白紙の遺書

@Sakitohs

白紙の遺書

ある日、彼女が死んだ。

首を吊って、死んでいた。

仕事から帰ってきて、ただいまと言って、返事がなかった。不審に思いつつ、家に上がると、そこに遺体があった。死んでから間もないのか、死臭もしなかった。


彼女が死んでいる


その事実が頭を埋め尽くした。でも、涙は出なかった。悲しくなかった。ただただ、彼女が愛おしくなった。首紐から彼女を床に下ろし、寝かせる。綺麗な死に顔だった。仏像とか、地蔵とかのような笑顔で死んでいた。彼女は解放されたのだ、この辛く苦しい世の中から。彼女を抱きしめる。温もりはもうなかったが、彼女は確かにここにいた。頬をなで、口付けをして、そのあと、彼女の耳元で呟いてしまった。


「卑怯者」


あぁ、クソ。来るんじゃなかった。どこもかしこも、碌な大人がいやしない。

「ウェーイ!」

「生ください!」

「それでねー彼氏がねー・・・」

僕は個室の片隅に座っていた。グラスのなかで金色に光る欲望の塊をちびちび飲みながら、その喧騒を傍観していた。

この集まりはバイトを一緒にしていたひとたちだ。働いてる飲食店の各支店の人たちも集めた、合同研修の宴会に僕はいる。研修を受けたあと、僕はこの打ち上げに誘われてしまった。こんなことを思うくらいにはどうでもいい奴らばかりだから、もちろん断ろうとした。だが、これまた面倒臭い先輩にウザ絡みされて、結局来てしまった。今では、人に流されやすい自分を恨むばかりだ。

「隣、いいですか?」

ふと横を見ると、女性がいた。

「えぇ、まぁ・・・」

アイロンされているであろう綺麗な黒髪に、整った顔たち、それに若干色っぽく見える服。側から見れば、モテるような容姿をしていた。

彼女が私の隣に座る。距離が近いな、離れろよ。

「向井さん、楽しくなさそうですね」

「あぁ、はい。こう言う人混みは苦手で・・・。それにお酒はあんまり得意じゃないんです」

「そうなんですね。実は私もなんですよ。それで少し距離を置きたくて、ここに来たんです」

嘘のような気がする。だって、明らかに格好がエンジョイしてるやつの格好だ。しかも、バイトの中でもそんな人には見えなかった。

桐谷さん、この人はいつも何かと全体を助けてくれる人だ。バイトで誰かがミスをすると、すぐにフォローするし、何か見落としがあっても、さりげなくそれを代わりにやってくれる。そして、僕に話しかけてくる数少ない人間だ。

なぜ、僕に構うのか、よくわからない。向井翔太、それが僕だ。僕はこの人みたいな人間じゃない。いつも自分のことで精一杯だし、誰かを助けるなんてことはしない。外見も違う。髪もボサボサで、髭が目立たない顔には生気がなく、おまけに体はガリガリだ。でも、この人は何かと僕にかまってくる。

「向井さんって彼女とかいるんですか?」

「え・・・」

思考が止まった。

「どうなんですか?」

「いや、いないよ。いたけど、亡くなった」

「あ・・・すいません。無粋なこと聞いて」

「いや、いいよ。もう吹っ切れているから」

「でも、そうなんですね。今、彼女いないのかぁ」

(嘘だ)

頭が痛い。お酒をたくさん飲んだわけじゃないのに、平衡感覚が失われていく。

そうだ、彼女は死んだんだ。何も残さずに、死んだ。ただ一つのものを除いて。

それは、呪いだった。それは、愛だった。それは、弱さだった。それは、証明だった。彼女が生きた証。彼女が死んだ証。彼女を救えなかった証。


それは、ただの紙だった。首を吊って、死んだ彼女のそばに置かれていた、一枚の、白紙の紙。彼女の遺書だった。あぁそうだ、彼女は書き置き一つしたためて部屋で一人、眠ってしまっていた。


あの日の情景が蘇る。綺麗な黒髪、整った顔たち、色っぽい服。

そうか、嫌いだった理由がわかった。彼女は、この人に似ていたんだ。性格も表情も仕草も、全部。だから嫌いだった。彼女の姿をして、生きているこの人が大嫌いだ。


「向井さんの中で、過去になってよかった。向井さん、今、幸せそうですもん」


は?

