石狼(2)
「きみは、フェルティアード卿の?」
「はい。ゼレセアンといいます」
短い問いだったが、それが“フェルティアードの指揮下の者か”どうか、という意味だとわかったので、ゼルは自分の名も添えて答えた。シャルモールはそうか、と頷き、髭で覆われた顎を指でなでる。
「彼のことを好いてはいないようだね」
つい彼を見つめてしまっていた。確かに強い尊敬の念を感じたことはないが、なぜ会ったばかりの彼にわかるのだろう。ゼルにはわからなかったが、先ほどのゼルの目つきを見た者なら誰でも、この青年がフェルティアードにいい感情を持っていないことは明らかだったろう。
そんな風に見られていたとは露知らず、ゼルは返す言葉に迷っていた。まさか己の師となっている貴族について、本心のままの気持ちを話すことは、さすがに憚られた。かと言って嘘をつくのも、自分を偽るようで気分が悪い。
しかし、当の相手はゼルの発言を待っている様子ではなかった。フェルティアードが姿を消した廊下の先を眺めながら、シャルモールは続けた。
「変わってしまったからな……彼は」
呼吸と聞き間違うかと思ったその声はか細かったが、ゼルの関心がそれに向くのに、声量の大きさは関係なかった。だから、
「シャルモール卿は、フェルティアード卿と親しいのですか?」
そう聞く直前、彼がこちらに振り向くまでのほんのわずかな
「いやいや、まさか。わたしなんか彼の足元にも及ばないさ」
胸元にやった手を下ろす時、ゼルは彼が持つ宝石を見ることができた。貴族の外套よりももっと深い、しかし美しく輝く紺碧。どの辺りの階位だったかは思い出せないが、ゲルベンス卿より二つは下だったはずだ。
「ですが、“変わった”とおっしゃったので。以前は今とは違うお人柄だったのですか?」
彼が話題を提示したわけではないのに、ゼルはそのことに踏み込んでいった。
シャルモールは、遠慮がちに口を開く。
「わたしが知っている昔の彼というのは、人から聞いた話なんだ。だからあまり詳しくもないよ。全て真実だと思い込まないでほしい。それでもいいかい?」
これから向こう二年、ずっと付き合う男なのだ。その長い期間を、悪い印象を持ったまま過ごすことを、ゼルは望んではいなかった。
フェルティアード卿にについて、何か少しでも知ることができるなら。ゼルはためらわずに「お願いします」と答えていた。
「それじゃ、少しだけ。フェルティアード卿は、それはそれは勇ましい戦士だったそうだ」
おとぎ話のような語り口にゼルがくすりと笑うと、シャルモールの口も緩やかな弧を描いた。当然、ゼルが見ることのなかったあの笑みとは異なっていた。
彼の口にしたことは、その口調もあってすんなりと頭に入ってきた。しかしそれの意味するところは、“今はそうではない”ということだ。
「特に国王陛下に対する忠誠心は人一倍厚く、今現在の地位に上りつめる前から、彼は“国王の牙”と呼ばれていた。陛下に仇名す者があれば、それを排除し陛下を守ろうとする。まるで伝説に出てくる銀狼が、人になって現れたようだと言われていたらしい」
彼は黒髪なのに、初代キトルセンに力を授け、共に戦ったという銀の狼に例えられるなんて。そのくらい、彼の勇猛さには目を見張るものがあったんだろう。
しかしね、と続いた押さえ気味の声に、ゼルは改めてシャルモールの目を覗き込んだ。
「この銀狼は、かつて邪悪なる者に、呪いをかけられていたという。戦い勝利するほどに、身を石に変えられる呪いだ。かくして彼は一線を退いたが、陛下は彼を石像としてお残しになったんだ」
「石像?」
初対面の貴族に対する言葉としては、留意が足りなかったかもしれない。だがシャルモールは、ゼルの反応に首を縦に振っただけで、咎めることはしなかった。
「そう。陛下に刃を向けようとした者がひるむような、恐ろしい石像だ。陛下は伝説として、“国王の牙”をこの王宮に掲げ続けているのさ」
これでわたしの知ってる昔話は終わりだ。シャルモールはそう言い、懐から手に収まるほど小さな何かを取り出した。
「おや、もうこんな時間か。ゼレセアン君、そろそろ刻限だ。早めに出たほうがいいぞ」
彼の手中にあったのは時計で、ゼルにも文字盤を見せてくれた。ゼル達一般兵士が王宮に居残ることができる時刻を、短い方の針がそろそろ指そうとしている。
「本当だ。ご親切に感謝します、シャルモール卿。では、失礼致します」
やっぱりそんな時間になっていたか。ゼルは焦りを感じて、王宮を去ることを第一に考えることにした。
シャルモールの昔話は、その言葉通りにとっても理解しづらいものだった。きっと民の中に広まっていくうちに憶測や思い込みが連なり、今のフェルティアードを体現するに丁度いい形に落ち着いた結果なのだろう。
本当はもっと聞きたいことがあった。しかし、話を終えると同時に時計を出したところを見ると、彼にもこの後に用事があるようだ。
ともかくこれで、フェルティアード卿が大貴族の名に恥じない活躍をしてきたことはわかった。あの手厳しさの理由は謎だけど。
シャルモールが時計をしまうのと、ゼルが礼をしたのはほぼ同時だった。顔を上げる瞬間、彼の腰の辺りに、拳銃が収められているのが見えた。
そういえば、貴族が持つ銃を初めて見た。王宮内だから弾は入っていないのだろうが、剣とは違う艶に、ゼルは一瞬目を奪われていた。
「ああ、ゼレセアン君」
別れを告げるようにゼルの外套がはためいた時、シャルモールが引き止めてきた。ゼルが振り返ると、表情を固くした貴族がいた。さっきの話の続き――ではなさそうだ。
「もうしばらくしたら、フェルティアード卿は戦地に向かわれるかもしれない。きみも覚悟していたほうがいいぞ」
戦地と聞いて、ゼルは身が強張るのを感じた。いつの間に戦が始まろうとしていたのか。戦争となったら、街はすぐその話で溢れてしまう。それを欠片も耳にしていなかったので、戦をすると決まったのは、つい最近なんだろう。
いつかは来ると思っていた出兵が、こんなに早い時期になるなんて。叔父さんに手紙を出しておかないとな。下宿に戻って、まずやることを決めたゼルは、再びシャルモールに謝意を告げた。
期待と興奮、そして一抹の不安を、ゼルが抱えているなどとは知らないシャルモールは、小さな青年が手近な裏口へ早足になるのを眺めて、踵を返した。
彼が足を踏み入れた廊下は比較的細く、窓からの明かりも届かない。奥に進むにつれ光が薄らいでいくなか、彼は呟いた。不気味なほどに薄い笑みを浮かべながら。
「石像に成り果てても、そこに在るのなら同じこと。我らの障害ならば、砕かねばなるまい」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます