第5話

 午前8時、エルモンドとジェラルドはロゼッタが昨夜泊まった部屋を訪ねた。困り果てた侍女たちが、ロゼッタの部屋の前で、何事か相談しあっているところに鉢合わせた。


 どうしたのだろうかと、エルモンドが侍女に話かけた。

「皆さん、部屋の前に集まって何をしているのですか?聖女様のお世話は、誰がしているのです?」


「騎士様、それが……聖女様が嫌がってしまい、お世話をさせてもらえないのです」


「そうでしたか、突然のことで聖女様は戸惑っていらっしゃるのでしょう。私から話してみます」エルモンドはドアを叩いた。「聖女様、エルモンドです。入っていいでしょうか」


 すぐにドアが開き、泣き腫らした顔のロゼッタが現れ、その姿にエルモンドの胸は締め付けられた。


「おはようございます。聖女様」エルモンドとジェラルドは一緒に部屋に入った。


 ロゼッタは力無く、ソファにどさりと座った。昨日、このソファの座り心地に、うっとりとしていたのが夢のようだ。現実はというと、気を失いそうで、自分がおかれた状況を整理しようとするたびに——昨晩、全部吐き出してしまい、胃が空っぽになってしまったせいで、からえずきばかりを繰り返している。


 朝から知らない人ばかり訪ねてくる中、ようやく見知ったエルモンドの顔を見て、ホッとしたのか涙が頬を伝った。


「聖女様、お辛い気持ちは痛いほどわかります。今はたくさん泣いてください。我々がお支えします。どうぞ、遠慮なく頼ってください」エルモンドはロゼッタの手をギュッと握った。


 ロゼッタの涙がポタポタと零れ落ちる。

「……聖女なんて呼ばないでください。そんなふうに呼ばれたくないわ……私にはちゃんと名前があるの」


「分かりました。ではロゼッタ様とお呼びしてもよろしいですか?」


「ええ、その方が……いくらかマシね——えっと、マテオじゃないんですよね。エルモンド卿だっかしら、昨日のことを、あまりよく覚えていなくて」受けた衝撃が大きすぎて昨日の出来事がおぼろげだ。


 そういえば昨日の朝、ランチ用に作ったサンドイッチはどうなっただろうか?まだ食べられるかな?と、どうでもいいことをロゼッタは考えた。


「はい、本名はエルモンドです。ですが、敬称は必要ありません。ただエルモンドとお呼びください、彼は私の同僚で、騎士のジェラルドです」


「初めましてロゼッタ様。この度、ロゼッタ様の護衛に就かせていただくことになりました。王国騎士のジェラルド・バルドーです。私のことも、ただジェラルドとお呼びください」ジェラルドは気さくな態度を、少しだけ硬くし、ぴしりと背を伸ばした。「鋭意専心努力してまいる所存です。どうぞよろしくお願いいたします」


 跪かれては慌てるだろうし、手を合わせて深々と頭を下げられてしまったら、すでに死にそうな顔をした彼女が、呼吸を止めてしまうのでないかと、心配になったジェラルドは、相手へ敵意なしと示すための騎士の挨拶、挙手注目の敬礼をした。


「わあ、素敵、本当に騎士様なのですね……こんな状況じゃなかったら喜べるのだけど。ねえ、私これからどうなってしまうのですか?家に帰りたいわ、お父様とお母様のいる家に帰りたい……」


 ジェラルドの手を見て、ロゼッタは父の手はもっと大きかったと思うと、母親が、いつもキッチンの掃除用に使っている、オレンジの香りまで思い出してしまった。抑えていたものが溢れ出し、両手で顔を覆い、ついに、声をあげて泣き始めてしまった。


 エルモンドは、震える彼女の肩を抱きしめて引き寄せ、大人が子供にするように、そっと体を揺らし宥めた。


「——ロゼッタ様、大丈夫です。最近は魔族からの攻撃はありませんし、魔物の類いが出現したという報告もありません。ロゼッタ様が戦場に出向くような事態にはならないでしょう。ただここで、好きなときに本を読んで、庭の花を愛でたり、甘いお菓子を、たらふく食べたりするだけでいいのです」


 ロゼッタは泣きながら小さく笑った。

「そんなに食べたら太ってしまうわ——私、パンにジャムを塗って食べてみたいんです」


「王都中のジャムを買い占めてきます。飴でもチョコレートでも、お好きな物を、たくさん買ってきます」


「エルモンド、私怖いわ——とても怖いの」他国に連れていかれるかもしれないことも怖いけれど、聖女なんて大役に、自分が見合っているとも思えない。人から批判されたら、どうしようという不安に陥った。


 昨日までは、10歩で部屋の端から端まで行くことができたのに、この部屋は、端から端まで歩いたら、疲れてしまいそうだ。こんな待遇を受けていながら、期待に添えなかったら、皆を怒らせてしまうと思うと、足がすくんだ。


「コロニラ王国の騎士団は強いのです。どこにも負けません。必ず私が守ってみせます。だから、安心してください」エルモンドが言った。


 エルモンドは腕の中で、気絶するように眠りについてしまったロゼッタを、ベッドに運び横たえた。


「今日は謁見も、アフタヌーンティーも無理だと、聖女担当の秘書官に伝えてくる」ジェラルドは部屋を出ていった。


「エルモンド卿?」アリーチェ・アナスタシアは子爵令嬢だが、実家が裕福ではなく、14歳のとき王宮へ奉公に来た。かれこれ約20年間、侍女を務めている。侍女としの能力が高く評価され、聖女専属筆頭侍女に抜擢された。


「入ってください。聖女様は動揺され、心を痛めていらっしゃる。今日の予定は全てキャンセルにしましょう。我々は聖女様のお命だけではなく、お心もお守りする重責を担っています。今日は一日、ゆっくり過ごしていただきます」


「はい、分かりました。では、お目覚めになられましたら、まずは、お食事を召し上がっていただき、専属侍女の紹介は、折を見てということにいたします」


「食事は、チキンのサンドイッチ、トマトをたっぷりと、それから白パンにありったけのジャムを出してください。チョコレートもあるといいですね。それと本を数冊、グラムシとタッソーの哲学書を全部、それからジアマッティの『執着の愛』と、ゴッティの『満月に散る女』を探してきてくれますか?きっとお喜びになられます」


「はい、手配します」

 エルモンドの詳細な指示と、聖女様を見つめる温かい眼差しに、アリーチェは微笑んだ。 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る