接手

山本アヒコ

接手

「……どうしろってんだ」

 手を体の前で重ねて身を縮めながら怯え立ち尽くす少女を見下ろし、老いた男は忌々しそうに吐き捨てた。


 ほんの少し前、髪も髭も真っ白な男は椅子をきしませることもなく立ち上がった。顔にも深いシワが刻まれている老人であったが、背骨は伸びていて体も筋肉質で腹に脂肪のかたまりも見えない。

 静かに歩き家の外に出ると首を横へ向ける。その視線の先には、夕日を背に一頭のロバがひく小さな荷車とその御者の男がこちらへ向かっていた。

「……」

 男の近くまで来ると御者がロバの歩みを止めた。御者は外套を頭からかぶっていて顔はよく見えない。しかしその目が、よく見慣れた冷たい光を放っていることを男は感じとる。自分と同じ目だ。

(この実力のやつをよこすってことは、それなりの【仕事】か)

 長年この仕事を続けてきた男には、相手の力を見るだけである程度理解できる。この御者はそこそこ強い。これまでの経験上、重要な仕事の依頼を届ける者は誰もが実力者だった。

「お前、どこのモンだ?」

「眠り鷲だ」

 老いた男と御者は、二人とも暗殺者だった。多くの暗殺者を束ねる集団に所属し、届けられた殺しの依頼を遂行する。この集団に決められた名前は無く、眠り鷲はいくつかある名前のひとつだった。この名前が合言葉でもあった。

「どんな依頼だ」

 御者は無言で地面へおりると荷車へと向かう。荷車には高さはないが幌がついていて中は見えない。そこから出てきた【荷物】を見て男は顔を歪めた。

「ガキだぁ?」

 それは十二才ほどに見える少女だった。うす汚れた服とズボンという少年のような格好だ。髪が短ければ少女に見えなかっただろう。

「これに殺しの技術を教えてもらう」

「はっ? 何年かかると思ってんだ!」

「一人前にする必要はない。密着した相手を殺せるようにするだけでいい」

「だけでいいって……ふざけてるのか! こんなガキを標的に接近できるようにするのにどれだけ時間が……」

「問題ない。こいつは【仕掛け罠】だ」

 仕掛け罠というのは隠語で、こちらから標的に接近するのではなく、標的をこちらに接近させる事だ。

「……まあ、わかった。で、こいつはどれだけできるんだ?」

「まったくの素人だ」

 思わず叫びそうになったが、両方の拳を強く握りしめて耐える。

「そして耳が聞こえない」

「バカ野郎が!」

 今度は我慢できなかった。小鳥が飛び立つほどの声量だったのに御者の表情はぴくりとも動かない。少女も立ち尽くしたままだ。

 眉間にシワを寄せて怒る男を気にする様子もなく、御者は荷車へと戻るとロバの手綱を握る。

「依頼の期限は二ヶ月だ」

 それだけを言うとロバは歩き始めた。

「…………」

 依頼を断ることはできない。しかし苛立ちを消すことはできない。

「……ヘストだ。お前の名前は?」

 少女に近づき話しかけたが反応がないことに舌打ちをしたところで、御者が耳が聞こえないと言っていたことを思い出す。

「……どうしろってんだ」

 しばらく立ち尽くし少女を見下ろすことしかできなかったが、いつまでもそのままでいるわけにはいかない。頭をガリガリと力任せに引っ掻くと、さらに一歩近づきしゃがみこむ。

