牛丼ラプソディ
遠藤ロール
第1話
朝から小雨が降っていた。
マンションの部屋を出てエントランスに出た時に傘を忘れたことに気づいて、それでも電車に乗り遅れてはいけないと電車まで走った。何とかギリギリ通勤の人でごった返す車両に乗り込めば遅延が生じたし、オフィスに着けば1週間前に仕上げたはずの仕事にミスが発覚した。
今日はとことんツイていない。
いつもの如く会社の電気が消えるギリギリまで残業を終え、零れるため息を隠しもせずに少し人の減った電車で目を瞑る。車内の広告のうるさい装丁を目にすることさえ今の俺にとってはストレスだった。
最寄りの駅に到着して、改札を通ったあと。
ギターの音と伸びやかな歌声が聞こえてきた。
閉店時間を迎えて静かになった百貨店のショーウィンドウの前で、金髪の男性が1人で歌っている。にこやかな笑顔でギターをかき鳴らす彼の周りに、観客は誰一人としていなかった。ギターケースに立てかけられたスケッチボードには、少し歪んだ字で「佐藤あゆむ」と書かれている。その下にはSNSのアカウント名。
彼は、いつぞやの朝ドラで主題歌になった有名な曲をカバーしていた。
最近よく見かける人だった。この場所で歌っていて、ちらりと横目で見て気になっていた。数分だけ立ち止まったこともある。
いつもならすぐに帰るのだが、その日の俺は何故だかしっかり足を止めた。無機質なこの街に不似合いな歌声を聴きたくなったのか、それとも単にいつもと違うことをしてストレスを追いやりたいと思ったからなのかは分からない。ただ、諦めずに懸命に汗をかいて歌い、通りすがりの人へ届けようとする彼の姿に胸を打たれたのだけは確かだった。
少しだけ離れたところから見守り、最後のギターの音が止まった瞬間に俺は彼に拍手を送った。彼は目を丸めてひどく驚いた顔をして、そしてニカッと大きな口で笑った。よく通る声で「ありがとうございます!」と言ってギターをいじりながら、次の曲が最後だと告げた。
「オリジナルソングです。…聴いてください」
スローテンポな前奏から始まるその曲は、俺の疲れきった体に染み渡るように響いた。
一瞬大きく息を吸って歌い出した彼の姿は、とても綺麗で。
歌というのは不思議な力を持つものだということを、俺はこのとき真の意味で実感した。
彼が歌えば、言葉は宝石になった。メロディに乗った感情は人の心へと真っ直ぐ突き刺さる。
どうして街ゆく人は足を止めないのだろう。こんなにも眩い輝きが暗がりの中にいるというのに。
俺はその日、唐突に彼のファンになってしまった。
やがて歌い終わり、深く礼をした彼はギターをしまい始めた。結局、たまに足を止めて聞く人はいたものの、俺以外にずっと居続ける観客は現れなかった。
昼時にコンビニでお釣りとしてもらった小銭をポケットに入れっぱなしであることに気づき、俺は彼の元へ歩み寄ってギターケースの中に小銭を入れた。
それを見た彼は心底嬉しそうに微笑んで、「お兄さん、ありがとうございます!」とよく通る声で言った。
彼のことが気になって、俺は思わず声をかける。
「いつもここで歌ってますよね。初めてちゃんと聴いたんですけど、すげぇ引き込まれました」
「わ、ありがとうございます」
「俺こういうのあんまり見るタイプじゃないんですけど、感動しちゃって」
「うわ〜マジすか!超嬉しい!俺、最近仕事辞めて歌手になったんです。長年の夢追いかけたいなと思って突然キッパリと。ただ、あまりにも行き当たりばったりで全然振るわないんですけどね」
ほらこの通り、とほぼ空のギターケースを指差して彼は少し寂しく笑った。
「仕事辞めたんですか。すごいな…」
俺は昔から大きな夢というものが無かった。親からは大した圧力も無かったが、かと言ってやりたいことも無かったので、そこそこの大学に入り、そこそこの企業に就職するという平凡なコースを歩んだ。
そんな俺とは対照的に、仕事を辞めてまで野望を追いかける彼はとてもかっこよく見えて。
「いやぁ、お金なくて常にギリギリで…恥ずかしい限りです」
彼は、頬を赤らめて話す。
この歌うたいの話を、もう少し聞いてみたくなった。
「あの、もし時間あったらメシ食いに行きません?奢りますから」
