007 初夜

 伊織が抱きついてきたことで一気に目が覚めた。

 心臓が高鳴り、脳がよからぬことを考え始めている。


 彼女の手は、貫頭衣ではなく俺の肌に直接触れていた。

 乾いた汗でベトつく貧相な胸板に手が当たっている。


「伊織……!?」


「ごめん、ちょっとの間こうしていてもいいかな?」


 伊織の声は震えていた。

 顔を見なくても泣きそうになっていると分かる。

 もしかしたら既に泣いているかもしれない。


 そんな声で話されたらよこしまな妄想も吹き飛ぶ。

 煮えたぎろうとしていた性欲がスーッと冷めていった。


「どうしたの?」


「静かになると不安がすごくて……」


「あー、余計なことを考えてしまったか」


「うん……」


 気持ちは分かる。

 俺も傍に伊織がいなければそうなっていた。

 彼女がいたからこそ、不安より先に妄想が始まったのだ。


「結局、今日は救助が来なかったし、明日も来なかったらって……」


「その時は明後日に賭けるしかないよ」


「明後日もダメだったら明明後日しあさつて?」


「いや、その時は自力で脱出する方向で検討するべきだ」


 伊織は「えっ」と驚いた。


「救助のタイムリミットは72時間と言われている。これを過ぎると生存率が急激に下がるんだ。いわゆる『黄金の72時間』と呼ばれるやつ」


「いわゆるって言うけど私は初耳だよ」


 背中に伊織の笑い声が当たる。


「とにかく72時間がタイムリミットだから、それを過ぎたら捜索隊の活動規模もグッと縮小されることは間違いない」


「72時間……つまり3日ね」


「厳密に言うと、明明後日の時点ではまだ72時間は経っていないけど、そこまで待って何の進展もなかったら期待しないほうがいいと思う」


「そっか」


 少しの沈黙を挟んでから、伊織は再び口を開いた。


「自力で島を脱出するとして、上手くいくと思う?」


「もちろん……と言えればかっこいいのだけど、実際にはなんとも言えない」


 それが本音だった。

 約50kmの海を手作りの乗り物で渡るなど経験したことがない。

 成功率は決して高くないだろう。


「じゃあ、救助が来ることを祈らないとね」


「そうだな」


 伊織の抱きつく力が弱まる。

 なので俺は体勢を仰向けに切り替えた。


「成功を確約することはできないが、可能な限り善処するよ。だから明日に備えて寝よう」


 伊織の頭を優しく撫でる。

 それでいくらか気持ちが安らげば、と思った。


「ありがとう、雅人君。弱音を吐いてごめんね」


 伊織は「今度こそおやすみ」と言い、俺の腕に抱きついてきた。


「こうしていないと眠れそうにないから」


 俺が尋ねる前に伊織が言った。


「それで眠れるなら好きなだけ俺の腕を抱き枕にしてくれ」


「うん!」


 伊織の力が強まる。

 その数十秒後、彼女は寝息を立てていた。

 本当に抱きついていると落ち着けるようだ。


(無事に眠れて何よりだが――)


 俺は股間に目を向ける。

 夜目が利いているので微かに見えた。

 布団がご立派なテントを張っている。


(――今度は俺が寝るのに苦労しそうだな)


 伊織が気づかなかったことにホッとしつつ心を鎮める。

 しかし、抱きつかれた状態だとすぐには落ち着けなかった。


 ◇


 翌日。

 俺が目を覚ますと、伊織はまだ寝ていた。

 相変わらず俺の腕に抱きついてスヤスヤと気持ちよさそうだ。


「おーい、もう朝だぞ」


「もうちょっとだけぇ」


 ふにゃぁと笑う伊織。

 あまりにも可愛すぎて悶死しそうになる俺。


(今ならバレないか……!)


