鬼はたまゆら、帝都に酔う
古河 樹/富士見L文庫
第1話 桜が舞い、少尉は鬼と出逢う
この国には昔から
あやかし、妖怪、物の怪など、呼び方は様々だが、それらは総じて人々の営みに深く関わってきた。
帝都軍の軍人、
見上げた先には、青空。
帝都軍本部の屋根の上には世にも美しい怪異が立っていた。
「いい風だ。桜の香りがする。俺の髪を遊ばせるには相応しい」
言葉通りに長い髪を風になびかせ、怪異は艶やかに笑う。身にまとっているのは上質で派手な着物。襟元は大きく開かれ、白い鎖骨が覗くほどに着崩している。
風に流れる髪の間からは――角が生えているのが見えた。
鬼だ。
怪異の鬼は地上の彰人を見下ろして言う。
「ここの奴らは帝都軍といったか? 見たところ、帝都軍で最も腕の立つ術者はお前だな。そうだろう?」
相違ない。彰人は帝都軍のなかでも怪異対処に特化した部署、
腰のサーベルに手を掛け、彰人は頭上を睨んだ。
「私に何の用だ? 自ら斬られにきたというのならば褒めてやる」
すると鬼は腰に手を当て、さらに笑みを深めた。
「なるほどなるほど、佇まいは悪くない。しかし覚悟の方はどうだろうな?」
すっと手のひらが掲げられた。次の瞬間、白い指先に突如、真っ赤な炎が巻き起こる。鬼が駆使する怪異の炎、鬼火である。
「俺はこの世で最も美しく、そして最も強大な怪異だ。人間風情が立ち向かうのならば、命を賭した術の一つや二つは必要だろう。人間よ、お前はその身を賭して俺に挑む覚悟はあるか?」
言葉にするまでもない。腰のサーベルを抜き放つことによって答えとした。
彰人はこの鬼と対峙する以前に、軍上層部からすでに命令を受けている。上官である中将は彰人にこう言った。
神宮寺少尉、伝説の鬼を討ってくれ。
帝都の平穏のため、君には贄になってほしい、と。
望むところだ。この帝都に蔓延る怪異を残らず掃討することは、彰人にとっても悲願である。その礎となれるのならば、己が命など惜しくはない。
「ほう?」
鬼がすっと目を細める。
「どうやら腹は決まっているらしいな」
ふいに風が強さを増した。
春先の突風が吹き荒れ、帝都軍の敷地の桜が花びらを散らす。
青空の下、花吹雪のように桜が舞うなかで。
孤高の軍人と伝説の鬼は対峙した――。
◇ ◇ ◇
帝都大橋通りの煉瓦街。
ここでは文明開化後、古い木造建築が取り壊され、一斉に煉瓦作りの街並みへと建て替えが行われていた。ガス灯が通りの両端に整然と並び、西洋建築を真似た煉瓦の建物がどこまでも連なっている。
人通りも多く、男性は羽織姿に帽子を被り、角袖外套を羽織った者が多い。女性は鯨帯を巻き、小袖姿でパラソルや手提げ鞄を持つ者が目立っていた。
帝都成立から数十年が経ち、すでに髷を結った侍たちの姿はない。
時代は移り変わろうとしていた。
しかしそれでもなお、怪異は現れる。
帝都大橋通りの一角に店を構える、老舗の呉服商『
その周囲に人だかりが出来ていた。彼らの視線は頭上に向けられている。『白鶴屋』の建物は白色煉瓦を基本としているが、屋根だけは対照的に黒い。その黒屋根の上を巨大な鼠が走っていた。
全長は野良犬ほどになるだろうか。明らかにただの鼠ではない。前歯は鍬の刃のように大きく、爪も短刀のごとく鋭い。さらには黒い闇のような靄をまとっていた。怪異である。
昔からこの国には人でも動物でもない、異形の存在が現れる。それらは怪異、あやかし、妖怪、物の怪など、様々な名で呼ばれ、人々に禍福をもたらしてきた。
鼠は殺気を漂わせ、『白鶴屋』の屋根の上を忙しなく行き来している。その度に屋根材がこぼれ落ち、欠片が当たって看板にひび割れが生じていた。
鼠が暴れると、人だかりの野次馬たちは恐怖と好奇の入り混じった声を上げる。
大方は『恐ろしい。しかし見ていたい』といった表情だ。人々は昔から怪異と隣り合わせに生きている。自身に危険が及ばなければ、怪異は街角の喧嘩のような娯楽の一つだ。
ただ、群衆のなかに一人だけ、怒りの視線を向けている者がいた。『白鶴屋』の大旦那である。
