背に厭い人(2)

「くそっ、そっちだ! ガキのほうを片付けろ!」


 命令を下したのは、フェルティアードと面していた元ベレンズ兵だ。逃げ腰になっていた残りの三名が、束になってゼルに襲い掛かる。四方八方からの攻撃を彼が受け止め切るなど無理に等しい。その中の一人は、例のベレンズ兵だった。


 見過ごせない一心で戦いに身を投じたが、相手を殺そうとしてくる人間と剣を交えた経験など、ゼルにあるはずがなかった。おかげで今にも体中から気が抜けそうだというのに、さらに味方だった者と対峙を迫られている。フェルティアードはああ言っていたが、そう易々と思考を切り替えられる気は少しも生まれなかった。


 だが、ここでフェルティアードが自分側に対し闘えば、指導者格らしいあのベレンズ兵が、彼の背中を断ち割るに違いない。自分がどれだけ戦闘技術に長けていようと、一人倒すまでにはそれなりの時間を要してしまう。


「耐えろ」


 それがわかっていないはずはないのに、フェルティアードがよこしたのは、たったそれだけだった。ふざけるなと言ってやりたかったが、心の中で罵るにも一人の剣が喉元へと突き進んでくる。


 こいつを防がなければ。他二人の、脚を突き刺そうとする剣は無視し、下から跳ね上げるように得物を振り、軌道を反らす。その代償として鋭い痛みがわき腹と太ももを撫でたが、そちらにかまってはいられない。


「おい、おまえらそこから離れろ!」


 焦ったような声は、またあの裏切ったベレンズ兵のものだ。おれを殺せと言ったそばからどうしたっていうんだ。もしかして味方が到着したのか? 致命傷だけは受けまいと必死だったゼルは、剣ではない武器を握った腕が後方から伸びてきたことに、それが爆音を打ち鳴らすまで気付けなかった。


 馬鹿みたいにまぬけな驚声がゼルの口を突いて出てきた。霧に覆われたように、聞こえる物音全てが不確かだ。それに、冷たいとも温かいとも感じられない、生ぬるいようなものが頬に張り付く。嗅いだことのない異臭も漂い、反射的に閉じていた目を開かせた。


 対峙していた三人が二人に減っている。左端の男が消え、残った二人が空白になった領域の足元に目をやり、そして視線はゼルに移る。正確には、ゼルの肩口あたりで煙を吐き出している、直線に近い筒状のものへと。


 持ち手の部分のみしなやかな弧状になっているそれに、ゼルは釘付けになっていた。これが小型化した、しかし威力は極端には落ちていないという拳銃か。重厚感のある銃身と、丁寧に磨かれ滑らかな木製の銃床。握り手の先端は丸みを帯び、眩しいまでの白金に包まれていた。中間にある金属片の集合体が、おそらく発砲のための仕掛けになっているのだろう。


 フェルティアードが撃ち殺したのは、寝返った味方兵だった。迷いなく即死に近い形に追い込んだこの男の銃と手には、赤いものが細かく散りばめられている。飾りでも刺繍でもない。返り血だ。今さっき、自分の顔にも飛んできたではないか。


「わたしの手がすけば、これの用意も容易たやすくなるというものだ。無駄だったな」


 手早く拳銃をしまうと、フェルティアードは再び長剣を手にして二人目と斬り合った。我に返った三人目は、ゼルと斬撃の火花を散らす。

 血の筋を描きながら、フェルティアードの刀身が閃いた。火器の登場に虚を突かれたのだろう。さして対等に渡り合うこともできずに、エアル兵の男は敗れ去った。


「そいつはわたしが相手する、おまえはやつを追え!」


 ほとんどの敵兵は倒し切った。残るはフェルティアードが受け持ったこの男と、エアル兵達に命じていたベレンズ兵、そして謎の男だけだ。

 確かベレンズ兵は後ろにいたはずだ。振り返るも、すでにかの人物はいなかった。ややひらけた、陽の光が大量に差し込んでいるほうへ、彼は逃げ去ろうとしていた。そこを突っ切られれば、太い樹木達の陰りが彼の姿を塗りつぶしてしまう。


「待て!」


 男の足が速まるだけなのだが、ゼルはそう口にせずにはられなかった。どうしてこんなことをしたんだ? 大貴族ともあろう人間を捕虜にするでもなく、人知れず殺そうとしたなんて。それともこの男はベレンズではなく、エアルの人間であることを偽っていたのか?


 全速力で走り出そうとした片足を、じくりと深い鈍痛が駆け巡る。ここで倒れたら絶対に逃げられてしまう。歯を食いしばり服の内を滴り落ちる血の感触を振り払い、ゼルは己の体に鞭打った。


 距離はそう離れていなく、腕を突き伸ばして斬りつけた。無論届きはしないとわかっての行動だ。突端が男の背を、紙で指を切った程度に傷つけたに過ぎない。しかし彼を戦闘に誘導するには十分なきっかけだった。男は得物を抜きながら、ゼルを真正面に捉えた。


「腹も脚もやられたのか。そんなんでおれに勝つつもりか?」


 ふざけて笑っていた男とは思えない、醜悪な面構えだった。大量とまではいかないものの、出血も止めずに動き回ったせいか、ほんの少ししか走っていないのに息が上がっている。力が抜ける、というよりも入らない。


「勝とうなんて思ってないさ」


 このまま話すだけで時間を稼げれば、どんなにか楽だろう。だが現実はそうはいかなかった。気力も体力も限界に迫っていたゼルに、男は容赦なく突っ込んできた。


(こいつ……怪我したとこばかり狙ってやがる)


 行動そのものを止めるためか、凶器は赤く変色した大腿を何度もかすめていた。思い出したように上半身も歯牙にかけようとするので、気を張っていなければならない。こちらにはそんな精力はもうないというのに。


 逃がしだけはしない。自分が倒れなければ、こいつはこの場に留まり続ける。フェルティアードが最後のエアル兵を片付けるまで粘る必要があるのだ。

 相手の突きをかわす。そうしたつもりが、刃は脇腹の裂傷をなぞっていた。文字通り身を切られるような痛みは立つ力までむしり取り、嘔気に似た呻きが喉を駆け上がってくるのを、空気ごと嚥下する。


 腕をついて屈み込んだ青年を、男は動けないものと見て早々に踵を返そうとした。それを引き止めたのは、地を這ってきた人間の手だった。


「逃がすか……!」


 左手が男の足首を万力のように締め上げる。どこからわいてくるのか、ゼル自身も驚くほどの力だ。目に見えぬ何かが、外側からその手を押してきているようにも思える。男は化け物にでも遭遇したかのような驚相で状況を見下ろした。


 剣を突き刺し、それを支点にのろのろと起立する。手を放すと男は慌しげに武器を構え直した。一度体勢を崩したせいで、顔にかかった髪には土くれが降りかかっていたが、戦意の消えない碧眼には、それすらも見えていない。


 突然、男の顔色が変わった。同時に、背後から不規則な足音がする。フェルティアードがこっちにやって来たのか。腰の引け始めていた男の進路を絶とうと、ゼルは彼を戦闘に引きずり込んだ。斬りつけられるとわかっていて背を向ける者などいない。男が応戦し攻撃を払いのけられ、足がぐらついた瞬間だった。


「伏せろル・ウェール!」


 耳元で手を叩かれたようだった。不鮮明だった全ての感覚が一挙に晴れ、その言葉の意味するところもすんなりと入ってきた。膝を折り――正確には安堵から気が抜けたせいなのだが――息を吐く。金属の球が肉を穿つ、生々しい音が聞こえたのはその直後だった。

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