「!」

 ヘストが肩に手を置くと少女の体が大きく震えた。しゃがんで目の高さを合わせたヘストと、恐る恐る顔を上げた少女の目が合う。

「俺の名前はヘストだ。へ、ス、ト」

 ヘストの文字を地面へ指で書いた。しかし少女は首を横に振る。

「まさか、字も読めないのか?」

 絶望的な状況にヘストはしばらく呼吸をすることを忘れた。


「んあ……?」

 ヘストが目覚めると、窓から太陽の光が入っているのが見えた。それにまず違和感。夜になれば必ず板で窓を塞いでいるはず。

 家の外から物音が聞こえた。素早くベッドを抜け出すと、足音をたてずに移動する。

 物音は、少女が井戸から水をくみあげようと縄を引いている音だった。井戸には滑車がなく少女の細腕には重いのだろう、一回一回全身で縄を引き上げている。必死に歯を食いしばり、額には汗が浮かんでいた。

 それを見て昨日の出来事を思い出した。こちら見ようとしない少女に手ずから夕食を作り食べさせ、その慣れないことに疲労してすぐに寝たのだった。

「……何やってる」

 ヘストは綱をつかむと簡単に井戸から水の入った桶を引き上げた。

 井戸の横には二つ桶が置いてあり、ひとつは水で満たされていた。空の桶へ水を入れる。

「……」

 少女は組んだ両手の指を小さく動かしながら、怯えた様子でちらちらとヘストの顔へ視線を何度も向ける。

 少女の両手はよく見ると細かい傷がいくつもあった。井戸汲みだけでできるものではなく、古い傷だ。昔からこの井戸汲みなどの仕事をやっていた証だ。

 目覚めたときに窓の板が上げられて光が入っていたことを思い出す。これも誰に言われるのでもなく、少女がやったことだろう。

 ヘストは無言で桶を両手に持つと家へ向かう。すると小走りに少女が追いかけてきた。隣ではなくやや後方へ並ぶ。

「いう~」

 少女の口から音が聞こえた。ヘストの耳には意味をなす言葉には聞こえなかったが、おそらく「ありがとう」なのだろう。そう考えた自分を小さな声で嘲笑った。礼を言われるような立場であるはずがない。彼はこれから少女に他人を殺す技術を覚えさせなければならない。

 朝食は二人で作った。昨日の夕食はヘストが作った。正直その食事の記憶は彼にない。耳が聞こえず文字も読めない少女へ暗殺技術を教える困難さに絶望し混乱していたからだ。

 夕食で使った食器はすでに洗われていた。ヘストにその記憶は無かったので、少女が洗ったのだろう。夜と朝のどちらでやったのかはわからない。少女に聞こうにもそれはできない。

 少女は小ぶりのナイフで手慣れた様子で器用に芋の皮をむいている。ナイフの持ち方から教える必要はなさそうだとヘストは考える。不安材料がひとつ消えた。


   ■■■


 少女の体力を見るため走らせた。ヘストの基準からすれば問題外なのだが、この年齢の少女にとってこれが普通なのかどうか判断はできない。幼少のころより暗殺者として厳しく訓練され生きてきた彼には、普通の人間というものが理解できない。

 少女は【仕掛け罠】なのだから体力は最低限あればいいと考え、体力づくりのための運動は少なくし、密着状態での暗殺技術を重点的に教えることにした。

 しかし耳が聞こえず文字も読めない少女に教えるのは、想像以上に難しいことだった。

 少女が暗殺技術を身につけるのは不可能かとヘストが思いながら訓練を続けて三日後、ある人物がやってきた。


「あんたがヘストかい?」

 ロバに乗ってやってきたのはヘストと同年代と思われる、灰色の髪の老女だった。

 少女が来たときのようにロバは荷車をひいてはいなかった。鞍の横に鞄と袋がいくつもぶら下がっていたが、荷物の量は少ない。

 老女はひらりと華麗に鞍から飛び降りると、木の杖を鋭い音をたてて地面に突き立てる。

 向き合うヘストと老女は、二人とも背筋がのびていて老人だとは思えない。二人の視線はともにお互いの全身を観察する。

「そうだ。お前は?」

「毒果のミラーさ」

 毒果というのはヘストが所属している暗殺者集団の名前のひとつだ。

 老女はこれまで会った中でも上位の強さだとヘストは感じた。それと同時に、こんなやつが来るということは今回の依頼がかなり厳しいものなのではという不安が胸のうちに浮かび上がる。それでもやるしかないのだが。

