、あの子は三坂美織みさかみおりだ。

 年齢は、確かあたし達より5つ下だから今22歳のはず。

 そこまで思い出した時、さっきまで感じていた夢見心地は跡形もなく消し飛んでいた。

 あの子、んじゃないだろうか。

 レジで多少強引にでも美織ちゃんを引き留めれば良かった。そうしたら霞に何かしらの報告が出来たのではないだろうか。……いや、でも美織ちゃんの気持ちは? あの子は姉の事をどう思っているのだろう? そもそも姉である霞の事を覚えているのだろうか。離れ離れになった時には美織ちゃんはまだ幼稚園生だったはずだ。もし、姉の事を忘れていたり会いたいと思っていないとしたら、そんな状態で強引に霞の事を突き付けるのは美織ちゃんも霞も多分望まないはず。

「ちょっと、亜美、ぼーっとしてないで、これから配達でしょ?」

 花菜さんの言葉であたしの意識は一気に店内に引き戻された。

「あ! すみません。直ぐに用意します。1号車使いますね」

「よろしく! 気を付けてよ」

「はい、行ってきます」

 後から考えよう。今は仕事に集中しなくちゃ。あたしはバンの鍵をもって店の外に出た。

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