リクレアの青年(2)
薄く開いた
幸い、デュレイが固まってしまった位置は、フェルティアードの歩く線上ではなかった。それでも、石のように重い足を引きずり、後ろに下がる。実際には半歩も移動していなかったのだが。
ここを通って、フェルティアード卿はどこへ行くのだろう。第二書庫以外にも、剣の稽古をする場や宿舎などが、表の庭以上に広大な敷地に連なっている。自分の前を通り過ぎていく大貴族に頭を下げたところで、デュレイは出兵のことを思い出した。
「フェルティアード卿」
大きな声ではなかった。人の気配もなくこうも静かなら、そうする必要はなかったのだ。ただ、はっきりとした言葉にすることは忘れなかった。
芝生の鳴く音がやむ。黒髪の合間から一点の光が現れ、デュレイの顔を捉えた。
「近く、戦地に参られるとお聞きしました。一介の兵の身ではありますが、
言い終えて頭を垂れたのは、礼儀に沿うためだけではなかった。細く鋭く刺し突いてくる視線を、受け続けることができなかったのだ。視界にかの大貴族はいないというのに、デュレイはしっかりと目を閉じていた。
かさり、と聞こえたのは草音。フェルティアード卿が歩き出したらしい。声の一言もかけられなかったのは少々腑に落ちなかったが、わざわざ立ち止まって聞いてもらえただけ良しと思わなければ。
大貴族からしたら、デュレイの激励など社交辞令にしか聞こえなかっただろう。そう思われていても構わない。真意が伝わることがなくとも、フェルティアード卿が戦い、無事帰還することを願っているのに、違いはないのだから。
「誰に聞いた」
目を開き直すだけに留まらず、デュレイは髪を激しく揺らし顔を上げた。デュレイに対し真正面に向き直っている以外、フェルティアードは先ほどと変わらずにそこにいた。
デュレイにとって初めて聞くその声は、地を這うように重苦しく、抑揚がなかった。それがフェルティアードの普段のものとは知らない彼は、恐ろしく厳しい響きに感じたのだ。
「っ、私の、友人です。フェルティアード卿の指揮下におります」
喉の奥から引きつった声が漏れる。それを無理やり飲み込み、うまく回らない舌に台詞を乗せた。必死に平静を装っているせいか、そんなデュレイの焦りに気付いていないらしいフェルティアードは、畳み掛けるように質問を続ける。
「名は」
「ゼ、ゼレセアンです。ジュオール・ゼレセアンと」
「ゼレセアン……」
口元に手を当て、ふっと下を向いた大貴族を見て、デュレイの脳裏をゼルのとある質問がよぎった。
「ル・ウェールと言えば、おわかりになりますか?」
ゼルは、フェルティアード卿が出身地の名で呼んでくる、と言っていた。本人は嫌がっていたようだったが、この呼び名ならすぐわかるはずだ。何せ当の本人なのだから。
予想通りフェルティアードの口から、ああ、と納得するような声がこぼれた。
「おまえはル・ウェールの友人か。名は何という」
「はい。デュレイク・フロヴァンスと申します」
「おまえもウェールから来たのか」
デュレイにまた礼をする暇も与えず、フェルティアードは問いかけた。
「いえ、私はリクレアの者です」
「ではなぜ奴を友と呼ぶ」
まっとうな疑問であった。同じ、もしくは近隣の町ならまだしも、リクレアとウェールは気軽に行ける距離ではない。そんなに近いなら、フェルティアードもウェールという村を知っていただろう。
「彼は、私の恩人ですから」
髪の毛一本分すら目玉を動かせない。瞬きするのにも神経を使っていたが、“奴”という言葉にその集中が緩んでいた。
どう解釈しても、ゼルを指していたとしか思えない。おれに言ってないだけで、実はぶしつけな言動を取っていたのか? 気に障ることでもやらなければ、大貴族ともあろうフェルティアード卿が、こんな言い方はしないはずだ。
「恩人?」
呟きのようなフェルティアードの問いに、デュレイはゼルと出会ったあの川での出来事を話し始めた。溺れている子どもを助けに行ったこと、そこにゼルが手助けに来てくれたことを。自分が溺れかけたところは、話を進めるのをためらってしまったが、これを話さなければ意味がない。ただ単に手伝っただけなら、ゼルのことを恩人とまで呼ぶことはないのだ。
「変わったやつだな」
抑揚のない声に、デュレイは心の中で首を傾げて、「そうでしょうか」と返す。
だが、本当は真っ向から否定したかった。危険もかえりみず、ゼルはあの小さな体で自分を抱えてくれた。目を覚ましてゼルと言葉を交わした時は、冗談交じりで重かったろう、なんて言ったが、本気で助けようとしていたからこそ、ゼルはがんばってくれたんだ。
「己と同じく、新たにベレンズの兵となる者を助けるとは、根回しのいいことだ。やつはそんなに高い地位を望んでいるのか?」
根回し? もしかしてフェルティアード卿は、ゼルは恩を売るためにおれを助けたと思ってるのか?