「それで、何しに来た」

「あたしは言葉を教えろと言われたね」

「つまんねえ冗談だ。あいつは耳が聞こえねえんだぞ」

「だからだよ。あたしはコレがあるのさ」

 ミラーは手と指を動かして見せる。数本の指を立てた両手をぶつけたり、複雑に指を動かしながら手を上下左右前後に蝶のようにひらめかせた。

「何だそりゃ」

「手話だよ手話。耳が聞こえない人間のための言葉さ」

 そんなことも知らないのかという態度で、ミラーは言う。

「あたしの教え子ってのはどんなガキだい? まあ殺し屋なんてやってんだから、ろくでもないヤツだろうけどさ」

「ただの素人だ」

 ミラーは眉を勢いよく跳ね上げた。

「素人ぉ? まさかあたしが新人教育なんて面倒なことしなきゃならないってことかい」

 ヘストは腕を組むと荒々しく鼻から息を吐いた。不本意なのは彼も同じだ。以前にも送られてきた暗殺者たちを何人も鍛えてきたが、彼らはすでにある程度の実力を持った成人以上の年齢の者たちだった。彼らに足りない技術や知識を教えるのがヘストの役割だったが、今回のように何の技術も知識も無い少女は初めてだった。

「まったく、ろくでもない依頼だねぇ。それでソイツはどこだい?」

 ヘストは無言で背後に親指を向ける。少女は家の裏手でナイフの練習をしているはずだ。ただ、ちゃんと練習方法が伝わっているのかはわからなかった。

 ミラーはロバを繋ぐこともせず、杖が地面へ当たる音を鳴らしながら大股で歩いていった。

 ヘストがロバの手綱を家の周囲を囲む柵に結んでいると「なんじゃこりゃ! この嬢ちゃんなのかい!」というミラーの叫びが聞こえた。ヘストが大きなため息をつくと、ロバが小さく鳴いた。

「ヘスト! こんな小さい嬢ちゃんを暗殺者にしようってのかい!」

「俺に言うなよ。依頼は絶対だろ」

「見なよこの細っそい腕! これで人が殺せるもんか」

 ミラーは少女の両腕を握りながら叫ぶ。それに少女は怯えているというより混乱している様子だ。

「聞いてんのかい」

「聞いてるよ」

 少女には人が殺せそうにないと思うのは彼も同じだ。

「まったく……世の中ってのはクソだクソだと思ってたけど、今回のは本当にクソッタレだね」

 ミラーは少女の腕を離すと、じっと目を合わせる。

「あたしの名前はミラーだよ」

 腕を滑らかに動かし手話で語りかける。しかし少女は首をかしげるだけだ。

「ありゃあ、この子はまったく手話ができないのかい。まずは筆談からやるしかないねぇ」

「そいつは字も読めねえぞ」

「どうなってんだいそりゃあ!」

 鼓膜が震えるほどの叫びにヘストは顔を歪ませるが、少女は目を丸くするだけだった。

 少女の訓練は終わりにして、三人は家の中でテーブルを囲む。ヘストとミラーが向き合い、その間に少女が座る。もともと狭い部屋がさらに狭く感じる。

「手話も筆談もできないのに、あんたはどうやって訓練してたんだい」

「俺がまず動きを見せてそれをやってみる。で、ダメだったらもう一度見せてやらせる。それの繰り返しだ」

「そんなんで上達すると思ってんのかい!」

「うるせえな。いちいち叫ぶな。他にどうしろって?」

 言い合う二人の間を少女は視線をさまよわせる。

「まずは文字と手話の勉強を同時にやるよ」

 ミラーが椅子を弾き飛ばしながら立ち上がる。

「どこへ行くんだ」

「勉強道具を取りにいくんだよっ!」

 ずんずんと足音と杖をつく音を鳴らしながら外へ出ていくミラーを見送ると、ヘストは少女となんとなく目を見合わせた。眉がわずかに下がっている少女の気持ちは、彼には欠片も理解できなかった。