「えっ!?いやいや!そんなの申し訳ないです!」
彼は顔の前で手を思い切り横に振って断った。
それでも、俺はどうしても彼と話をしてみたい。
「あなたの曲を聞かせてもらったお礼です」
「いやでも、投げ銭も頂きましたし…」
その時、彼のお腹がぐーと大きな音を立てて鳴った。途端に真っ赤になり、顔を覆う姿は可愛らしくて。
「あはは!ほら、身体は正直ですから。あ、そしたら牛丼にしましょ。安いし、それならいいでしょ?」
そう言えば、彼は「うー…」と言いつつも、ありがとうございます、と微笑んだ。
ギターを片付ける彼の姿を見ながら、一連の自分の行動に我ながら驚いた。こんな風に路上ライブをしっかり見たのはもちろんのこと、見ず知らずの人に話しかけるなんて普段ならありえない。
それだけきっと、俺は彼の音楽に惚れてしまったのだと思う。
*
牛丼屋に入ると、店内ではスーツを着たサラリーマンが3人ほどカウンターに座って食事をしていた。時刻は21時を回っている。
2人でテーブル席に座り、牛丼の並盛を頼んだ。
佐藤さんは25歳で、俺と同い年だった。学生の頃から歌手になりたかったものの、家族の反対もあり就職。しかし夢を諦めきれず、先々月に仕事を辞めて曲を作っては路上ライブをしているそうだ。
肉の上に紅しょうがを乗せながら彼は言う。
「ライブに出るのにもお金がいるので、あっという間に貯金無くなっていくんですよね〜」
「え、出るとお金貰えるんじゃないんですか?」
「僕は売れてないので…。出演料はもちろん、裁かなきゃいけないチケットのノルマもあるし」
売れない歌手というものは大変な世界であるらしい。
「俺、佐藤さんの音楽がもっと広く知られて欲しいです。正直、これまでこんなにも歌が響いたことって無くて」
そう言えば、彼は嬉しそうに頭をかく。
「朝からほんと不幸続きで、どうしたもんかな〜と疲れ果てて帰ってきた俺に、あなたの歌がすっごい沁みたんです。不思議な力があると思いました。佐藤さんは絶対に売れます。…って素人から言われてもって感じだと思いますけど」
俺が苦笑すると、彼ははにかんで言った。
「ふふ。阿達さんすっごい褒めてくれるから自信に繋がる。誰も足を止めてくれなくて最近めっちゃ凹んでたんで…ほんとにありがとうございます」
「また次の路上も楽しみにしてますね」
その日食べた牛丼は、いつもより優しい味がした。
*
今日は水曜日だ。山積みの残業を最速で片付けて電車へ飛び乗った。
改札を抜けると、今日も遠くからギターの音がする。
あゆむだ。
彼は定期的にこの駅前で路上ライブをしている。
毎週水曜日。その他不定期。
スタートには間に合ったり間に合わなかったり。
それでもどんな時でも、俺を見かけるとあゆむはピックを持つ手をこちらに向けて嬉しそうに笑う。
気づけば、これが俺たちの合図になった。
最初はほぼいなかった観客も、次第に増えてきた。たまに小さな人だかりができていることもある。置かれた自作のCDは、ちょくちょく売れているそうだ。独創的でクセになる彼の曲は、クチコミで広まっていた。
「ありがとうございましたー!」
演奏を終えたあゆむは、皆に礼をして後片付けを始める。
「おつかれ」
スケッチブックを閉じている彼に声をかけた。
「あだっち!今日も見てくれてありがとう」
佐藤さんは俺のことを苗字をもじって『あだっち』と呼び、俺は彼を『あゆむ』と呼ぶ仲になった。
しかし、歌手と観客という関係は変わらない。連絡先も知らない。
ただ、この時間にここに来ればあゆむの歌が聴ける。それが毎週の楽しみだった。
そしてたまに一緒に牛丼屋へ行く。その日の披露した曲の良いと思ったところを率直にあゆむに伝えれば、彼はいつも嬉しそうに顔を赤くする。
以前、ライブにも行きたいと伝えたことがある。しかし彼は、「あだっちにちゃんと見てもらうのはもっと大きな会場がいい」と言った。何故かと問えば、「それが俺ができる唯一の恩返しだから。いつか絶対に特等席に招待するよ」と。
だから俺は、彼の路上ライブだけを見る。
投げ銭代わりの牛丼並盛。
「牛丼って紅しょうが必須じゃない?」