何を言ってるんだこいつは?今、いるじゃないか、君が。君が言う過去が、今ここに。しかも、僕が幸せそうだって?冗談じゃない。何も満たされてない。金があっても、人がいても、女がいても、何一つ、幸せじゃない。そうであってたまるか。

しかし、彼女は言う。大嫌いな声で言う。1番言ってほしくない言葉を。


「ねぇ、向井さん。好きです。付き合って。」


あの時は、もう過去なのか。

彼女と送った、幸せだった日々は、もう戻らないのか。

だって、君が言うはずがない。そんなことを。

好きだと、一言も言ってくれなかった彼女がそんなことを言うはずがない。

不器用で、心を言葉にするのが苦手な彼女が。

君は違うんだ、彼女とは違う。似ていたけど、違う。全部というのは、嘘だった。


君は、彼女じゃない。

彼女はもう、どこにもいない。


「ふざけるな!」


乱暴に言葉を散らかす。


「君なんか、消えてしまえばいい!亡霊のように僕に付き纏って!しつこいんだよ!僕は、もう2度と、人を愛すことはない。愛せない。だって、報われないから。そうだろう!?好きと言ったその口も、僕を見据えているその目も、この言葉を聞いているその耳も、最後には僕を裏切るんだ!今だってそうだ!今、君は僕の期待を裏切った。侮辱した。だからもう、金輪際僕に関わらないでくれ!」


おもむろに財布から紙幣をとりだし、机に叩きつける。そして、さっきまで騒いでいた癖に、急に静かになって僕を睨んでいるやつらを押しのけて店を出る。

走る、走る。動悸がする。

今までの幻想が壊れた心地は、最悪だ。


いつの間にか、家にいた。ふと、あたりを見渡す。僕の部屋だ。布団と本棚とゴミ箱以外置かれていない、生活感のない部屋。いつもと違うのは、ゴミ箱が倒れて、部屋が散乱していた。

「あぁ...クソ...。なんで、こんなときに思い出すんだ...。あぁ!ああああああああああ!」

慟哭、咆哮。おおよそ人間のすることじゃない。でも、僕は人間じゃない。いつまでも、過去に心を置いてきてしまった、屍だ。桐谷さんを傷つけてしまった、人でなしだ。

僕は叫んで、ものを投げて、また叫んで、そうやっているうちに疲れ果てて床に寝っ転がった。あたりは原稿用紙や、本、その他様々なもので散らかっていた。見渡しているとき、ふと紙が目についた。それは彼女の遺書だった。

遺書と梱包紙に書かれている。もう一度、確かめたくなって紙を開いてみた。やっぱり、中には白紙の紙しかない。彼女自身のことも、彼女の家族のことも、彼女の彼氏のことも何一つ書かれていない。

「なんで、君一人だけで逝ってしまうんだ・・・。僕を残して、勝手に出ていって・・・。なんで、僕も連れていってくれないんだ・・・卑怯者。」


瞬間、閃いた。

彼女はもういない。なら、僕が彼女をどうしようと勝手だ。彼女にかけて欲しかった言葉、もっと触れたかった体、髪、瞳。


その全てを僕が創ってやる。


僕は小説家だ。バイトは副業で、お金がなかったからしていただけだ。ある時から、小説で金を稼ぐことに怯えてしまって、小説が書けなくなっていた。でも、今回は違う。僕は彼女への復讐のために、小説を書く。だから、きっと書けるはずだ。早速、床に落ちた原稿用紙を拾い、机に積み重ねる。机の横のたんすから愛用の万年筆を取り出す。紙を正面に据えて、万年筆で、一つ、一つ、丁寧に言葉を紡ぐ。


小説の主人公は君と同じ名前だ。プロのアーティストを目指して、上京した女の子。でも、いつの間にか突然、作曲できなくなる。自分の魂を込めた音楽で、人を救いたかったのに、お金を稼ぐための音楽しか作れないようになったからだ。