 道具を持ってきたミラーに少女の名前を聞かれ答えられず、ヘストはまた怒鳴られることとなった。

「文字もわからねえのにどうやって聞くんだよ」

「……そりゃそうか。まずは勉強だね」

「だから、訓練はどうするんだよ」


 話し合いの結果、翌日から暗殺技術の訓練は昼食後の二時間ほどに決まった。午前中と訓練あとから夕食までの時間は、手話と文字の勉強となる。これはミラーの意見だった。ヘストには言いたいことがあったが、面倒なので黙った結果だ。

 翌日の朝、ヘストはミラーに叩き起こされた。

「起きろっ!」

「なにしやがる」

「あんな子供に朝の支度やらなにやら全部やらせて、恥ずかしくないのかいっ! 水汲みぐらいやりなっ」

「ああっ?」

 ヘストはミラーを睨むが、彼女がそれに怯むこともなく睨み返す。無言の戦いはミラーが勝ち、ヘストは両手に桶を持って井戸へ向かう。その背中へミラーは鼻を鳴らし、少女はじっと見ていた。

 食事が終わると少女に文字と手話を教える時間だ。三人が食事をしたテーブルに文字の一覧が書かれた羊皮紙と、文字を練習するための砂箱が並べられる。

 ヘストが席を立とうとするとミラーが呼び止めた。

「待ちな。あんたも覚えるんだ」

「俺は文字を読めるし書ける」

「手話だよ」

「は? 必要ねえだろ」

「バカかい。手話ができないと話ができないし、訓練のときだってどうやって教えるんだい」

 無視して立とうとしたが再び、今度は強い声が飛んできた。ヘストは一度上を見たあと諦めた様子で再び座った。

「よし。まずは字を覚えるよ。この砂に指で字を書くのさ」

 ミラーは自分で砂に指で文字をひとつ書いた。そして少女を指さす。戸惑う少女だったが何をすればいいのかわかったようで、ミラーに指定された文字を砂に書く。ミラーの文字の横に書かれたのは形が崩れた文字だった。

「そうだ。よく書けたね」

 ミラーは乱暴に少女の頭をなでた。

「その字の手話はこうだ。同じようにやってみな」

 二本の指を曲げた手を少女に見せる。ぎこちなく少女はそれを真似るとミラーは再び頭をなでる。

「次はヘストもやるんだよ」

「…………」

「やりな」

 心から嫌そうにヘストは指を曲げた手を見せる。ミラーは厳めしい顔で偉そうに一度うなずき、少女はその様子を目を丸くして見ていた。

 一週間後には文字を覚えて、次は簡単な単語を教える段階に入った。最初に教えるのは二人の名前だった。

「あたしの名前はミラーだ。ミ、ラー。やってみな」

『ミ、ラー』

 少女は顔の横で指を動かし、ミラーの名前を手話で話した。

「よくできたね」

 ミラーが頭をなでると少しだけ少女の口がほころんだ。

「ヘストもやりな」

「……ミラー」

 口で言いながら指を動かす。これは「手話は相手の口の動きや表情も重要なんだからね!」と強い言葉でミラーに命令されたことだった。

「タルヤ、次はヘストの名前だ。ヘ、ス、ト」

 タルヤはミラーが少女につけた仮の名前だ。彼女の故郷にいる鳥の名前だった。

『ヘ、ス、ト』

 タルヤはヘストの顔を見ながら指と口を動かす。彼女はミラーの真似をして口を動かすが声は「え、る、いぃ」と言葉になってはいない。耳の聞こえない彼女には正しい発音のやり方がわからない。