「早くあいつを退治せんか! 一体なんのための帝都軍だ!?」
怒鳴り声の先にいるのは、軍服姿の帝都軍人たち。
帝都軍は新政府から帝都の守護及び治安保持を任された組織である。なかでも怪異の対処については平安から続く陰陽術を主体とした術を使い、それらを駆使する陰陽特務部が事に当たっている。
大旦那の眼前では陰陽特務部の軍人たちが鼠に対して呪符を放っていた。しかし鼠を捕えることはできず、せいぜいが逃亡を防ぐ程度だった。
鼠が隣の建物へ飛び移ろうとすると、軍人たちは呪符を宙へ放つ。すると呪符が淡い光を帯びて飛んでいき、鼠の鼻先へ直撃。小さな稲光のようなものが弾け、鼠は驚いて屋根へと戻る。鼠の逃亡を防ぐことはできているが、その間も『白鶴屋』の屋根や看板は破損し続けている。大旦那の怒りはもっともだった。
怒髪天の大旦那に対し、若い軍人が必死に頭を下げている。
「申し訳ありません。しかしあの鼠は
「軍人が危機を恐れるのか? あんなもの、ただのでかい鼠だろうが! とっとと屋根から引きずり降ろせ! ええい、もういい。そこをどけ。お前らがやらないのならウチの若い衆にやらせる!」
「ま、待って下さい! 鉄鼠は腹のなかに莫大な呪いを溜め込んでいることがあるんです。一般の方々に近づいて頂くわけにはいきません!」
鉄鼠にはかの比叡山延暦寺で仏像や経典を食い荒らしたという記録がある。霊峰と謡われた比叡山でそこまでの暴虐を働ける怪異はなかなかいない。
無論、『白鶴屋』の屋根にいる鉄鼠がそこまでの個体だとはさすがに考えにくいが、帝都の平穏を守る帝都軍としては、万が一のことも考慮しなければならない。若い軍人は大旦那へ必死に言い募る。
「我々の上官がまもなくこの場に到着します。それまでどうかご辛抱下さい……っ」
「上官だと?」
「はい! あの方はこの広い帝都のなかでも随一の――」
その時、人だかりの向こうに車が停まった。
まだ軍にしか配備されていない、最新式の国産自動車である。小さな階段状のタラップを踏み、ひとりの青年軍人が自動車から降りてくる。
帝都の人々の足と言えば、もっぱら馬車が一般的だ。自動車などは非常に珍しく、エンジン音を聞きつけて野次馬たちが振り返る。
すると人だかりの後ろ側にいた女学生が「まあ……」と思わずため息をこぼした。他の人々も同様で鉄鼠のことなど頭の外にこぼれ落ち、誰もが見惚れてしまう。
それほどに美しい青年だった。
凍えそうなほどに冷たい瞳、高級な絹糸のように細く艶やかな髪、人形と見間違うほどに顔立ちは整っており、見る者を委縮させるような超然とした雰囲気をまとっている。
帝都軍の軍服を折り目正しく着込み、腰には軍刀のサーベルを差していた。また頭には軍帽を被り、襟に付いた階級章は少尉の位を示している。
青年は滑り止めの白手袋を取り出し、それをつけながら民衆に告げた。
「帝都軍・陰陽特務部、神宮寺彰人だ。道を開けてもらおう」
決して大きな声ではなかった。だが彰人の名を聞いた途端、野次馬たちは血相を変えて左右へ割れた。彰人がその真ん中を無表情で通っていくと、周囲にどよめきが木霊する。
「帝都軍の神宮寺……!?」
「怪異を退治するためなら人間も斬っちまうって噂のあの軍人か!」
「馬鹿っ、声が大きい! 目を付けられたら何をされるかわからないぞ。今まで何人もの人間が怪異をおびき寄せるための餌にされたって話だ……っ」
羨望の眼差しが一瞬にして恐怖へと変わっていた。
ともすれば怪異の鉄鼠よりも恐れられているかもしれない。
青年の名は神宮寺彰人。
怪異の脅威から帝都を守護する、帝都軍・陰陽特務部の指揮官である。
周囲の言葉には眉一つ動かさず、彰人は任務の現場たる『白鶴屋』に到着した。
「状況は?」
端的に訊ねると、若い部下が敬礼をして答えた。
「お待ちしておりました、神宮寺少尉殿! 対象は鉄鼠と思われる怪異が一体。この『白鶴屋』の屋根の上を行き来しています。現在、六名の部隊員で足止め中です」