あらすじはこうしよう。初めは、希望に満ち溢れていた東京での生活がだんだん苦しくなっていき、次第に酒に溺れていく。ある夜に、行きつけのバーで飲んでいると、ある男と運命的な出逢いを果たす。その男の境遇は、彼女にとてもよく似ていた。一つ違うのは、小説家なことだけ。二人は次第にひかれあい、愛を確かめ合い、同棲するようになる。でも、彼女の心は満たされなかった。彼女は「愛している」とナイフを残して先に旅立ってしまう。それをみた男は、彼女の遺したナイフで首を切った。そして、いつの日かまた出会うのだ。


朝も、昼も、夜も、春も、夏も、秋も、冬も、とにかく書いた。生活が不規則になっても、頬が痩せこけても、笑顔がぎこちなくなっても、お金がなくなっても、バイトを辞めて、ただひたすらに書いた。また、君に会えるような気がしたから。君のそばに行けるような気がしたから。そうだ、僕は友達が欲しかったんだ。創作を通じて、創作を語り合える友達が。それがまさに君だった。あの夜、僕らは運命的な出会いをしたんだ。社会の底辺みたいな、薄暗いあのバーで。あそこのお酒がうまいおかげで、僕はビールが嫌いになった。だから、飲み会が嫌だった。でも、君が嫌いなのは嘘だった。小説を書いて分かった。本当は、君が愛おしくて、愛おしくて、たまらなかった。君が死んだあの日でも、僕は君を愛していた。「卑怯者」は負け惜しみだ。君は僕よりずっと、アーティストとして優れていた。琴線に響く音色、心に染みる歌詞。全てが才能に満ち溢れていた。だから、ずっとずっと嫉妬していたんだ。君がある日突然死んだとき、僕は勝ち逃げされたような気がした。だから、負け惜しみをしてしまった。嫌いだと言って、自分を誤魔化し続けていた。そんな僕に君は、もう一度生きる意味を与えてくれた。桐谷さんが君に似ていたのは、偶然なんかじゃない。君のいたずらだ。君はもう一度、僕の前に現れてくれて、こうして生きる意味を与えてくれた。だから僕は今度こそ、君に恩を返すんだ。白紙のような君の心にもう一度、文字を染み付かせるんだ。そして、僕と君の、生きた証を立てるんだ。


「ねぇ、また小説、書いて見せてよ。あなたの小説が好きなの、私。」

君の言葉が今更頭に響く。

そうだね、もうちょっとで完成するよ。あの世まで轟く、小説が。


「書けた・・・!」

小説が、完成した。何度も何度も推敲した、力作だ。

これを広められたら、確かに僕たちがここで生きたんだという証明ができる。

コンクールに応募しよう。

受賞できたら書籍販売されるらしいから、広めるのにはちょうどいいだろう。


ある日、小説が発表された。

それは世間を騒がせた。その小説には、人の心を動かす力があった。

書籍が爆発的に売れ、次いで映画化もされた。

数ある本の中でも頭ひとつ飛び抜けて、人気だった。

ただ、一つ難点があった。それは作者が不明なこと。

住所も、本名も何一つ書かれてなかった。

なので、映画の収入も、本の収入も、会社だけに還元された。

ちなみに、正体不明の作者のペンネームは「邂逅」と書かれていた。


「君に恩返し、できたかな」

結局、僕は小説でお金を稼ぐことはしなかった。やっぱり、怖かった。僕の小説が、僕の魂を分けた子供が、お金に汚されるような気がして。君と同じだ、やっぱり。

僕の小説は、僕の心の空白を埋めてくれた。あの小説が世の中に広まったとき、僕は確かに救われた。君と僕の辿った道が、意味あるものだったと確証を得られたから。きっと、あの世で君も読んでいるかな。君の心も今ならわかる気がする。小説を通じて、君ともう一度会えたから。だから、この白紙の内容も今ならわかるよ。君はきっと書いて欲しかったんだ、僕に遺書を。君は、君の生きた証を僕に託してくれたんだ。君の人生を僕は今確かに、この世に残したよ。


私は生きたよ。頑張って生きたよ。


僕はその言葉を白紙の遺書に書いて、万年筆を置く。

人生は長く苦しい戦いだ。でも、生きる意味は確かにある。

だから僕はもう、自殺した君を卑怯者とは呼ばない。こう呼ぼう。

自分の限界まで戦い抜いた、勇者と。

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