 ヘストにとってそれは人の発する声には到底思えず、精神に異常をきたした者のように最初は感じた。しかしこの一週間ともに手話を覚え聞き続けてきた声に、今は嫌悪感もなく当たり前のものになっていた。

「ほら。ちゃんと出来たんだから誉めてやりな」

「……よくやった」

 ヘストはしかめ面で手話をする。この単語はミラーに何度もやらされたおかげで今では自然に手を動かせる。

 タルヤは目尻が下がる笑みを見せた。ヘストは少女の控えめな笑顔を見るたびに目をそらしてしまいたくなる。これまで訓練してきた人間は全員男で、しかも成人や中年に近い年齢のうえ暗殺者として経験を積んでいる者だけだった。タルヤのようなただの少女と接した経験は、六十年をこえた彼の人生のなかで初めてなのだ。

「もう一度だ。ミラー」

『ミラー』

「ヘスト」

『ヘスト』

「次は自分の名前。タルヤ」

『タルヤ』

 

 ミラーは家の中にあるものを指さしては、その単語をタルヤに教える。

「テーブル、椅子、皿、窓」

『テーブル、椅子、皿、窓』

「………」

 タルヤとミラーは並んで室内をゆっくり歩き、指さしては手話をする。その後ろに無言でヘストが続く。彼は嫌だったのだが、ミラーに一緒に見て手話を覚えろと言われたので仕方なく同行している。

「外へ出るよ。これは土」

『土』

「これは木」

『木』

 ミラーが指さすものの名前を何度も手話で繰り返す。それはどこにでもある、あって当たり前で生きていくなかで気にとめることも無い存在ばかりだ。それをタルヤは毎回楽しそうに手話をする。耳が聞こえずそれらの名前を知らなかった少女にとって、新鮮な体験なのだ。

 ヘストは周囲を見回す。こんな風にゆっくりと風景を見たことは無かった。風景というのは暗殺対象に近づくのに隠れやすい場所を確認するため、あるいはどこかに敵が隠れていないか探るために見るものだった。土の色、葉が風に揺れる音、老女と少女が共に歩く姿。当たり前のものを全て見逃して生きてきた。

「おいヘスト。どこ見てんだい。まったく、タルヤ、さっき教えたやつをあいつに教えてやりな」

『………』

「それは何だ」

 タルヤは空へ指を向けた。そちらへ顔を上げると眩しさに目を細める。

「太陽だよ」

 ヘストが顔を戻すとタルヤがもう一度手話で話す。

『太陽』


 夕食後、タルヤとミラーが会話をしている。手話の勉強ではなくて雑談だ。これが手話の復習にもなる。

「父と母。タルヤの両親ってことだ」

『ミラー、ヘスト。タルヤ、父、母?』

 まだ複雑な手話ができないタルヤは単語だけの会話になる。また手話の理解も未熟だ。

「違うねえ」

『だれ?』

「そうだね……ま、ジジイとババアでいいだろうさ」

『それ何?』

「死にかけってことさ」

『ミラー、ヘスト、死ぬ、ダメ!』

 ミラーはタルヤの肩に手を置き、もう一方の手で頭を優しくなでる。

「……いい子だねぇ」

 その二人の姿をヘストは壁際で椅子に座り、静かに見ていた。


   ■■■


 二ヶ月後ではなく、一ヶ月後に迎えが来た。二頭立ての馬車に御者の男が一人だけ。幌つきで荷物はほとんど乗せていない。

「二ヶ月だったはずだけどな」

「知らん。三人乗れ」

 ヘストは御者をしばらく睨みつけたが意味のない事だ。

「どうだって?」

「俺とお前とタルヤ、全員乗れってことらしい」

「この子だけじゃなくてよかったよ」

 ミラーはタルヤの体を抱く。見上げるタルヤと見下ろすヘストの目が合う。少女の瞳にはかすかな不安が揺れていた。

 馬車で二日、船で川を三日下り目的地に到着した。そこは高い石壁に囲まれた都市だった。多くの人間と馬車が行き交う道の端を、待っていた案内人を追って歩く。タルヤの手をミラーはしっかり握り、決してはぐれないようにしている。ヘストは油断なく周囲を警戒しながらも、案内役の男とタルヤとミラーへも意識を向ける。