俺が言ったそのセリフは、いつも友人から「そこまで言うもんでもなくない?」とツッコまれるものだったのだが、彼は違った。
「分かる。紅しょうがの無い牛丼なんて牛丼じゃない」
初めて得られた同意が嬉しくて、2人でたらふく乗せるのが恒例になった。
「全国のCDショップにCDが置かれるようになりたい」「メジャーデビューがしたい」「音楽番組に出てみたい」「武道館でライブがしたい」…。彼は薄い麦茶を片手に、溢れんばかりの夢を語った。
それははるか遠くの夢物語のように感じつつも、不思議とあゆむならば叶えられるのではないかと思う自分もいた。
彼が自宅へ帰るために乗る電車は23:10発。
路上ライブ終わりの牛丼屋。
彼の電車の時間ギリギリまで、俺たちは語り合う。
夢追う彼は、美しかった。真っ直ぐな瞳で見つめる先には何が見えているのか知りたい。俺は、彼の紡ぐ唄が好きだった。
ある日、駅までの道のりを歩きながら彼は言った。
「俺、ラブソングは書かないんだよね」
確かに、彼のオリジナル曲は全て応援歌だったり家族への愛だったりする。
何故かと問えば、彼はこう言った。
「歌手ってみんな愛とか恋ばかり歌うでしょ?でも俺は、ラブソングは大切な人のためだけに歌いたくて。本当に伝えたい時にとっておくの。」
不思議な人だ。
いつしか俺は、彼のラブソングも聴きたくなっていた。
*
ある日、SNSを見ていれば大量のいいねが付いた動画が流れてきた。
それを見て、俺は驚愕する。
何故ならば、あゆむが歌っているものだったからだ。
数日前の路上ライブの観客がSNSにアップした映像は、一気に拡散されたらしい。
そうして次の水曜の路上ライブでは、見たことのないくらい多くの人が駅前にいた。人が多すぎて、開始時間に間に合わなかった俺は彼と目を合わせることさえ出来なかった。
その次、またその次…。日に日に観客は増え、定期開催のライブは不定期になった。
そして有名インフルエンサーがあゆむの歌に反応したことをきっかけに、その人気は瞬く間に全国区へと拡がった。光の速さとはまさにこの事だと思う。
駆け上っていくあゆむを見る度に嬉しかった。彼の夢が現実になるかもしれない。
とうに牛丼を奢るなんて存在じゃなくなって、路上ライブの際は遠くから曲を聴いてそっと家に帰った。サインを強請る人やCDを購入する人を捌く彼は忙しそうだ。
そうして、ついに彼の路上ライブは開催されなくなった。
*
*
*
あゆむの路上ライブを見ない水曜日が、俺の当たり前になった。家に帰って、とりあえず開けたビールを流し込みながらテレビを見る。
テレビでは、音楽番組が流れている。トークコーナーでは数人のアーティストが楽しそうに話をしていた。収録済の放送らしく、大袈裟なテロップが付いている。
そのゲストの中の一人に、あゆむがいた。
彼は今や日本のトップアーティストの仲間入りをして、新曲を出せば必ずチャートにランクインする。全国のCDショップにCDが並び、メジャーデビューした。音楽番組にも出演した。全国ツアーもした。
遠い存在になってしまったあゆむを見て、俺はいつも嬉しさと同時に切なさで胸が締め付けられる。
連絡先くらい交換しておけばよかったと今になって思う。毎週同じ時間に会えるのだからとあのとき呑気に構えていた後悔は計り知れない。
彼と過ごした牛丼屋や路上ライブの場所を見ればなんだか寂しくなって、俺は他の駅の近くに引っ越した。通勤時間が少し短くなり、割と快適な日々を過ごしている。
昔彼から直接買ったCDには、サインとともに曲がった字で「あだっちへ いつもありがとう」という文字が書かれていた。
あの関係性は、彼にとっては友達とさえ言えたものではないかもしれない。ただ毎週路上ライブを見て、牛丼を勝手に奢って感想を述べる観客。それでも、「あだっちが見てくれるから頑張れんだよ、俺」といういつの日かの何気ない言葉が今でも心に残っている。
踏み込みすぎないように距離感を保って聴き続けた彼の音楽だったが、いざ離れてしまえば踏み込んでしまえばよかったと後悔する自分もいる。でももう遅いのだ。
ライブには行けなかった。
一度、チケットを買おうとボタンを押しかけたことがある。しかし俺は、「いつか絶対に特等席に招待するよ」なんて昔の約束を忘れられなかった。
