朗読小噺

@uxohami

妻の姿鏡

 腹が空いた……と、そう思わせる時間になって参りましたね。しかしコンビニへ赴いても、結局何を食べるか決められず立ち往生、なんてことも少なくありません。ですから、ちょっと時間に余裕があって、そんでもって腹が空いてるのに何を食べるか決められないときは、私は駅のホームにある立ち食い蕎麦屋に行くことにしているんです。季節のものもありますし、ついでの外出にもちょうど良いですから。そこでね、隣で蕎麦を食うおじさんから、面白い話を聞いたんですよ。ちょっと怖いかもしれませんがね、よかったら貴方も蕎麦を啜りながら聞いてください。

 まず、そのおじさんというのは、50代くらいのサラリーマンでした。午前中のみで仕事を終えて、帰る前に飯でも食っていこうと蕎麦屋に寄ったらしいのです。ちらりと私がおじさんの目元を見れば、そこにはハッキリ濃い隈がありまして、「ここ最近は忙しいのですか?」とお伺いしましたら、「いいや、そこまでじゃあないんだがね、最近夢見が良くなくて」なんてケラケラ笑いながら言う。その笑顔があんまりにもやつれて見えた物ですから、なんだか心配になって、「夢は人に話すと良いと聞いた事があります。自分で良ければ、聞きましょうか?」って、声をかけたんですね。それから、おじさんがぽつりぽつり、と、悪夢の話をはじめました。

 部屋にね、姿鏡があるんだ。マフォガニーで出来たヨーロッパのアンティークで、随分と良い品なのだがね。なんでこんなおじさんが?って思うかもしれないが、実は妻の遺品なんだ。若い頃に妻が娘と僕を残して逝って以来、娘が毎朝支度をするのに使っていたのだが、その娘も大人になり一人暮らしを始めてしまってから行き場がなくて、今度は僕が毎朝の支度に使っているんだ。そんな大切なものだからかな、夢で、鏡の前に座って僕は食事をする。本当はそこに椅子とテーブルはないのに、丁寧に置かれて、細やかなレースのテーブルクロスまで敷いて、いつもステーキを食べるんだ。僕が肉を切るたび、鏡の中の僕も、肉を切る……口に運べば、口に運ぶ……鏡なのだから、当たり前なのだがね、全く同じ夢を毎晩見続けていれば不安にもなるというもので、安眠法をネットで調べて実践したり、サプリメントを買ったりもしてみたのさ。だけれど夢は変わらず見続けて、毎晩毎晩、僕はステーキを食べる。そうして気持ちが胃もたれしそうになってきた頃、夢でふと気が付いたんだ。脚が無い!ってことに。テーブルに隠されていてわからなかったけれど、僕の両脚は切られた様に、膝から下が無くなっていた。気がついて夢の中の僕は大慌てするのだが、一方で鏡の中の僕には脚があって、優雅にステーキを切っている。冷や汗が止まらないくせ、不思議と僕も同じ様にステーキナイフを動かして、そして口にステーキを運んでいくんだ。まるで手が、それが自然の摂理だって言うみたいにね。そこからは毎晩が悪夢さ。食事を平らげるたびに、下からどんどん自分の身体が無くなっていく。膝小僧、太もも、腰骨、へそ……どんなに僕の体が欠けたとて、鏡の中の僕は食事するのをやめなかったし、僕も咀嚼をやめることはなかった。滝汗をかきながら嚥下して、どんどん失っていく身体の分まで肉を食っていく。そして、腹、胸、二の腕、手首、指先、鎖骨、喉……頭まで失くして、僕が僕を見ることができなくなった時、とうとう自分が何をしているのか、自分の意思で動けているのかすらわからなくなって、鏡の自分を凝視する他なくなったんだ。僕がどうなろうと、鏡の中の僕がすることは変わらない。いつも通り、食卓のステーキを切って、嚥下して、どんどん皿を綺麗にしていく。だけどその日は少しだけ違った。鏡の僕が、最後の一切れを食べようとしてフォークを肉塊に近付ける。刹那、皿がひっくり返って、鏡に思い切りぶつかったのだよ。がしゃん!と大きな音を立てて、鏡面が花弁のようにフローリングへ散った。目を疑う程の量で、肉の油がベッタリと部屋を汚す。どうやら皿をひっくり返したのは、僕の様だった。胸がとても苦しいのだが、どうや息切れをしていたようで、呼吸を整えるために自らの胸に手を当てる。そこでパタ、と、自分の姿が見えること、鏡に自分が映っていないことに気が付いたんだ。そのまま、目が覚めて僕の元へ朝が訪れる。以来悪夢を見ることは無くなったんだがね、不思議で不思議で仕方がなくって、結局気になって眠れなくなってしまった。はは、馬鹿らしいだろう。なんだかね、これが亡き妻からの何かメッセージか何かではないかと……そうだったらいいなと思って、悪夢だったのに期待を抱いているのだよ。

 おじさんは事の顛末を、私に満足げな顔で伝え終えました。その幸福そうな笑みは、とても酷い悪夢を見た人の話とは思えず、深い目の隈をなぞる指先は、まるで恋人にするかのような柔らかさを帯びておりました。不可解ですね、聞いた方ばかりがモヤッとしてしまうんです。それでもおじさんは、空っぽになったそばの器を片して、「今日くらいはゆっくり眠るよ、妻に夢で会えるかもしれないしね」と快活に笑って蕎麦屋を去られたのです。……えぇ、なに?それは本当の話かどうか?さて、そんなの、私は当人ではないからわかりません。でも本当だとして、故人の絡まないただの悪夢であって欲しいとは思いますよ。だってそうじゃなきゃあ、私が蕎麦屋で話したおじさんは、本当に人間だった、って言い切れなくなるじゃあないですか。


お粗末さまでした。

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