 しばらく歩いていると人通りが少なくなり、道も狭く建物も古く汚れた場所へ変わった。そして一軒の建物の前で止まる。

「ここでお前たち三人は生活してもらう」

 中はヘストの家とほぼ変わらない広さだった。ただ壁がレンガを積み上げたもので天井も低く、少し窮屈に感じられた。

「数日後に【獲物】がここにやってくる。確実に仕留めろ」

 ヘストとミラーの目が、まるでその【獲物】を前にしたかのように変化する。

「こっちは二ヶ月だって聞いて準備してたんだが、急に連れてこられてろくに訓練もできてないぞ」

「そのガキはエサだ。エサに食いついてる間に二人で仕留めろ。ガキが殺せるならそれでもいい」

「……手順はどうなってる」

「ある貴族が使用人の女に産ませたガキがそいつだ。という噂を貴族の親に流した。その貴族は死んじまって子供はいない。で後継者がいないそいつは、慌ててこの庶民に産ませた孫娘に会いに来るってわけだ」

 なぜタルヤに密着状態での暗殺術を教えるのか理解した。孫娘を目にした祖父は近づき顔をよく見ようとするし、抱きしめようともするかもしれない。その時に刃物を急所に突き立てればいい。

「どうするんだい?」

「どうするって、やるしかねえだろ」

 新しい家のなかでヘストとミラーは向かい合い椅子に座っている。時刻は夜で、小さな蝋燭ではお互いの顔がなんとか見える明るさだ。タルヤはすでに寝ている。

「タルヤにやらせるつもりかい」

「……あいつも言ってただろ。いざってときは俺とお前でやりゃあいい」

「本当に貴族の子供なのかねぇ」

「嘘に決まってるだろうが」

「タルヤも母親のことをほとんど覚えてないからね」

 仮だったはずの名前は、タルヤに決まった。彼女には誰かに名前を呼ばれたという記憶がなかったのだ。物心ついたときには貧しい夫婦の家で、掃除や洗濯、井戸からの水汲みなどをやらされていたという。ある日突然誘拐されてヘストの元へやって来たのだ。

「あたしにも孫がいたら、タルヤぐらいなのかねぇ……」


 翌日、三人は一緒に家を出ると、周辺を歩き回る。逃走経路を確認するためだ。

 タルヤとミラーは仲良く手話をしているが、ヘストは険しい表情で周囲を確認する。

 ひどく空気が緊張している。そこかしこから危険な気配を、長年鍛えたヘストの危機察知能力が感じ取っていた。歩いているとき、すでに何人かの【同業者】とすれ違っている。それだけ多くの人数をこの作戦に投入しているということだ。獲物はよほどの大物らしいと、ヘストは認識を改める。

 笑顔で手話を滑らかに操るタルヤを横目で見る。その表情から、少女が暗殺者集団の一員だとは誰も思わないだろう。ヘストもそうは思えなかった。

 ただ耳が聞こえないだけの少女。彼女に人を殺させるのはヘストだ。そう訓練してきた。

 ヘストは暗殺という行為を最低最悪のクソな仕事だと思っているが、やりたくないと思ったことはない。彼は人生で初めて『嫌だ』と感じた。


 四日後、貧しい人間たちが暮らす界隈にふさわしくない綺麗な服装の貴族の男は、十人ほどの鎧を着た騎士たちに守られながらヘストたちの前にあらわれた。

「君が、君がそうなのか? よく顔を見せてくれ」

 顔にはシワがあるが肌荒れのない男は、まさに貴族といった雰囲気を持っていた。

「この目……本当に私の息子そっくりだ」

 男とタルヤの瞳の色は同じ色だった。

 狭く汚い貧民区域の道で、涙を浮かべ嬉しそうにする男と困惑した表情のタルヤを見ながら、ヘストはミラーからの視線を感じていた。その意味も理解している。貴族の顔は、タルヤと驚くほど似ていた。本当の家族なのではと思えるほどに。それは時間が経過するほどに強くなる。

