033 絶体絶命

 まさに一瞬、わけの分からぬ間に全てが終わった。


「う、うぅぅ……!」


 何秒か飛んだであろう意識が戻った時、俺は丸太にしがみついていた。

 先ほどまでイカダの体を成していたものだ。


「――! 伊織! 伊織!?」


 慌てて周囲を眺める。

 イカダの残骸があちこちに漂っていた。

 俺たちが一日がかりで作った希望の乗り物が……。


「いた! 伊織! 伊織ー!」


 伊織は数メートル先に浮かんでいた。

 丸太に体を乗せて、手足と顔は海に浸かっている。

 意識がないようだ。


「伊織! 目を覚ませ! 伊織!」


 俺は伊織の傍まで泳ぎ、彼女の顔を海面から上げた。


「ゲホッ! ゲホッ! 雅人君……!」


 伊織は無事だった。

 そのことに安堵するが、状況は絶望的だ。


「何がどうな……嘘、なにこれ」


 伊織も気づいた。

 この惨状に。


「イカダが壊れちまった」


 それしか言えなかった。

 さすがに高波に耐えうる力はなかったのだ。


 むしろ今の状況ですら不幸中の幸いである。

 あれほどの波に飲まれたら死んでもおかしくない。


(とはいえ、この環境では……)


 先ほどの衝撃で方向感覚が失われた。

 もはやどちらが北なのか分からない。


「そういえば……!」


 ポケットをまさぐる。

 奇跡的にもスマホは落ちていなかった。

 防水機能によって故障を免れている。


「コンパスアプリは立ち上げたままだったはず!」


 だとすれば、スマホが「南」と示す方角こそ北だ。

 俺は伊織と同じ丸太にしがみつきながらスマホを操作した。


「あっちだ! あっちが北だ!」


 前方を指す。


「北が分かってもこれじゃ……」


 伊織は絶望し、諦めている。


「たしかにそうだが、それでここで浮かんで終わるわけに――あ!」


 スマホを見ていて気づく。


「どうしたの?」


「あるぞ伊織!」


「え?」


「電波! 電波のアイコンが出ている!」


「ほんと!?」


「ああ! ほら!」


 俺は伊織にスマホを見せる。

 一本だけだが電波が立っていた。


「「救助!」」


 俺たち同じタイミングで言った。


「すぐにかける!」


 俺は電話アプリを立ち上げ、「118」にコールする。

 海難の際にかける番号だ。


『…………し…………』


 電話は繋がったが、相手の言葉が全く聞こえない。

 電波状況がかなり悪い上に、暴風雨とそれに伴う荒波のせいだ。


「もしもし! 聞こえますか! もしもし!」


『……………………』


 全く聞こえない。

 だが、たしかに電話は繋がっている。

 通話中の表示とともに通話時間が進んでいるのだ。


「聞こえているかは分からないけど助けてください! 助けて! 俺たち死にそうなんです! 助けて! 助けて!」


「助けてください!」


 伊織と二人でスマホに向かって「助けて」を連呼する。

 しかし、それに応えたのは無慈悲な天の怒りだった。

 高波だ。


「伊織、丸太にしがみつ――」


 言い切る前に飲み込まれた。

 俺たちの命綱である丸太が手から離れる。

 一切の抵抗を許さぬ強烈な水流が好き放題に暴れた。


「ブハッ! ゲホッ、ゲホッ!」


 落ち着いたのを見計らって顔を出す。

 だが、周囲に伊織の姿が見えない。


「まさか――!」


 俺は海に潜った。

 ゴーグルがないので殆ど見えない。

 さらには海水が目に入って痛くてたまらない。


 それでも伊織を発見した。

 明確に姿を視認したわけではないが分かった。

 普通に言えば「直感」であり、格好良く言えば「運命」だ。


(伊織!)