彰人は頭上を見上げた。
部下の報告通り、屋根の上には黒い靄をまとった鼠がいた。部下たちが呉服屋を取り囲み、鉄鼠が移動しようとする度に呪符を放っている。
「他に怪異の気配は?」
「ありません。現状、あの鉄鼠一匹だけです」
「結構だ」
彰人は頷き、一歩前へ出る。
同時に軍服から一枚の呪符を取り出し、宙へと放った。すると光が瞬き、たった一枚の呪符が数十、数百に増えていく。『白鶴屋』そのものを覆うほどの量である。その一つ一つが神々しい輝きを放っていた。
たとえるならば、真昼の星々。
太陽の下、煉瓦造りの帝都の街並みを星のような呪符の光が照らしている。
民衆たちはもちろん、部下の軍人たちさえも、その光景に目を奪われた。
彰人は表情を変えず、白手袋の手で印を結ぶ。
「展開」
その一言で呪符の群が一瞬にして精緻な隊列を組んだ。『白鶴屋』を取り囲む、光の檻が完成する。
「捕縛」
次の一言で檻が一瞬で収縮した。鉄鼠は突然の状況に右往左往していたが、押し寄せた光に呑み込まれていく。程なくして無数の呪符に包み込まれ、鉄鼠は動かなくなった。
「おお、見事だ……っ」
部下たちとは比べるべくもない手際に対し、大旦那が感嘆の声を上げた。一方、彰人は『白鶴屋』周辺の部下たちに命じる。
「鉄鼠を回収しろ。その後、付近の被害状況を調査。今日中に報告を上げろ」
「了解しました!」
そばにいた若い軍人を含め、部下たちはすぐさま応じ、『白鶴屋』へ入っていく。
本来ならば怪異など討伐してしまいたいところだが、鉄鼠は腹に呪いを溜め込むという性質がある。
下手に滅すると呪いが散乱する恐れがあるため、対処としては呪符による封印が望ましい。怪異によって適切な対応をすることも陰陽特務部の重要な役目だ。
また場合によっては調伏といって、怪異を屈服させることで式神にすることもできる。今回の鉄鼠も可能であれば調伏術を施して式神にするかもしれない。
……忸怩たる思いだがな。
彰人は胸中でため息をつく。彰人は怪異を式神として使うことを好んではいない。上層部は戦力増強のために肯定的だが、帝都のためを思うのなら怪異はすべて討つべきだ。それが彰人の考えだった。
白手袋を外そうとしていると、和服の老人が話しかけてきた。
「いやはや、よくやってくれた。さすがは帝都軍だ」
先ほど若い部下のそばにいたことから察するに、この『白鶴屋』の大旦那だろう。
彰人が向き直ると、大旦那は喜色満面で肩を叩いてくる。
「噂は聞いているぞ。帝都軍には怪異に対して恐ろしく腕が立ち、そして恐ろしく美しい顔立ちの軍人がいるとな。あれは君のことだろう? 気に入った。どうだ? ウチで燕尾服でも一着あつらえていかんか? 出来は保証するぞ」
なんと命知らずな……という雰囲気で群衆がざわめいた。彰人の名は帝都に知れ渡っている。だがそれらは決していい意味ではない。冷徹に怪異を討伐する姿から噂に尾ひれがつき、帝都の人々からはひどく恐れられている。
そんな彰人に対して忌憚なく接することで、大旦那は周囲に自分の器を誇示したいようだった。だがこちらがそれに付き合うような義理はない。
「結構だ。軍人に夜会のための装いなど必要ない」
「な……っ」
取り付く島もない言葉を受け、大旦那は絶句した。そして見る間に茹で蛸のごとく赤くなっていく。
ちょうどその時、部下たちが鉄鼠を回収して『白鶴屋』から出てきた。呪符に包み込まれた鉄鼠が二人掛かりで運ばれている。
刹那、彰人は瞳を鋭く細めた。鉄鼠に張り付いた呪符の間から黒い靄がわずかに漏れ出していたからだ。しかし部下たちは気づいていない。
「動くな」
大旦那に鋭く命じ、彰人は腰のサーベルを抜き放った。
銀色の刀身が日の光を反射して輝き、大旦那の顔の前を駆け抜ける。
「ひ……っ!?」
突然の行動に大旦那から引きつった悲鳴が上がった。
次の瞬間にはサーベルの切っ先が鉄鼠に触れていた。獣じみた叫び声が上がり、群衆が竦み上がる。ほぼ同時に呪符から漏れ出していた靄が弾け飛んだ。
