第5話 【籠絡】
目標人物と接触完了。
「旦那様。どうぞ、お茶です」
「ああ、どうもありがとう。ところで、旦那様ではなく蓮と呼んでほしいのだが、構わない だろうか?」
酒が回ってきたのか顔がほんのり赤らんでいる。
「そのような、ご無礼なことできませんわ」
孤蝶がやんわり辞退すると、蓮はすねたように唇をかすかにとがらせる。
「そうか」
孤蝶はゆったりとほほ笑みながらお酒を注ぐ。
十時になり、表では店を閉じる時間になった。でも大概の客はまだ残る。しかし、蓮はす っと立ち上がると
「孤蝶花魁......あなたと話しているととても楽しい」
と言い、優美な微笑を残して蓮は帰って行った。
孤蝶は珍しいこともあるものだと思いながら部屋の片づけをさせて、今日は早く帰った 珍しい客のおかげでゆっくり眠れると寝室に帰った。
目標人物と交流完了、来週再接触を図る。
蓮はそれから一週間後にまたしても孤蝶を指名した。彼はかの有名な七華屋という香料の商家の御曹司らしい。
七華屋と言えば、他国にも流通している上質な香料を独占して取り 扱っている。そのせいかそこらへんの官吏よりも顔が利く。
蓮は少し慣れた様子で、でもほんの少し緊張しながらこちらにニコッと笑いかけた。
「こんばんは、花魁」
こちらもにこりと微笑返す。
「なぜこんなに肌が美しいのですか?」
気が付くとすぐ横に蓮がいた。そしてこちらに距離をぐっと詰めてきている。
「おや、旦那様。わっちの肌なんかに興味があるんですか?」
優しく蓮の顔に触れ、お前がそれを言うかと言いたくなるような絹のような肌を撫でる。
「いいや、真珠のように白くて綺麗な肌と思っただけなんだよ。失礼だったかな」
そう少し照れた顔でいう蓮を見ていると幼い弟を見ているような気分になる。
「そんなことはございませんよ」
孤蝶はお酒を注ぐ。
蓮がお酒を飲んでから会話が続かなくなる。 蓮は特にぶしつけな質問をしてくるわけでも変に酔って絡んでくるわけでもない。
そして話してこないわけでもない。少し笑い話をするだけだ。
「孤蝶花魁。琴を弾いては?」
宵香が耳元でささやく。
「準備して」
孤蝶の琴の音を聞けば他の琴の音なんか聞けなくなるといわれている。
「それでは一曲ひかせていただきます」
宵香の準備した琴を前に、孤蝶が礼をすると蓮はにっこり笑う。
「楽しみです」
孤蝶は最近修練以外で弾くのは久しぶりだと思いながら弾き始める。 しんと周りの部屋まで息をひそめたようだ。孤蝶の琴の音だけが店の中を響く。
ガタリ
ダダダッ
どこかの部屋が騒がしい。
「旦那様! 困ります! お待ちください!」
やり手の声も響く。
なにかあったのだろうか。 手を止めずにそんなことを考えているとその騒がしい足音がこちらに向かっていることに気が付いた。
ガタッ
襖が乱暴に開かれる。
「旦那様、お待ちを。旦那様」
禿達の制止も聞かずに一人の中年の客が飛び込んできた。一度だけ相手をしたことがあ る客だ。
「おい、この店はどうなってるんだ」
無視をして弾き続ける。
「この間俺が弾けと言ったときは弾かなかったくせにこいつの前だったら弾くのか!」
こちらに向かってドダドダと足音荒く近寄ってくる。 無視し続けていると急に手が伸びてきた。頬を叩くつもりだろうか。面倒だと思いながらも今の客はこの男ではない。
蓮が座っていた方に視線をやる。いない。
「何をなさっているのでしょうか?」
蓮はすぐ横に立っていた。そして男の手首を持っている。
「貴殿に花魁が琴を弾かなかったのは貴殿が失礼だったからではないですか? 花魁に手 を上げようとするような男に誰が琴を弾きますか」
そう冷静に諭しているが、相手の男の顔がみるみる真っ青になる。蓮の周りの空気の温度 がぐっと下がったようだ。
氷のような声色に孤蝶はその横顔を思わず見つめる。 冷たかった。いつもの快活にほほ笑んでいた顔がこうも変わるだろうか...... 冷たすぎて、逆に触れば傷ついてしまいそうな、そんな冷たさだった。
「な、なんなんだ......お、お前は」
「失礼、私は七華屋の跡取り、七扇蓮と申します」
店の名前を聞いた瞬間男の顔がより一層青白くなった。
「七華屋......! あ、あの......こ、こちらこそ失礼した......」
「いえいえ、私は構いませんよ。ところであなたのお名前は?」
「そ、そんな名乗るようなものでは......」
男の額に脂汗が浮かんでいる。
「名乗るようなものではないのでしたら......控えていていただけると嬉しいですね」
そして、にっこりと恐ろしい限りの笑みを向ける。
「ひ、ひぃ」
男はがくがくと足元もおぼつかない様子で部屋を出て行った。
孤蝶は唖然として、蓮を見ていた。
「失礼、あまり大事にしたくはなかったので、つい口を出してしまいました」
蓮はそう、孤蝶に向かって言うが、まだ怒りが冷めきらないようすで、酒をぐいと呑み、 席に戻る。孤蝶もその隣に戻る。
「いえ、助けていただき、ありがとうございます」
蓮はこちらをちらりと見ると、耳をぽっと赤くした。
「別に、何もしていません」
そう言葉少なに言うと、こちらから視線を逸らす。 ほんの少しだけ沈黙が続いた。 蓮の初心な反応が慣れずに孤蝶はなんともいうことができなかった。
「わっちが上手く対処をしなくてはいけないところでした。助けていただいたお礼になにかさせていただけますか?」
なんとか、この沈黙を終わらせようと、孤蝶は色っぽい手つきで蓮の肩に触れながら言った。
この機会を使って初心な青年からお金でも搾り取ってやろうか。
諜報にも金が必要だ。いつものようにころっと男が落ちるように誘惑する。
蓮は触れられた瞬間、ビクッと震えて、こちらをまじまじと見つめた。 孤蝶はにこりと笑み、目を伏目がちに、しかししっかりと連を見つめる。
蓮は耳をさらに真っ赤にする。そして、こちらも目に魅せられたかのようにグッとこちら
に向き直る。
そしてその視線が自分の真っ赤な唇に移動する。まっすぐな欲情が向けられて いるのを感じ、一層にこりとほほ笑む。
さあ、このまま......
禿達が蝋燭の光を落とす。
しかし、蓮は視線を無理やり振り切り、首を少し振る。
「そんな、お礼なんていりませんよ。お礼としてあなたが何かしてくれても僕が得れるものはなにもありませんから」
蓮はそうこちらを清廉とした目で見る。
「今日はありがとうございます。また来ますね」
孤蝶は拍子抜けした。
そのまま欲望のままに向かってくるかと思ったのだが、違った。
「ええ、それではお待ち申し上げております」
蓮はすっと立ち上がり、礼をして帰って行った。なんの未練もなさそうだったが、部屋から出るときに一度だけ、こちらを振り返った。目が合う。黒曜石のような瞳が一瞬だけギラリと輝いたように見えた。
それはねっとりとした男女の間に流れる欲がこもった目だった。
しかし、それを断ち切るようにもう一度軽く礼をして部屋を出て行った。
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