 俺は必死に泳いだ。

 水泳の成績は決して良くない。

 というより体育の成績全般が微妙だ。

 授業でサッカーをする時は決まってディフェンス。

 それでも死ぬ気で泳ぎ、そして、伊織を掴んだ。


「伊織! 目を覚ませ!」


 彼女を負ぶったまま海面に上昇。

 暴風雨によって荒れ狂う波の中を泳ぐ。

 先ほどの高波によって命綱の丸太が消えていた。

 もはやしがみつけるものは何もない。


「う、うぅぅぅぅ……」


 伊織の意識が覚醒していく。

 彼女は体内の海水を派手に吐いてから言った。


「雅人君!?」


「生きているな!」


「おかげさまで。でも、さっきより状況が……」


「ああ、いよいよ絶望的だ」


 休むための丸太はどこにもない。

 スマホも落としていた。

 波に飲まれたせいで方角も分からない。


「どうしよ……」


「残念ながらどうすることもできない」


「そんな……」


「だがまだ可能性はゼロじゃない」


「どういうこと?」


「平泳ぎだ」


「平泳ぎ?」


 俺は今まさに平泳ぎで伊織を運びながら「ああ」と頷いた。


「スタミナの消費量が少なく、呼吸も簡単にできる。だから平泳ぎで陸を目指す」


「え……でも、本土まであと数十キロも距離があるんじゃ?」


「そうだけど、他に道はない。諦めて野垂れ死ぬなんてごめんだ。だろ?」


 命がある限り足掻いてやる。


「うん、そうだね」


 伊織は俺にしがみつくのをやめ、自分で平泳ぎを始めた。


「絶対に生きて帰るぞ!」


「それで雅人君に告白されて、一緒に同棲するもんね!」


「おうよ!」


 俺たちは当てもなく泳いだ。

 進んでいる先が北なのかどうか分からない。

 それでも泳ぐしかなかった。


「やばいぜ伊織! 体が軽くなってきたぞ!」


「ほんとに!?」


「たぶん今、脳内物質がドバドバ分泌されているんだと思う! この絶望的過ぎる状況に! 死ぬかもしれないという思いで興奮しているんだ!」


「すごい精神力! 私は普通に体が重くて苦しいよ!」


 そのあと、伊織は小さな声で「もう無理かも」と呟いた。

 幸いにも俺はその声を聞いていた。


「俺を置いて死ぬなんて許さねぇぞ伊織!」


 俺は伊織に近づいた。


「ほら、負ぶされ!」


「大丈夫、大丈夫だよ!」


「無理するな! 俺の背中で休め! それからまた泳げばいい!」


「じゃ、じゃあ、少しだけ……」


 伊織が背中にしがみついてくる。


「任せろ、これでも泳ぎは得意なんだ。小学校時代は水泳大会で1位だった」


「ほんと?」


「もちろん嘘だ」


「嘘かい!」


「小学校時代から目立った功績のない陰キャだったぜ!」


 伊織を担いで泳ぐ。

 手で海水を掻き、足で蹴る。


「大丈夫? 雅人君」


「ああ、平気だ」


 嘘、本当は苦しい。

 脳内物質によるドーピング効果が切れかけていた。

 もはや手足の感覚はなく、本当に泳げているのかも分からない。


「なんで止んでくれないのよ!」


 伊織が天に向かって怒鳴る。

 暴風雨は相変わらず健在で俺たちを襲っていた。


「クソ……こんな……ところで……」


 俺は怒鳴るだけの余力を失っていた。

 視界の縁が黒みがかっている。


「雅人君、私、自分で泳ぐよ」


 俺の状況を察したのか伊織が言った。


「回復したか?」


「うん、もう平気だよ」


「分かった」


「じゃあ、手を離すね」


 合図したあと、伊織は言葉通り腕を解いた。

 するすると俺の背中から滑り落ちて海に入る。

 だが、彼女は泳ごうとしなかった。

 その場でプカプカ浮いたまま進まない。


「伊織、何を……!?」


「ごめん、雅人君。やっぱり私、もう無理だよ……」


 伊織はボロボロと泣き出した。


「体力が辛いなら俺が負ぶるって!」


「やめて。雅人君だけなら生き残れる可能性がある。だからもう私を助けようとするのはやめて」


「ふざけるなよ、ここまで来て何を弱気なことを!」


「私は助かってほしいの! 雅人君に!」


 伊織が泣きながら怒鳴った。


「分かるでしょ雅人君だって! このままじゃ二人とも死んじゃうよ! 私は足を引っ張って死にたくない!」


「伊織……」


「だから、ごめんね」


 伊織は泣きながら手を振った。

 無理して笑っている。


「そうかよ、分かった」


 俺は伊織に近づいた。

 そして、彼女の胸ぐらを左手で掴む。


「雅人君!?」


「勝手にほざいてろ! 俺は一人じゃ生きねぇ!」


 伊織を掴んだまま泳ぐ。

 右手と両脚があれば溺れることはない。


「やだ! 離してよ! 雅人君!」


「うるせぇ! 黙ってろ!」


 視界が涙で滲む。

 海水が目に入ったせいか、それとも別の理由か。

 今の俺には考える余裕がなかった。


「本土に帰ったら同棲するんだろ! 俺の告白を待ってるんだろ! 絶対に死なせるもんか! 分かったら黙ってしがみついてろ! 俺が送り届けてやる!」


 次の瞬間、伊織は派手に泣き始めた。


「ごめん、ごめんなさい、雅人君、ごめん……」


「謝るなら自分でしがみつけ! 左手も使わせろ!」


「うん……!」


 伊織は両腕を絡めてきた。


「二度とふざけたことを言って離すんじゃないぞ」


「離さない! もう絶対に、離さない!」


「その意気だ」


 俺は頷き、全力で泳いだ。

 いつの間にか辺りは暗くなっていて、雷鳴が轟いている。

 暴風雨も相変わらずで、いつ次の高波が来るか分からない。


「絶対に負けねぇぞ! 俺は! 俺たちは!」


 この苦難を乗り越えた先には、伊織との幸せな未来が待っている。

 それが俺に活力を与えた。


 しかし、現実は非情だ。

 愛だの何だのといったものではどうにもならない。


(ダメだ、さすがにもう……)


 いよいよ限界の時がやってきた。

 息継ぎをしようとしても顔が上がらない。

 知らぬ間に瞼も閉じていた。


「*******! ******!」


 伊織が何か言っているが分からない。

 極まった疲労が聴力を低下させていた。


(あれだけ格好つけておいてこのザマとは我ながら情けないぜ)


 心の中で呆れ笑いを浮かべる。

 全身の力が抜け、意識が遠のいていく。


「伊織……」


 最後に伊織の顔を見よう。

 そう思って瞼を開けると、信じられない物が視界に映った。

 だが、それに対してどうこう思う余裕はない。


 俺は振り返り、伊織の顔を見た

 泣きながら何か言っている。


 しかし、耳を傾ける前に意識が途切れた。

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