 タルヤがヘストに視線を向けていた。その意味に体が強張る。少女は彼に、殺していいのかと聞いていた。彼女はすでに刃物を隠し持っている。許可すれば刃物を振るう。たとえ殺せなくても、その隙にヘストかミラーが殺せばいい。

 迷う。本当に二人は肉親のように見える。本当でなくてもいい。

 空気が変わる。周囲の温度が下がった気がした。いくつも気配が動く。周囲に待機していた暗殺者たちが一斉に貴族の命を狙い定めた。タルヤの指がかすかに動く。

『駄目だ!』

 ヘストは叫ぶと同時に手話をタルヤに見せると、駆け出す。それを合図に周囲の暗殺者たちが殺意もあらわに行動を開始。屋根の上にいた者が矢を放った。

 ヘストは貴族の男を狙った矢を短剣で弾き飛ばした。その勢いのままタルヤと貴族の男をまとめて家の中へ放りこむと、扉を閉める。

 騎士の一人が体に矢を受けて悲鳴をあげていた。さらに何本もの矢が降り注ぐ。混乱する騎士たちに、どこから現れた暗殺者が武器を振り下ろそうとすると、その首が切断された。

「騎士ども! 主人を守るんだよっ!」

 ミラーが叫ぶ。片手には剣。彼女の杖には剣が仕込まれていた。

 何人もの暗殺者が一斉に迫り来る。武器もナイフ、剣、棍棒、槍など様々だった。それらを弾きかわし、ヘストは首へ腹へ短剣を振るい突き刺す。殺しても殺しても、次々と襲いかかってくる。

 男がタルヤが隠れる建物の窓から侵入しようとしていた。背後から刺し貫くと悲鳴をあげることなく絶命する。横から槍が突き出され腕に傷を作りながらも、相手を殺す。そして上半身を窓に突っ込んだ死体の上から、奪った槍を地面まで深く突き刺した。こうすれば他の人間が窓から侵入するのが難しくなるだろう。

 ミラーも剣を縦横無尽に振るい死体の数を増やしていた。それでも相手の数が多すぎる。背後から数本のナイフが同時に投擲された。

「ヘスト!」

 他のナイフは防げたが、一本がヘストの腹に刺さっていた。

「騒ぐなよ。そんな深い傷じゃねえ」

「何してるのさっ!」

「お前が死んだら誰がタルヤに手話を教えるんだよ。あの貴族にもな」

 それ以上話をしている余裕はない。敵はいくらでもいる。

 弾かれたように二人は飛び出し、武器を振るい続けた。


 いつの間にかヘストは建物の壁に背をもたれ、地面に座り込んでいた。全身のいたるところが血にまみれ、頭から血をかぶったかのように汚れている。

『…………』

 誰かの声が聞こえる。しかし遠く小さい。

 糊で貼りつけられたかのように重いまぶたを上げる。まるで濃い霧のなかにいるかのようにぼやけている。

『…………』

 誰かが手を激しく動かしている。特徴的な指の形。覚えるまで何度もやらされた。それは自分の名前だ。

『ヘスト! ダメ! 生きる!』

 震える手を持ち上げ、指を動かそうとして、どの指をどんな形にすればいいのか思い出せない。そもそも何を言えばいいのか。

 小さな両手が手首を強く握ってきた。

「…………笑え」

 ヘストはわずかに歯を見せて笑った。




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