遠くに行ってしまった現実と、あの日から変わらぬ輝きの狭間で俺は苦しくなる。
『──あゆむくんは今度武道館決まったんでしょ?』
テレビの中の司会者は、彼に話しかける。
『はい!ずっと目標にしてた舞台だったので…とても嬉しくて。お世話になった方々への恩返しのつもりで演りたいと思います』
丁寧なヘアメイクを施された状態で、真っ直ぐに話す彼は昔よりさらに美しくなっている。
『それに向けて新しいアルバムを制作されたと。…ラブソングを作らないことで有名だったあゆむくんですが、今回はついに解禁したと噂を聞いたのですが?』
司会者は楽しそうに尋ねた。
『はい。恥ずかしいんですけど…ついに作りました』
あゆむ、ラブソング作ったんだ。アルバムが出ることは知っていたけどそこまでは知らなかった。
"大切な人のためだけに歌いたくて。本当に伝えたい時にとっておくの"という、いつかの彼の言葉を思い出す。
メジャーデビューしてしまえば、大人の指示に従わなければならないのだろうか。あんなに頑なに歌わないと言っていたのに。
…もしくは、本当に大切な人ができたとか。
売れっ子には、俺には分からない世界があるに違いない。
『その曲を、今日はこの番組で初お披露目してくださると』
『はい!どうしてもこの番組で初披露したかったんです』
『ありがたいことですねぇ〜。その曲名は何でしょうか?』
『2310、です』
テロップに、『2310』と出た。
どっかで見た事のある数字の羅列だな、と俺は首をかしげる。
『ほう。また不思議な数字ですね。どんな意味があるのですか?』
『名前が佐藤なので、「310」という数字には昔から親近感があるっていうのも一つの理由ですが…実はこれには意味があるんです。まあ皆さんにはご自由に想像して楽しんでいただくって感じで!』
『なるほど。歌詞も変わっていますしね。楽しみです。皆様注目してお聴き下さい。…それでは、佐藤あゆむで、「2310」』
スタジオが暗転する。
スポットライトに照らされたステージのセンターには、ギターを持つあゆむ。
彼は、ピックを持つ手でカメラを指さした。
ニコッと笑い、息を吸って歌い出す。
それは、あの時と同じだった。俺とあゆむにだけ分かる合図。路上ライブに来た俺を見つければ、彼が必ずやったその動き。
食い入るようにテレビを見つめた。
"君は今どこで何をしているのだろう
笑顔の魔法を僕にかけて
自信と勇気と宝石を
君と食べたあの味は
腐りかけた僕の心の芯まで温めて
君がいたから僕は歌った
君がいない世界で歌うことは
紅しょうがの無い牛丼みたいで
また僕の話を聴いてくれないか
片手にどデカい夢 もう片方に薄い麦茶を
君は今でも色鮮やかに僕の世界を彩って
ばいばいも言えずにごめん
ありがとうくらい言わせてくれたっていいじゃないか
好きだよ 君が好きなんだ
ちゃんと伝わるといいな
そのときまで、僕は今日もここで君を待つ"
最後の音が流れた後、彼はまた冒頭と同じ動きをした。ピックをカメラに向けて。
視界が滲んだ俺の空目かもしれない。
でもそのとき彼は、声には出さずに「あだっち」と口を動かした気がしたから。
俺は財布と携帯だけを持って、急いで家を飛び出した。
*
電車に乗った。
馴染み深い路線。それでも、なぜだか今日は全く異なる景色に見えた。
22:50、駅に着いた。あと20分。まだ間に合う。
ギターの音も彼の声も聞こえない。あの頃とは違う駅。
先程テレビから流れたメロディは、走り出す俺の脳内で鳴り響いていた。
*
百貨店のショーウィンドウの前。
そこには黒いハットを被りマスクを付けている男が立っていた。
息を弾ませる俺を見て、彼はマスクを外した。そして、俺を指さして呟いた。
「やっと来た」
先程までテレビで見ていた金髪の男は、何故か今俺の目の前にいた。
「…ラブソング歌わないんじゃなかったの」
俺がそう尋ねれば、彼はふわりと笑って答えた。
「うん。俺は大切な人のためだけに歌うからね」
「テレビで歌ったじゃん」
彼は、「うはは!」と大きな声で笑う。
そうだ、こいつは地声から大きいんだったと思い出す。