……大人しくなったな。
もう危険はないと判断し、彰人はサーベルを鞘へと納めた。その視線は部下たちへ。
「わずかだが呪いが漏れ出していた。鉄鼠が腹に溜め込んでいたものだろう。一度、強固に封印しても動かせばほつれが生じることがある。怪異を運搬する際は入念に封印の重ねがけを行え。訓練で教えたはずだ」
「も、申し訳ありませんでした! 以後、徹底致します……っ」
部下たちが背筋を伸ばして謝罪する。それぞれの軍服から呪符を取り出し、鉄鼠への封印を強化していく。実際のところ、サーベルの一撃によって鉄鼠は完全に大人しくなっていたが、部下の教育のために彰人はあえて口を挟まない。
怪異に抗する者は、
鉄鼠を斬りつけた際、彰人はサーベルに霊威を込めていた。その切っ先に触れたことで鉄鼠は強い静電気を浴びたような衝撃を受けたはずだ。物理的に斬ってはいないので、鉄鼠自体に傷はない。これ以上呪いを出すことがないよう、脅した程度である。
しかし群衆にとっては衝撃的な場面だったのかもしれない。部下たちが鉄鼠を運び出すのを見届け、彰人が振り返ると、誰もが青ざめていた。
「信じられねえ。もう少しで店の爺さんまで斬っちまうところだったぞ……」
「そんなこと構いやしないんだよ。やっぱり噂通りだ。怪異さえやれるなら人間も平気で一緒に手を掛けるんだ」
「ね、ねえ、こっち見てるよ! やだ、怖い……っ」
一方、『白鶴屋』の大旦那は震えつつ、それでもこちらを睨んできた。
「き、貴様……っ」
「何か?」
鉄鼠に対する一連の行動は必要な措置だった。漏れ出した呪いは少量だったが、わずかなほつれから爆発的に噴き出すこともある。そうなれば付近の群衆は怪異の呪いに掛かり、最悪は命を落としてしまうことになる。最速で止めるには、あの角度で斬り降ろすことが最も効率的だった。
無論、大旦那には傷一つない。怪異の危険性と天秤に掛ければ問題はないはずだ。
そう考え、正面から目を見据えると、途端に大旦那は怯んだように口ごもった。
「う……っ」
「何か私に言いたいことが?」
「い、いや……」
大旦那は視線を逸らす。ならば、と彰人は軍人として必要事項を口にする。
「怪異による被害については帝都軍が補償する。部下を調査に残すので、彼らに被害状況の報告を。怪異が現れた時の状況も出来るだけ詳細に伝えてほしい。今後の被害防止にも役立つことだ。協力を願う」
大旦那は戸惑いつつも「あ、ああ……わかった」と頷いた。
「では私はこれで失礼する」
彰人は敬礼をし、その場から立ち去った。
乗ってきた軍用車の方へ向かうと、遠巻きにしていた群衆がさらに後退った。
別段、思うところはない。軍人は歌舞伎の役者や帝都劇場の俳優とは違う。民衆から好かれる必要などない。怪異の現場から遠ざかってくれるのならばむしろ好都合だ。
そうして彰人は軍用車に戻った。
一般自動車は富裕層に広まり始めており、それらはまだ天蓋無しが多いのだが、こちらは機密事項の多い軍用車なため、薄い屋根がついている。
前方の運転席には陰陽特務部の部下が運転手として待機していた。車にいる人間はその一人だけだったはずだが……。
「よお、神宮寺。お疲れさん。お前さんの任務が終わるまでのんびり待つ構えだったんだが、相変わらずの腕前だな。さすがは帝都随一の術者だ」
後部座席には彰人の同僚たる、帝都軍人が悠然と腰掛けていた。
襟はだらしなく開き、ところどころに無精ひげが残っている。生真面目さが服を着ているような彰人とは対照的に、不真面目さの具現のような雰囲気の男だ。
名は
帝都軍において機密情報の管理や各部署への伝達を担う、情報部の人間である。
そして基本的に情報部の来訪は面倒事が起こる兆しだ。
……一体、私に何の用だ?
望まぬ来訪者を目にし、彰人は胸中で眉を寄せた――。
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