背に厭い人(3)
叫び声を上げて、男は肩を抑え得物を取り落としかけていた。それをゼルは見逃さなかった。まっすぐに立ち直すことはできなかったが、ぐらつく脚で一歩進み、ただ一心に長剣を叩き落とす。悲壮な泣き声を残して、男の武器は持ち主の手から滑り落ちていった。
すぐさま剣先を顔面に突きつけると、男は後退するのも諦めたか、ただ見下してくるだけだった。ゼルの隣にフェルティアードが来ると、男の両目はそろそろとそちらに向けられた。
「もういい。下げろ」
拳銃を持った腕を上げながら、フェルティアードはもう片方の手を刀身に乗せて下に押し下げた。大きな吐息と共に腕が落ちる。鞘に戻す微力さえ生まれてはこなかった。
「……わたしを殺しますか、フェルティアード卿」
この期に及びながら、礼儀正しい物言いだが人を食ったような態度だった。銃口はしっかりと男の額に押し付けられているというのに、品のない笑みは絶えていない。
「答え次第だ。誰に雇われたか言う気はあるか」
疲労の色は隠し切れていないが、淡々とした口調に変化はなかった。
「いいえ。何者にも口外するなという命令を出されていますのでね」
「もう一つ聞こう。おまえはエアルから回された者か」
男はかすかに疑念の色を浮かべたようだった。
「いいえ」
しばしの沈黙は、ゼルには永遠に感じられた。引き金にかかった指がいつ動くのかと、そればかり気にかかっていたのだ。いつ目の前で、この男の頭が破裂するのか。想像もしたくないし、できれば目を背けたかった。
しかし、まず動いたのは指ではなく、腕そのものだった。照準を額から胸に移し、フェルティアードは沈着に処遇を下した。
「ならばおまえは生かしてやる。おまえと同じ時を歩んだ兵達、ひいては国王陛下の信頼を足蹴にした謀反人として、我らが王都の門をくぐるがいい」
ここで罰せられ、死を宣告されると踏んでいたらしい裏切りのベレンズ兵は、驚愕と、これから襲い来るであろう羞恥からか、表情を硬直させた。しかし意外な形で、男の予想は叶えられることになってしまった。
空気を切り裂き烈風を纏い、剣よりも細長いものが男の首筋に突き立った。金の目が見開き、青の瞳が呆然と、その事態を働かない頭に送り込んでいる
「な……」
仰向けに倒れた男を目で追ったのはゼルだけだった。開けた視界、高い位置にある木立ちに身を潜めるように立っていた襲撃者に、フェルティアードは一瞬で狙いをつけていた。引き金が引かれ、弾丸が風を食い破りながら猛進するも、それが傷つけたのは堅い幹のみだった。
「……逃がしたか」
青い闇に溶けていった黒装束の男を、フェルティアードは追おうとはしなかった。腰に吊っていた専用の嚢に銃を戻し、首を射抜かれた男に目を落とす。
淀み虚ろな眼球を隠す力も、まぶたには残されてはいなかった。大地は大量の血液を吸い込み、赤黒い染みがただ広がっていく。男に寄り添うように落ちている矢には、太く編まれた紐が結び付けられていた。
生きた人間を二人だけ有した森の一角には、穏やかな風が巻いていた。一人が脚をひきずり、息絶えた兵達を見回り始める。もう一人はその場に佇んでいたが、やがて四肢の疲労が体を占め、両膝をついてしまった。
どれだけ血を流したのだろう。本格的な戦に比べれば、こんなものはしょうもない小競り合いだ。その程度でも、ゼルにとっては敷居が高すぎたらしい。
少しでも動くと、刃の欠片が埋められてるみたいに痛んでくる。脚の怪我から垂れ落ちた血が革長靴に溜まっていて気持ちが悪い。浅かったが、激しく動いたせいで右手の傷からも血が出ている。
「いつやられた」
剣を引っかける握力すら失っていた右手。他人のようにそれを眺めていたゼルにとっては、頭を持ち上げるのも一苦労であった。鮮血に色づいた男の下穿きの片方が目に入り、つい眉をしかめてしまう。
「これ?」
腕を上げようとするも、指先しか動かなかった。喉を震わすのも面倒で、言葉遣いはさらにぞんざいになる。フェルティアードはその返しに頷き、「そうだ」と肯定した。
「剣を絡め取る動きでなければ、その場所に傷は受けんはずだ。おまえは一度も剣を落としていないだろう」
さすがは歴戦の軍人といったところか、ゼルの行動はすべて把握していたようだ。
「さっきの真っ黒男に、ここに来る途中出くわしたんだ。そん時あいつと闘って、剣を取られて斬られた」
「……なぜ来た。命が惜しくはないのか」
ゼルは困惑したしかめっ面で、妙なことを言い出した貴族を見つめ返した。
「来なくてよかったっていうのか? 一人で敵に捕まって、あげく殺されそうになってたってのに、見て見ぬふりでもすればよかったのか?」
落としていた長剣をようやく拾い、鞘に収めながらのろのろと起き上がる。
「おれはベレンズの人間だ。国を支える一人であるあんたを助けるのに、命を張らないでどうしようってんだよ」
まったく、大貴族相手になんでこんな当たり前のことを言わなきゃならないんだ。
「異なことを言うやつだな。おまえはわたしが好かんのだろう」
「ああ、嫌いさ。あんたなんか大っ嫌いだ。でも仕方ないだろ、なんせあんたは大貴族様なんだからな」
皮肉っぽく言ったが、たいした反応は得られなかった。本当に理解できない男だ。高価な石像のようにお高くとまって、何を考えてるかわかったものではない。
「あと一つ言いたいんだけど」
「おれがあんたを助けたことについて、なんか言うことないのか?」
かしこまってもらおうとは思っていなかった。ただ一言、短くとも口にしてくれれば。
だが、黒い髭に縁取られた唇が開くことはなかった。ゼルが望む言葉を発するのを、迷っているのか恥辱と感じているのか、冷めた目からは窺い知れない。ゼルは呆れて息をつき、
「まあ、無理強いはしないけどな。目下のやつには頭下げたくないんだろ」
そう言った時には、複数の足音は明瞭になっていた。
先頭をひた走る金髪の青年が手を振っている。ゼルは精一杯の笑みを作って、彼らを迎えた。
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