ゼルは気付いてたんだろうか。先に川を渡っていたおれが、徴兵でベレンズに向かっている人間だと。いや、おれはずっと背を向けていたんだ。わかるはずがない。おれはただの旅人で、ゼルはその旅人と子どもを救っただけだ。
「確かに、ゼレセアンは大きな夢を持っています。ですが、そのために私を助けたのではないと思っています。第一、私をベレンズに向かう兵だと特定する要素を、彼は私を助けるまで持ち得なかったはずです」
「そうか? 舟のこぎ手とおまえの話をしたかもしれんぞ。船頭というのはよく喋るからな」
そう言われて、デュレイは岸に着いた時のゼルの言葉を思い出した。そう言えばゼルはどこかに行くのか、と聞いた時、“きみと同じ場所”だと――ベレンズだと言っていた。つまり、ゼルはおれが、ゼル自身と同じ境遇にあることを知っていたんだ。
それじゃ、ゼルはやっぱり恩を売るために? その考えはしかしすぐに打ち消された。
「それもあり得ることでしょう。しかし、ゼレセアンはそんな男ではありません。彼には自分のことどころか、他人を気遣ってくれる優しさがあります」
「知り合って間もないというのに、ずいぶんと肩を持つのだな」
言い放つごとに、デュレイの足は少しずつ歩み出ていた。しかし彼は気付かず、さらに続ける。
「ゼレセアンはあなたの兵ではありませんか。なぜ彼をそのように言うのですか」
「知っているか、小僧」
ぞく、と脚が震えた。あらぬ疑いをかけられようとしている友をかばうためとはいえ、大貴族相手に進言し過ぎたみたいだ。デュレイがとっさに非礼を詫びようとしていたなど知らないフェルティアードは、緊張ではなく恐怖で動けなくなった彼に続きを投げかける。
「今の世には、高い位を得たいがために心にもない言葉を吐き、人に接する者がいるのだ。悪知恵ばかり働き、国や王、ましてやこの地に住まう人々のことなど考えず、己の立身出世しか頭にない愚か者がな」
瞬間、畏怖が激昂に変わった。
「ゼレセアンもそうだというのですか」
口を突いたのは怒気を孕んだ音だった。体の中心から末端へ、じわじわと占めていくものが生じたのは、思いがけず腹に響くまでの声量を出してしまったのが原因ではない。
手のひらと足先にたどり着いたそれは熱に変わっている。そのまま、冷え始めた空気に吐き出してしまいたかった。しかしそれを許すことはデュレイにとって、ゼルを軽んじられたことを無視するのと同じに思えたのだ。だからデュレイは、拳を握り締め地を踏み込んだ。そのせいで行き場を失った奔流が渦巻く。
「奴は夢を持っていると言ったな。それはなんだ。貴族になりたいとでもぬかしたか」
手袋を通しているのに、爪の硬さを感じる。やたらと脇を見たがる目を、強引に前に向かせた。
「彼は何よりも、村のことを想っているのです。村のために何かをしてやりたいと」
白鳥亭にいる
「理由はどうとでもなるだろう」
しかしフェルティアードはデュレイの弁明を一蹴し、会話を打ち切るように身を翻した。
「フェルティアード卿!」
それは怒号にも等しかった。まるで、この場に新たな三人目の人物が現れたかと思うほどに。名を叫ばれた男は金髪の青年に背を向けたまま、踏み出したばかりの足を止めた。
「いかにあなたが大貴族といえど、私の友人にそこまで言う権利はないはずです。ご自分の指揮下にあるというのに、あなたは彼のことをわかろうとなさらない」
反応らしき反応はなかった。ただ一つ、肩越しに睨んできた、静かな炎を灯した鈍い金の瞳以外は。
それを見ても、デュレイの中に恐れが再誕することはなかった。いや、恐れを知覚する隙間すらなかった。デュレイの思考を占めた感情は、既に“畏れ”の壁を突き破っていた。壁を越えた彼が対峙しているのは、貴族の最高位に座する者ではない。命を救ってくれた友を辱めた、一人の男に過ぎなかった。
「それなのに、彼を身勝手な人間だと決め付けるなど。……フェルティアード卿」
その男に対し友の名誉を取り返すため、デュレイは静かに、音の一つ一つを噛み締め、確実に宣言した。
「あなたに、決闘を申し込みたい」
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