 俺は何食わぬ顔で伊織の頬を指で突いた。

 ぷにぷにしていて気持ちいい。

 だが――。


「何しているのかなぁ?」


 パッと伊織の目が開いた。

 ニヤニヤしながらこちらを見ている。


「い、いや、その……まぁ、アレだ」


「どれ?」


「アレと言えばアレだ! 分かるだろ!」


 俺は抱きつく伊織を強引に解いて布団から這い出る。

 そのまま立ち上がろうとしたが、そこで固まってしまう。

 朝に起こる男の生理現象が体を襲っていたからだ。


「どうしたの雅人君? うつ伏せでプルプル震えちゃって」


「いや、それは……」


「もしかして調子が悪い!?」


 途端に慌てふためく伊織。


「気にするな、男には男の事情がある」


「あはは! なにそれ意味分かんない!」


 適当に誤魔化して難を逃れた。


 ◇


 朝食後、俺たちは小屋の東へ向かうことにした。

 台本によると川があるらしく、どんなものか見ておきたかった。

 番組ではそこで釣りをしていたようだ。


「私たちも釣りをしたいねー。お手製の釣り竿を作ってさ!」


「面白そうだ」


 横並びで東の森を歩く俺たち。

 念のため警戒しているが、猛獣の姿は見当たらない。


「あ、でも釣り具がないね、残念」


 肩を落とす伊織に対し、俺は「問題ない」と断言。


「釣り具なら自作すればいい」


「竿はともかく糸と針は無理じゃない?」


「針はちょっと難しいが、糸はどうにかなる」


「雅人君、糸を作れるの?」


「まぁな」


 小学校の頃、夏休みは祖父母の田舎で釣りをしていた。

 その際に自作の釣り竿を使っていたので、作り方は把握している。


「すご! どうやるの? まさか雅人君が蜘蛛みたいに糸を!?」


 俺は「んなわけない」と笑った。


「植物から作れるんだよ」


「嘘ぉ!? 植物から糸を作れるの!?」


「本当だよ」


「すご! どうやるの!?」


「簡単だよ」


 俺は右の人差し指を立ててドヤ顔で説明しようとする。

 しかし、前方に予想外のものが現れたので会話を打ち切った。


 湖だ。

 全体を見渡せる程度ではあるが、決して小さくはない。


「川じゃなくて湖が出てきたぞ」


「どうなっているんだろ?」


「湖を迂回してさらに東へ行くと川があるのかもな」


 台本に湖のことは書いていなかった。

 バブル期はもっと小さかったのかもしれない。


「かなり綺麗だな」


 水は透き通っていて、中に生える水草がよく見えた。

 小さな魚が快適そうに泳いでいる。

 水面にはカモなどの水鳥がほのぼのと過ごしていた。


「よし、俺はここで水浴びしていくよ。体がベトついてたまらないし」


「じゃあ私も!」


 伊織は迷うことなく言った。


「あ、でも、私の裸、見ちゃダメだからね?」


「分かっているさ。ちなみに俺の裸は好きなだけ見ていいよ」


「なにそれー! 雅人君の変態!」


 俺たちは愉快気に笑い、水浴びを開始した。


「このクソ暑い日に湖はたまんねー!」


 遊泳を楽しむ俺。


「ねー、気持ちいい! あ、雅人君、もうこっちを見ても平気だよ!」


 伊織から覗いてOKのサインが出る。

 俺は光の速さで彼女のほうを見た。


「うお!」


 予想外の姿に溺れかける。


「ちょ、びっくりしすぎ!」


「そりゃ驚くだろ! てっきり既に貫頭衣を着たと思ったんだから」


 伊織は裸のままだった。

 両手で胸を隠していて、陰部は水草が邪魔で見えない。

 かなり大胆な姿だ。


「別に雅人君なら見られてもいいかなって」


「昨日まで下着姿すら見せなかったのに……!」


「それだけ心を開いたってこと! 信頼している証拠!」


「嬉しいことを言ってくれるぜ」


 伊織は「ふふふ」とニヤけた。


「私が裸を見せたこと、学校の皆には内緒だからね」


「もちろん。この眼福を他の奴に味わわせてやるものか」


「なんかちょっと変態っぽいんですけどー?」


 伊織が声を上げて笑う。


(すげぇ幸せだ! 今なら死んでも悔いはないぜ!)


 こういうことを思ったのが原因だろう。

 神様が「なら死んでみるか」と言いたげなイベントを起こした。


 ズサァ!


 突如、俺たちの約10メートル前方に水しぶきが上がったのだ。

 先ほどまでそこにいたカモの一家が消失している。

 その理由となる生物が、水面に姿をチラ見せしていた。


「ワニだ!」


 アリゲーターか、クロコダイルか。

 種類は分からないが、とにかく超ド級の大型だ。

 そして――。


「まずい! こっちに来るぞ!」


 ワニが次の標的に選んだのは俺たちだった。

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