「でも俺はたった1人に向けて歌ったよ。周りの観客には盗み見られてるだけ」
いたずらが成功した子供のように、彼はピースサインを作る。
「なにそれ」
「ふふ。初披露だったんだけど、どうだった?俺の新曲」
変わらない会話のテンポ感も、新曲を歌う度に『どうだった?』と語尾を上げて聞くその喋り方も、全てが懐かしい。
目を輝かせて俺の言葉を待つ彼に、何と言葉をかけようかと思案する。
「…相変わらずぶっ飛んでてバカだなって思ったよ。何だよラブソングに紅しょうがって」
「だって思い出の味なんだもん」
そう言った彼は、眩い煌めきを纏っていた。
しばしの沈黙の後、あゆむは俺に1枚の封筒を差し出した。
そっと受け取れば、封を開けるように促される。
そこには、『佐藤あゆむ 初武道館単独ライブ』の文字。
「お前…これ…」
「今度の単独のチケット。俺ができる唯一の恩返し。あだっちを特等席に招待するよ」
書かれた座席番号を見れば、A5ブロックの1列目。確かこの席は────、
「1列目、どセンター。無理言って確保してもらった。いちばん見やすい席でどうしても見て欲しくて」
どうして。なんでこんなことまでして、俺を。
そう言いたかったが、突然のことだらけでその言葉は音にならず、俺は固まったまま彼の表情を見つめた。
「ずっとあだっちに会いたかった。突然売れて、何も分からないままがむしゃらに曲作ってたら、あだっちがいなくなってて。連絡先くらい聞いとけばよかったって何度思ったことか」
「あゆむ…」
「俺は、あだっちに牛丼屋で感想を聞きたかったんだ。あだっちじゃなきゃだめだった。何回も23:10までここで待ってたのに、いつも駅に来なかったから」
俺は探したんだぞ、と頬を膨らませて言う彼は、あまりにも可愛らしい。
「そんな来てたの、俺知らねえもん…。あゆむの路上ライブが無くなってから結構すぐに引っ越したから」
「おいマジか〜!駅前の主である俺の許可なく勝手に引っ越すなよお前〜」
彼はチョけてそう言う。
「いいだろ別に無許可で引っ越したって」
俺がツッコめばケタケタと笑う姿は、あの時と変わらなかったけれど。
「…もう、来てくれないかと思った」
ふと睫毛を伏せて寂しそうに言った彼の横顔は、あの頃より憂いを帯びていた。
「あんな曲歌われたら這いつくばってでも来るだろ」
そう言えば、あゆむは嬉しそうにはにかんだ。
「まさかあんな無謀な計画が成功するなんて」
「俺がテレビ見てなかったらどうするつもりだったんだよ」
「ん〜…でもなんか見る気がしたんだよね」
「エスパーじゃん」
そう言って俺たちは2人で笑った。
「ねえあゆむ、LINE交換しよ」
彼はポケットから自分のスマホを取り出した。
「あはは!地上波で盛大にあんなことやった後にする会話じゃねえ」
「はは!言えてる」
連絡先を交換したあと、あゆむは俺に尋ねる。
「メシ食った?」
「まだ」
「じゃあ牛丼食お」
ニヤリと笑う彼は、楽しそうで。
俺も思わず口角が上がる。
「めっちゃ紅しょうがかけよ」
「…ふふ、あれ良い歌詞だったっしょ?」
「まあな。でも人のこと紅しょうがって言うのはどうかと思うわ」
「あだっちだからしょうがないだろ」
「なんだよしょうがないって」
近くの牛丼屋に向かって歩きながら、俺は彼に向かって小さく呟く。
「…あゆむ、俺嬉しかったよ。ありがとな」
あゆむは頬を緩ませて「そっか。こちらこそありがとう」と笑った。
「…あと、俺もお前が好きかもしれん」
気恥ずかしくて小さな声で曖昧に伝えてみれば、あゆむは「なんだそれ。断定形じゃないのかよ」と笑った。
彼のマスクの下の顔が真っ赤になっていることを、俺は知らない。
懐かしい牛丼屋のドアを開けながら、俺は何から話そうか考えた。
お前に伝えていないことが沢山あるんだ。
この感情の名前はまだよく分からないけれど。
とりあえず俺は、お前のラブソングを聴くという夢が叶ってたまらなく幸せだよ。
『牛丼ラプソディー』
(終)
牛丼ラプソディ 遠藤ロール @oishiiosushi
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